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NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

終末期にさしかかった信頼の絆

2014/09/21 17:40:17  社会福祉
 成長戦略のために、女性の社会進出と少子化対策を図ることが、第2次政権に改造しても、変わらぬ現政権の一丁目一番地であるようです。そんなさなか、地域住民と対立関係にあり、その開設や運営に支障を来している保育園の苦悩を報じる新聞紙面に目が留まりました。報道によれば、「子どもの声がうるさい」などとして、地域住民が近隣保育園を相手取り訴訟を起こしている事例や、住宅地に保育園を新設する際に、騒音や渋滞を理由に地域住民から反対運動に遭い計画が頓挫した出来事が描かれていました※1。

 また、同様の報道は、6月にも同紙で報じられており、これらの事象は全国津々浦々の普遍的な現象であると受け止めることができます※2。報じられた幾つかの事例で共通してみられることに、子どもたちの声を「騒音」に見立てた地域住民の訴えがあります。特にこの度の報道では、工場などを対象にした市の騒音規制基準を保育園にも適応すべきとの訴えが成されているようです。なるほど。確かに機械で測定した数値によって、それを「騒音」だと断じることは可能です。しかし、工場の騒音と、ここで言う子どもの声たる「騒音」には本質的な違いがあることを度外視するわけにはいきますまい。

 私は、工場や空港などにおける騒音と、保育園における子どもたちのそれは、本質的に異なるものであると認識しています。その理由は、保育園の「騒音」の発生源は、言わずもがな人であって、ましてや、子どもたちの発する言動は、その子どもたちの発達のために不可欠なものであり、それが認められなければ個人の権利としての発達が満たされなくなるという所にあります。つまり、この「騒音」が認められなければ、子どもたちにとっては、それは、尊厳と権利の侵害に直結すべきものであると言えるのです。また、市街地や住宅街での地域住民に対する「騒音」に気遣うあまり、郊外や過疎地域への保育園“移転”を考えた場合、保育園関係者以外の地域住民などの多様な人々との接点を子どもたちは奪われることになりますし、送迎にかかる負担を家族や保育園が強いられることにもなります。

 また、周囲の大人たちに気を遣いながら、その顔色ばかりを窺いながら育った子どもたちは、将来どのような大人へと成長を遂げるのでしょうか。こう考えれば、上記の大人たちのやり取りは、私たちの未来の社会に対する弊害を堆積しているとも断定できます。一方、工場や空港などにおける騒音はその発生源が、モノである以上、技術的な創意工夫や、場所の移転によって解決を図ればよいものと言えます。

 これらの本質的な問題を顧みず、両者を錯綜させた議論をしようという風潮に私は戸惑いを禁じ得ません。まるで、人間の権利や尊厳が、モノと同様に扱われているように感じてならないからです。このようなことに思い巡らせながら、私は一つの問題意識を抱くようになりました。人々の暮らしや生命、尊厳や権利の「モノ化」が著しく進んでいるのが、現下の社会ではあるまいかと。この様な「モノ化」が、人々の尊厳の対極にあるということは言うまでもありません。また、モノであるならば、市場による取引も可能となり得るのです。人々の尊厳と権利が、モノと同様に扱われてしまう斯様な社会が豊かであるとは誰も思わないでしょう。しかし、まさに、この社会はいまそういう秋(とき)を迎えているのです。

 今回取り上げた報道は専ら児童分野にかかるものですが、実は、高齢者分野においても酷似した事例は数多あると認識しています。例えば、私たちの法人が昨今開設した介護保険事業所の実に殆どが、近隣住民から“目隠し”の設置を求められています。どういうことかと言いますと、住民によれば、認知症の人から覗き見されたり、認知症の人と目が合うことや、こちらの姿を見られることが不安であり、苦痛であるというのです。私たちは、すぐにこの訴えを受け入れるのではなく、経営理念を説明し、地域にひらかれた実践を行いたいこと、そして、思われているような迷惑をかける可能性は然程ないこと、何かあった際は速やかに対応させてもらうことなどを説明するのですが、開設準備の僅かな期間では十分な信頼関係の構築が出来ていないことも相まって、結局は、“目隠し”のためのフェンスを設けなければならなくなることが幾度もありました。

 いま多くの人々は、他者への関わりに強い煩わしさを感じているように見受けられます。他者への関わりに、忌避感が募り、他者との関わりを避けているように思うのです。道端で倒れている人に誰も声をかけない光景に出会ったり、地域で挨拶をしても返事が返ってこない体験を通じて私はこのことを痛切に感じるのです。また、他者への関わりに対する忌避感は世代を超えても循環が見られます。例えば、関東の大学の学食では、カウンター式の“お一人様席”が流行し、学生が一人で食事をとることを好むようになっていることや、地域の子どもたちに挨拶をしても返事がないといった経験を重ねながら、これら他者に対する煩わしさは、子どもたちにも蔓延していることを知りました。

 他者に対する忌避感から、他者への関わりを避けることによって、人々は、他者に対する慮りを喪失していきます。そして、それが深化すれば、他者に対する無関心化が起こります。この無関心化のところで留まっておればまだ良いのですが、その先に、他者に対する不安と恐怖が蔓延していきます。障害のある方とどのように接してよいか分からないといったことや、如上の、認知症の人が何を仕出すか分からないといった不安もこれに当たります。そして、不安と恐怖の先には、他者との軋轢と対立の関係が待っています。冒頭の保育園の新設反対運動であったり、「騒音」に対して訴訟を起こすことなどはこの代表例と言えるでしょう。加えて、この様なもめごとに巻き込まれることを忌避するかのように、人々は他者との関わりを更に避けるようになっているのです。現下の社会は、この様な負の循環の中にあると私は日々感じています※図。

 しかし、人々が他者に対する忌避感を醸成するに至るには、そこには何らかの理由があったはずです。そうです。人々のこの行動の背景には、社会的要因が根底にあると私は考えています。その一つとして、如上で叙述した人々の生命や、暮らし、権利・尊厳の「モノ化」があり、今一つは、人々の暮らしの質が高まっていないばかりか、むしろ減退していることにこそこの要因があると捉えています。株価やGDPの数値は確かに高まってはいるものの、大多数の人々の暮らしの質はむしろ低下の一途を辿っている。私はこの様に現下の社会をとらまえています。であればこそ、人々は自らの暮らしを守ることに傾注し、その結果、他者への関わりや慮りを行う余裕が、精神的にも経済的にも低減しているのではないかと考えるのです。

 かてて加えて、経済至上主義のもと社会に競争原理が蔓延し、人々に大きな経済格差を生み出しています。そして、格差が更なる競争原理を生み出すというこちらも悪循環の中にあるように思います。この格差は、人々の健康や防犯等の安全にいたる暮らしの質を退廃させ、連帯や信頼の関係を稀釈することに作用しています。この経済格差も、間違いなく人々の信頼の絆を壊していると言えるでしょう。

 再び、先の紙面から引用しよう。「この地域で子育て中の主婦は『確かに幼児は騒々しい時もある。電車に乗ると周囲に嫌な顔をされることもある。息苦しさを感じるが、時代の流れなのでしょうか…』と漏らす」※1。人々の信頼の絆を喪失した終末期においては、子どもの尊厳や権利は侵されやすく、それを守るべき家庭の負担と不安は増大します。結果、大人たちは子育てに負担と不安を感じるようになり、これから生まれてくる子ども自身のためにも、子どもを産まない・育てない選択をするようになるのでしょう。斯くして、現政権の狙う成長戦略も成就せず、人々の信頼の絆は再生不可能なまでに漸次凋落していくことになります。

 しかし、この負の連鎖から脱却する方法は必ずあるはずです。一つの方法は上記で論じてきた通り、成長戦略ではない別の戦略をもって、経済格差と不平等を改め、人々の暮らしの質を高め、市場原理の対象範囲たる概念を整理し、市場化すべき領域とそうではない領域の峻別をはかることにあります。

 そして、今一つは、私たち実践家にも出来ることがあります。奥田知志は、「絆には『傷』が含まれている」といい、「絆とは傷つくという恵み」であるとまで開陳しています※3。この様に立場や思想の異なる人々同士が、お互いを理解し尊重するために必要なことは、関わりと対話の機会とその体験であり、この場合によっては「傷つけあう」体験を通じることにより、はじめて相互理解への接近が可能となるのです。この関わりの体験と過程を経由して、信頼の絆は少しずつ構成されて行くのです。そして、この貴重な体験ができる圏域は、まさに地域であり、地域こそが、他者との関わりと対話の体験を通して、立場や思想の異なる者同士の相互理解を促進していく豊潤な場所であると私は考えています。

 人々の体験の堆積が社会を構成し、この体験の如何がその時代をつくるのだと私は考えています。戦争を知らない世代が、つくっている今の時代は、まさにこの事を如実に現わしているのではないでしょうか。この重要な体験のできる豊かな場所たる地域において、多様な人々同士を繋ぎ、関わりの機会と体験の場を数多創出していくことが私たち社会福祉実践家の一つの仕事であると私は考えています。特に、地域から排他・排斥される傾向にある誰かの支援を必要としている人々を、地域に包摂していくことは、地域住民に対して非常に有用な体験を与えることが出来る実践となると思っています。この有用な体験を地域で数多創造し、負の循環を正の循環に変換させていくこと。地域の絆の実践は、まさに、このことを推し進めるための挑戦であり、多くの人々との連携のもと、この挑戦を更に増進していきたいと思いを新たにする昨今です。


※1 『朝日新聞』2014年9月17日
※2 『朝日新聞』2014年6月3日
※3 奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社P.209-211 2011年7月
「自己責任社会は、自分たちの『安心・安全』を最優先することで、リスクを回避した。そのために『自己責任』という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には『傷』が含まれているという事実だ。ランドセルを贈ることは容易ではない。費用がかかるし、何よりも勇気がいったと思う。本当にありがたく、温かい。ただ私は『タイガーマスクじゃあ、もったいないなあ』と思っている。タイガーマスクに申し上げたい。できるならば、あともう一歩踏み込んで、あと一つ傷を増やしてみませんかと。(中略)傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら『出会った責任』が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感や自己尊重意識にとって、他者性と『きず』はかくべからざるものなのだ。(中略)絆とは傷つくという恵みである」。



「荒廃する世界のなかで」の社会福祉

2014/08/13 17:40:36  社会福祉


 我が国の社会福祉施策はいま一つの岐路に立っている。私がこの様に考える理由は、生活保護法の改悪と生活困窮者自立支援法の創設・医療介護総合推進法の成立・社会福祉法人制度の改革等、これらは社会福祉制度と実践の双方を漸次あるべき方向へと揺り動かす変革であると認識するからです。私たち社会福祉実践家は、今その時々、目の前の制度の変更にだけに目を奪われていてよいものではありません。政府が、このひとつ一つの変革を堆積し、人々をどのような社会へと誘っているのかを検証する必要があるのです。なぜならば、現下の社会がどのような趨勢・構造にあるのか、その事を理解することなしに、真の社会福祉実践など成し得ないからです。政府がどのような社会をめざし、そして、いま私たちの社会がどのような構造下にあるのか、少し饒舌感はありますが、ソーシャルワーカーの立場から検証を試みます。

 著書『荒廃する世界のなかで』を記した故トニー=ジャット氏によれば、公的部門の民営化は、納税者たる国民全体からみれば非効率であると断じています※1。赤字経営の状態にある公的部門を民間に委託するためには、政府による「法外な値引き」やリスクの除去・軽減が不可欠であり、その結果として「国家が安く売れば、損をするのは国民全体」という構図になるからです。また、氏によれば、民営化それ自体が経済の長期成長の刺激となっていることを確認しながらも、そこで得られた富の分配は、納税者・消費者から民間企業の株式所有者へと逆累進的に再分配が進んでいると指摘しています。

 巷間でよく見かける例で言えば、佐賀県武雄市の図書館業務のTSUTAYAとスターバックスへの委託、同市における小学校の一部業務をさいたま市の学習塾花まる学習会に委託することなどはその代表例として挙げることが出来るでしょう。この武雄市の取り組みなどは、マスコミも先駆的な実践として賛意を持って報道しているのですが、実は、これらの実践が蔓延していけば、国民全体にとっては不利益に帰結することへの理解が必要です。

 更に氏は、政府は、これら事業の「所有権」を民間部門に移行することで、道徳的責任を放棄することができるとも述べています。イギリスを例に挙げ、政府から民間部門に委託された事業の内、最も急激に上昇したのが、高齢者・子ども・精神障がい者向けの施設ケアであり、その結果、企業の利益や配当を増やすためにサービスの質が最低限度まで下げられたと結論づけているのです。社会福祉実践において、この公的責任の所在の問題ははるかに重要です。例えば、横浜市介護支援専門員連絡協議会の調査によると、「地域包括支援センターに併設されていない居宅介護支援事業所の半数以上が、新規利用者の獲得に苦慮している」と報じられています※2。同協議会の意見にもあるように、問題なのは、地域包括支援センターの多くが自治体から民間事業者に委託されているという事実であり、「結果的に市が特定の民間事業者を優遇してしまっている形になっている点」にあります。民間は公益よりも、組織の利益を優先する。そこから連なるように、公平性を欠いた判断をすることになるという典型例としてこれは分かりやすい調査結果ではないでしょうか。そもそも長きに渡って公的部門で成されていた事業は、それなりの理由があって、その役割を公的機関に委ねてきたはずです。そこには、公的な責任の固守であり、公正なる統制の機能があったことを忘却すべきではありません。

 さて、政府が目指す、そして、現下の社会構造の一つの特徴が民営化・市場化であることは言うまでもないでしょう。しかし、ここで問題にしているのは、長年公的部門で運営されてきた事業を次々に民間部門へと移行することの弊害です。民間部門は、自らの存続をかけて、常に利益を追求し続ける組織です。仮に、赤字になれば、事業の撤退・撤廃を検討するのが自然の流れでしょう。しかし、従来公的部門で担われているものの殆どが、たとえ赤字になったとしても、その事業の運営を継続しなければならないものなのです。消防や警察が赤字になるから撤廃すべきだという人はいないでしょう。福島第一原発のいつ終焉するのかさえ、誰も分からない最重大事故の処理を、膨大な経費の垂れ流しに繋がるので今すぐやめた方が良いという人も当然いないはずです。この様に、教育や医療、福祉、防犯・防災、環境などの人々の生命と暮らしにかかる分野は、収益の見込みがなくとも政府がその責任において取り組むべき範疇にあります。ここまで読めばお分かりでしょうが…、この社会における大前提となる基を失して議論がなされていることが、現下の社会福祉制度と実践の大いなる課題であるし、この流れが加速度化する分岐点に私たちは立っているとの認識が冒頭の発言に繋がるのです。

 であればこそ、目下議論の渦中にある社会福祉法人制度改革についてもこの視座によって論点を整理すべきであると考えています。社会福祉法人が収益を目的化する傾向が強まったのは、2000年の社会福祉基礎構造改革を淵源としていることは当時現場にいた者の皮膚感覚として強く理解しているところです。それ以前は、自治体直営の施設・事業所と社会福祉法人がほぼ対等な形で、各地における社会福祉の発展のため協働体制がとられていました。「対等」というのは、例えば、公立の社会福祉施設と同等の待遇を確保する観点から職員の給与や退職金(社会福祉施設退職手当共済)について公務員水準を確保すべく公的資金が補填されていたことを指します。

 しかし、社会福祉基礎構造改革以後、特に介護保険制度の創設によって、民間部門の参入を政府が促進し、社会福祉法人と営利法人の競争が始まると、競争における公平性の議論が喚起されることになります。その結果、イコールフッティングという名のもとに、社会福祉法人が今まで受けていた如上の“恩恵”は全て廃止されて来たのです。イコールフッティングというのであれば、別に、優遇されていない側を優遇されている側に合わせるという発想があっても良いものだと思いますが、政府の方針には公的負担の軽減が根底にある訳ですから、そうはならなかったわけです。

 また、地域に根差した互いに顔の見える中小規模の社会福祉法人と自治体の関係も、基礎構造改革以前は、凭れ合い・馴れ合いの関係であるとの批判を有しながらも、しかし、そこには一定の信頼関係が成立していた様に感じていました。顔と顔の見える関係を地域に構築し、両者の関わりの機会が多分にあった当時は、その信頼関係こそが双方の活動においてより重要であったのだと認識しています。当時は、自治体とサービス提供機関には、信頼の関係に基づいた指導・監督と運営があったのだと考えるのです。それが、大手の営利法人や多種多様な法人の参入によって、自治体とサービス提供機関は上記の信頼関係を逸していきます。この結果、自治体は信頼に基づく指導・監督ではなく、不審を前提としたものにその方法を転換せざるを得なくなりました。

 斯くして、サービス提供機関に対する自治体のチェック機能は強化されてきたのです。この様に民営化と市場化は、行政に膨大なるチェック機能を強いる結果となり、更にその帰結として、社会的コストが高じることや、自治体とサービス提供機関における信頼関係に悪影響を及ぼしていることにも注視が必要です。であればこそ、本来は自主性・創造性の重んじられる社会福祉法人の社会貢献活動についても、政府が義務化を図る対象とせざるを得ないのでしょう。

 しかし、いくら自治体がチェック機能を強化したとしても、民間に委託している以上、細部に渡るまでその機能を敷衍していくことは不可能です。その例は、いま巷を騒がしている未届・有料老人ホームや泊りデイサービスの実態把握及び指導・監督の難しさにも見てとれます。以上の様に、民営化と市場化は、自治体とサービス提供機関との信頼関係をも揺るがし、この瑕疵を基盤としながら、自治体のチェック機能の強化とそれを忌避するサービス提供機関との軋轢や対立を一部招いているようにも見受けられます。

 かてて加えてもう一つ、論じておくべきことがあります。先のトニー=ジャット氏によれば、「公共セクター崩壊がもたらす衝撃的な結果の一つは、私たちは自分と他者との共通点を理解することが次第に困難になってしまった、ということ」だと述べています※3。つまり、民営化と市場化そして、グローバル化によって、公益と私益が繋がっているという人々の共通理解が形骸化していることに警鐘を鳴らしているのです。私たちが皆社会化されている以上、他者との関係の中で各々の暮らしが成り立っていることは自明の理でしょう。自らの喜びは誰かの喜びに連なり、誰かの悲しみはやがて自らの悲しみへと繋がっていることが、公益と私益が相互作用の関係にあると捉える所以であると認識しています。そして氏は、この共通理解の希薄化が、例えとして、バスや電車、駅等の街並みにおける色とデザインの統一化を妨げるに至った現状についても論じています。このことは、まちづくりや地域福祉実践においてはとても重要なことで、民営化と市場化が、これら私たちの実践の妨げになっていると受け止めることができるのです。民営化と市場化が、人々の共通理解の稀釈を図るものであれば、現下の社会福祉実践における地域福祉や地域包括ケアが困難を極めている現実の理由についてもおおよそ納得がいくのではないでしょうか。

 以上、私たちがいま、社会福祉施策の岐路に立っている旨論じてきました。私たちの社会は、公的部門が公的責任において担うべき事業についても民営化・市場化が顕著であり、その結果として、国民の全体性からみた非効率化を招いていると結論づけることができます。この「非効率化」は、経済的な非効率性も然る事ながら、人々の信頼関係やそれに纏わる共通理解の喪失、まちづくりにおける弊害に至るまで多岐に渡って悪影響を及ぼしているのです。これら社会構造を大局観を持って捉えた上で、社会福祉の制度や実践を今一度捉えなおす必要性を感じています。なぜ、このような自明の理を執拗に論じなければならないのかと言いますと、社会福祉分野の研究者と実践家は、この社会構造をとらえる力や視点を度外視ていている傾向が強いように感じているからです。

 もちろん、実践家である私たちは、如上の構造に注視しながらも日々目の前の困難と向き合う必要があります。実践家はその実践をとどめる訳にはいきません。では、私たちがこの流れの中にあって今できることは何でしょうか。

 私たちの社会では今、人々は他者との関わりに忌避感を抱いています。例えば、高い塀に囲われた保育園。これらは、不審者の侵入を防ぐためであり、子どもたちの遊び声たる“騒音”で地域住民に迷惑をかけないための設えです。地域で挨拶をしても黙殺され、大学の学食ではカウンター式の“お一人様席”が流行しているのだとか。この様に他者との関わりの機会を減退させて行けば、他者に対する無関心化が進みます。無関心で留まっておればまだ救われるのですが、これが定向進化すると、人々は、他者に対する不安や恐怖を抱くことになります。障がいのある人にどう接してよいか分からない、といったことや、認知症のある人が地域で問題を起こさないだろうか、といった疑問や不安を住民が提示することもあります。不安と恐怖が更に深化すれば、言わずもがな、そこには軋轢や対立が生じてきます。障がい者の施設開設に反対する住民運動などを耳にすることもまだまだ珍しくはないのです。これら一見面倒な他者との関わりを横目に、人々は他者との接点を更に忌避するようになるという悪循環の中に私たちの社会はあります。そして、このことは社会における民営化・市場化の仕組みと密接な関係があると私は捉えています。

 そのことを前提に、私たち実践家が成すべきことは、この負の循環を正の循環に戻していくことにあると言えるのではないでしょうか。それは、限定された空間たる地域の中で、多様な人々同士の直接的な関わり合いや接点を創出していく取り組みであるとも言えます。中でも重要なことは、地域から排他・排斥されている傾向にある私たちのクライエントと、地域住民との関わりと接点の機会を積極的に創り出していく実践であると確信しています。先ほどの例で言えば、保育園の外壁を敢えて取っ払い、子どもたちの暮らしと存在、職員の仕事ぶりを地域にひらいていくことこそが重要なのです。このことは、子どもたちと私たちの職務を、地域住民に対して潜在化させるのではなく、意図して可視化・顕在化させていく活動であるとも言えます。もちろん、その地域にひらく過程での地域住民との対話の堆積は不可欠ですが…。

 私は人間を信じています。多様な他者との関わりの体験を通して、人々は他者への理解と慮りができるようになるものと信じるのです。障がいのある人との直接的な関わりを通して、認知症のある人に対する支援への体験を通じて、障がいや認知症の問題を身近なものとして、延いては、自らの事として捉える力を人間は有しているのだと信じています。

 また、この様な体験的な学習こそが、人々の意識と行動を変えるものと理解しています。人々は体験を通じて、自らの意識を構成しているのです。であればこそ、体験こそがその社会と時代を構築しているとも言えるでしょう。戦争体験の希薄化したこの社会の様相を見れば、これはとても分かりやすいことではないでしょうか。そこから転じて、これら直接接点を有する他者への慮りを始めた人々は、直接関わりを持たない他者への理解を獲得することができるとも考えています。例えば、空間的に離れた沖縄や福島の人々に対して、また、時間的に巡り逢うことのできない次世代の子どもたちへと。

 もちろん、これら他者との関わりは容易なことではありません。私たちも様々な他者と向き合いながら、共通理解が中々進まないことがあります。無関心や無理解のみならず、時には対立や軋轢を感じる場面に遭遇する事も決して珍しくはありません。しかし、この様な“煩わしさ”を乗り越えなければ、私たちは他者との共通理解に近づくことはできないでしょう。この他者との関わりにおける忌避感と煩わしさこそが、私たち社会福祉実践家が乗り越えなければならない第一の障壁であると言えるし、この忌避感と煩わしさの中にこそ、冒頭より叙述してきた人々が嵌まりつつある陥穽からの出口が見えるはずです。

 上記のことからもやはり、私たちの実践は常に地域にひらかれたものでなければならないと言えます。クライエントの暮らしと存在、そして私たちの仕事を地域にひらいていく実践こそが、民営化と市場化に代表される社会福祉制度と実践の過ちを少しは緩和してくれるのではないかと信じているのです。


※1 著トニー=ジャット・訳森本醇『荒廃する世界のなかで-これからの「社会民主主義」を語ろう』みすず書房2011年2月PP.124-138
※2 『週刊高齢者住宅新聞』2014年5月28日
※3 著トニー=ジャット・訳森本醇『荒廃する世界のなかで-これからの「社会民主主義」を語ろう』みすず書房2011年2月PP.138-154



本質を失した「介護職」報道

2014/05/15 01:26:58  社会福祉
 最近発売されたばかりの『週刊東洋経済』(2014年5月17日号)を手にしています。「誤解だらけの介護職 もう3Kとは言わせない」と題した特集が組まれているからです。約40頁にも及ぶ大々的な特集となっています。人材マネジメントにおける具体的な実践例も示されており、そのこと自体は有意義であると思って読んでいましたが、本質論としては大きな問題を有する特集であると私は認識しました。つまり、ソーシャルワーカーとしては看過できない内容であると思われます。その理由を含め、以下叙述をしておきます。

 まず大前提として、言わずもがな、福祉や介護の仕事の素晴らしさについては、日々強く私も認識している所です。特に産業界の仕事と比較すれば、社会的使命や役割、責任がより実感できる数少ない仕事であると言えます。市場原理や競争原理に強く晒されている産業界の仕事では、組織や個人の利益が最優先される傾向があり、社会的責任や使命感は希薄化される状況にあります。自社製品よりも他社製品の方が優れていると自覚しながらも、自社製品を顧客に勧めざるを得ない環境や、自社製品を用いて顧客が傷つくことも想定されるでしょう。一方、私たちの仕事は、専門性を踏まえた実践を展開する限りにおいて、不幸な人々を生み出しにくい構造下にあると言えます。クライエントの暮らしの質を高めることに焦点化した実践を行うことこそが主たる仕事と言えるのですから。

 社会的責任や使命感の強い仕事。つまり、全ての人々の暮らしにおいて必要不可欠な仕事である以上、私たちの仕事は公益色の強い仕事であると言えますし、であればこそ、この仕事は、公的責任において維持・促進されるべき性格を有していると考えられます。北欧をはじめ、多くの欧州諸国では、社会保障の位置づけのもと、政府の責任においてこれらのサービスが提供されているのは周知の事実です。我が国においても、生存権や幸福追求権を鑑みれば、当然に、政府の責任においてこれらサービスの質は担保されることが大前提としてあるはずです。

 これらの事を踏まえた上で、本特集について検討を行います。特集では、まず、「介護職の賃金水準がほかの職種と比べて際立って低いといえる統計的な材料はない」と論じます※1。厚生労働省の賃金構造基本統計調査を見れば、他職種と比べてその差は明らかではあるが、介護保険制度が始まってまだ14年であるので勤続年数の浅い人々のデータが殆どを占めていると言うのです。「そこで、勤続年数と年齢を考慮して賃金カーブを作成してみると、(中略)全産業計との差はぐっと縮まる」と結論づけています※2。経験年数の浅い人のデータが殆どであると論じながらも、如何にして、経験年数と年齢を考慮したデータを作成したのかがそもそも不明ですし、この「賃金カーブ」の作成根拠は全く示されていません。

 加えて、「そもそも介護職の離職率は決して高くはない」と断じます※3。「確かに介護職の離職率は、全産業の平均と比べれば2~3ポイント程度高い状況が続いている。しかし逆にいえば、数ポイントの差にすぎないともいえる。(中略)だがほかのサービス業と比べるとむしろ離職率は低く抑えられているとさえいえる」のだとか※4。学生アルバイト等の雇用形態が当てはまりにくい福祉・介護分野と、そうではない宿泊・飲食サービス業や娯楽業とを比較すること自体に問題があると思われますし、2~3%の差が僅かであると断じる根拠もよく理解が出来ません。

 他方、同じ報道機関であっても、例えば、毎日新聞では次のような件を引用することが出来ます。


 「介護労働者の賃金は他業種に比べて低い。全国労働組合総連合のアンケート調査(昨年10月)では、手当を除く正規職の平均賃金は20万7795円。厚生労働省調査の全産業平均(29万5700円)を約9万円下回る。
 長らく介護は主婦による家事労働とみなされてきた。職業としての確立が遅れ、低賃金から抜け出せない。介護労働安定センターによると、介護職の離職率は17.0%(2011~12年)で、全産業平均(14.8%)を上回る。求職者1人に働き口がいくつあるかを示す2月の有効求人倍率は2.19倍。全産業平均(1.05倍)の2倍だ」※5。


 また、本誌で示されているこれらが事実であるならば、今まで、いや、今現在も、政府や全国各地で議論を繰り広げている福祉・介護職員の低賃金や低定着率に対する取り組みは全く不要であると言えるでしょう。本当にそうなのでしょうか。この様な根拠の浅薄なデータや理論をもとに、介護職は低賃金ではなく、離職率も高くはないと報じられることに私は強い違和感を抱かざるを得ません。

 そして、本特集では、全国の素晴らしい個人や組織の実践が数多描かれています。中には、「介護業界は賃金が低いといわれるが、私は20代で横浜に一戸建ての家を建てることができたし、仲間たちも30代で購入。年収700万~800万クラスもいる。努力次第で収入はついてくる」といった実践家のコメントも載せられているのです※6。

 私は、これら先駆的な個別の実践自体は素晴らしいと心底感服していますし、今後もこれらの取り組みは広がっていくべきだと切望しています。そこのことを前提としながらも、頑張って成果を上げることのできた一部の成功例を取り上げて、これら福祉・介護人材の問題を、組織や個人の取り組むべき課題へと帰結させる論法に猜疑心を抱いてしまうのです。当然に頑張っている人々は称賛に値します。この中には、私の知っている人たちも多く取り上げられていますのでその事には全く以って異論はありません。

 しかし、特別に頑張っていなくても、先駆性や開拓性を有さずとも、全ての福祉・介護職の暮らしを守っていくことが重要であると私は考えます。社会問題を捉える上で必要な視点は、ミクロ・メゾ・マクロ領域でそれぞれの要因を抽出することにあると認識しています。ましてや、前段で確認した通り、私たちの仕事は、公益性の高い営みであり、これらは政府の責任においてその質が担保されるべき前提を論じたところです。であるならば、マクロ領域たる政策や制度における課題の抽出と対策こそが急がれるはずです。この特集で最も欠けている視点は、まさにこのマクロ領域の分析であり、全ての要因を個人と組織に帰している点において、ミクロ・メゾ領域の議論に終始した論調であると断定できます。

 執拗に確認しておきますが、個人の心の持ち方の工夫や事業所努力は当然にあってしかるべきです。しかし、その質の担保における本質的な責任は政府にあるはずだと言いたいのです。その視点が欠如しているという意味において、残念ながら本特集は本質を欠いた代物であると断言できます。

 どのような人々がこの特集を編集したのかが少し気になり、「編集部から」の欄に目を向けました。すると、「来年度の報酬改定に向けた議論が始まったタイミングで、『介護職の給料は低くない』と書くことにためらいもありました」とあるではありませんか※7。つまり、この特集が介護報酬の引き下げに繋がる可能性があることを認識した上で、編集及び発表に踏み切ったと言うことです。尊敬すべき友人から教わった事があります。知識人は、講じた「状況」に対してではなく、その「結果」にこそその責任を有するべきであると。このことは、マスメディアの役割にもそっくり当てはまります。如上の報道が、何に利用され、どのような結論へと導かれるのか。その想像力こそが、特に、現下の報道機関には求められていると私は考えます。

 いみじくも、福祉新聞の次の行を彷彿しました。


 「麻生太郎・財務大臣は22日の経済財政諮問会議で、特別養護老人ホームの介護報酬を適正化する考えを明らかにした。収支差率が高く内部留保が多額な半面、常勤介護職員の賃金が低いとし、『この点は2015年度予算編成の重要課題だ』とも述べた。会議後の会見で甘利明・経済財政担当大臣が麻生大臣の発言を紹介し、『収益を賃金に還元すべきという提言だと思う』とした。介護報酬の引き下げ圧力が高まるのは必至。15年度の介護報酬改定に向けた厚生労働省の審議会は4月28日に始まる。それに先駆けて財務省が給付増をけん制する狙いがあると見られる。諮問会議は6月に経済財政運営の基本方針(骨太の方針)をまとめる」※8。


 個人や組織の素晴らしい実践を称賛すること自体は忌避すべきことではありません。しかし、その「称賛」の影で、この「称賛」を隠れ蓑にして、大事な本質を捉える観点が稀釈されるのであればこれは大いに問題です。私たちは、ミクロ・メゾ領域の実践に終始することなく、マクロ領域の視点と実践をも意図する必要があります。この度の特集に対して、批判が顕在化していない現象を鑑みれば、まさに、このことこそが我われ福祉・介護人材の弱点であることが確認できます。



※1 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.48
※2 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.46
※3 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.51
※4 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.49
※5 「介護職 低い賃金で疲弊 相次ぐ離職『仕事夢ない』」『毎日新聞』2014年4月27日
※6 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.52
※7 『週刊東洋経済』2014年5月17日 P.117
※8 「介護報酬の引き下げ圧力高まる 麻生・甘利両大臣が言及」『福祉新聞』2014年4月28日



社会の絆を壊した判決

2014/04/27 00:35:56  社会福祉
 今の司法は一体何処を向いているのか。そのことを大変わかりやすく物語っている判決が出ました。

 愛知県大府市の認知症の男性(当時91歳)が、列車にはねられ死亡した事故に対して、JR東海が損害賠償請求訴訟を起こした一審と二審の判決についてです。名古屋地裁の一審判決では、介護者たる妻と別居中の長男に請求通り約720万円の支払いが命じられていました。その愚劣さについては、過日のブログでも吐露した通りです。

 あまりの傍若無人な判決に対して、世論は大勢批判と非難を浴びせていましたし、私の周囲にいる司法関係者も当然にこの結果はおかしいと言っていました。そのことを踏まえて、私は、この一審判決は大変特異な判決なのだと受け止め、二審ではこの判決が覆るだろうと高を括くっていたわけです。結果はしかし、この思いの方を大きく覆すものとなりました。二審では、その請求金額が半減し、別居中であった長男への請求を棄却したのみの“改善”であって、本質的には何の変化も見られないものが示されたわけですから。こうなってきますと、これは、決して「特異」な判決ではなく、現在の司法における普遍的な判断と捉えるべきなのでしょう。

 この判決が、何処に問題を有しているのかを説明するのは簡単なことです。単純に二つの観点で説明がつくのではないでしょうか。①個人主義を軽視した家族主義の発想、②社会保障や社会福祉に対する本質の度外視。以下に若干詳しく叙述を試みます。

 まず、①について。新聞紙面では以下の様に報じられています。


 「相当前から長男は男性と別々に暮らしていて、経済的な扶養義務があったに過ぎず、介護の責任を負う立場になかったとして、男性への請求を退けた。一方、妻については配偶者として男性を見守る民法上の監督義務があったと判断。高齢だった(当時85歳)ものの、家族の助けを受けていて、男性を介護する義務を果たせないとは認められないと判断した」(括弧内は中島)※1。


 認知症高齢者と同居する家族介護者には、介護や監督をする義務があるというのですね。もちろん、その認知症高齢者が同居家族などから虐待や拘束等の権利侵害を受けることは許されず、この様な権利侵害を防ぐ義務は、すべての人々と等しく同居家族にもあると言えるでしょう。しかし、その認知症高齢者が地域社会で起こした過失の責任に対してまでその同居家族が負わなければならないとの判決は次の点において行き過ぎたものであると断じることができます。

 一つは憲法13条で示されているように、私たちは、ひとり一人が個人としての尊厳を有していることが社会の共通理解としてあるはずです。であるならば、個人が犯した罪は原則個人がその対応を迫られるべきです。もちろん、その個人が少年であったり、障がいのある人である場合などはその責任能力に応じて断罪する必要はあるでしょう。また、その個人の罪への要因は、社会環境との相互作用によって起こっていることを考えれば、その社会全体の課題や責務についても考えざるを得ないところです。しかし、それは、飽く迄も「社会全体の」を指しており、以下に示していくように、ごく一部の「家族」に押し付けるべきものではありません。それら「配慮」を行った結果、「罪」への対応が、処罰から教育や指導に転換されたり、場合によっては処罰の軽減に繋がることもあるのです。しかし、以上は全くそれだけの話であって、個人が犯した罪は、その個人に帰結することの本質には変わりがないはずです。

 しかし、その一方で、特に我が国においては、時折おかしな事象を見聞することがあります。罪を犯した人のその家族のプライバシーを暴露したり、その責任を問うような報道が成されることは珍しくはありませんし、まだ罪を犯したことが法的にも未確定の時点たる「容疑者」の段階でも、これらの事は至極当然の如く成されているのではないでしょうか。罪を犯した本人のみではなく、その家族に対してまでその責任を問う価値規範が蔓延しているのが我が国の社会の一つの特徴であると私は捉えています。そして、まだ罪が確定していない、責任の所在が明らかではない段階においても、その「責任」は家族にまで及ぶ構造があるのです。

 これらの事を考えると、いわゆる自助・互助・共助・公助の範疇の内、司法と世論が自助に重きを置いていることを窺い知ることが出来ますし、その自助の範疇に家族までを位置付けていることも強く認識するに至ります。しかしこれらは、介護を個人的な暮らしの課題と位置づけず、社会全体で取り組むべきものだと謳っている介護保険制度や、2012年度から本制度の目玉とされているそれを地域全体で支え合う地域包括ケアの概念からも逸脱したものであると言えます。

 そして、ここで②に話は続くわけです。そもそも人々の暮らしの課題の全てはその本人や家族のみで克服すべきものなのでしょうか。個人の責任は個人に帰する。もしくは、家族が被ぶればよいというのであれば、政府や行政は元来不要であるということになります。これは、ソーシャルワーカーでなくとも理解できることだと思いますが、個人の暮らしは、その周囲にある社会環境との相互作用によって成されていることがその大前提ですし、であるならば、自己責任論などという論理はそもそも成り立たない代物であると論じることもできます。ここに、社会保障や社会福祉の必要性が主張されるようになるのです。

 人々が尊厳ある自らの暮らしを自助によって担保することが出来ない場合は、公的な責任を遂行してその個人の暮らしを守っていくことが社会福祉の役割であると私は考えます。であるならば、本判決は、この社会福祉の本質を揺るがしかねないものであると断じることが出来るのです。この認知症のある方に対する公的支援にかかる責任は何処にも謳われていないからです。仮に、公的責任の言及については本裁判の主旨ではないにせよ、その責任を一方的に、同居する当時85歳の妻に求めている訳ですから、本判決は自己責任論と同一基底にあると断定できます。

 認知症有病者数は2012年時点で462万人にのぼるとされています※2。2012年の労働者人口が6720万人と言われている訳ですから、その数の多さは社会問題として注視に値します。また、同年「徘徊」によって、行方不明届が警察に提出された数が9607名分であり、2013年末時点でその内180名の方が行方不明のままであるとの報道もなされています※3。

 これらを鑑みれば、この認知症の問題というのは明らかに社会が取り組むべき問題であることが理解できるでしょう。であるならば、これらの問題を克服するためにはどのような規範と視点が重要となるのでしょうか。

 一つは、この問題を個人の、家族の問題として整理するのではなく、社会全体の問題であるとの認識を広範で多様な人々と共有することが必要です。これが、人々の人間の尊厳にかかる問題である以上、ここには政府・行政の責務も認識されるべきでしょう。その上で、本課題を本人と家族に押し付けるのではなく、支援の補充・充実によって、これら問題が生じぬよう予防を促進していくべきです。

 実は、先ほど、「個人が犯した罪は、その個人に帰結すること」について叙述しました。原則論として、これは否定されるべきものではないでしょう。しかし、社会構造のもとで暮らす人々の行動の影には必ずその社会的背景が存在します。であるならば、「個人が犯した罪」をその個人に帰結させることで、この罪の終結を図るのではなく、社会全体の課題として捉える姿勢も私たちには求められているはずです。認知症の問題に拘わらず、罪を犯した人々に対してもこの様な視点は重要です。つまり、加害者にも被害者性があることに想像を及ばせる必要があるのです。

 話をもとに戻しますが、その上で、万が一冒頭の様な不幸な事故にそれが帰結したならば、その起こった事故に対しても、社会全体で支える仕組みが必要なのではないでしょうか。そもそも、暮らしに課題を抱える人々と共に暮らしていくためには、この様な問題はつきものです。これ程までに大きな事故でなくとも、誤って、警報機を鳴らしたり、菜園の作物を収穫したり、近所の家の敷地内に入ったり等々、枚挙に遑がないほどに小さな問題は各地で起こり得るものです。そして、これらの問題を完全に起こさぬようにする方法は一つしかないでしょう。それは、認知症のある人との共生を社会が断念することでしかありません。

 しかし、そのような社会や国は、国際社会からは凋落した存在としてまず相手にされることは無いでしょう。また、誰かを排他・排斥する社会は、多様性を失した画一化した社会であり、全ての人々の尊厳が守られぬ社会であるとも言えます。その意味において、本判決は、真の共生社会の構築に向けた流れにも大きく水をさすものであると言えます。

 いま我が国の政治は益々、格差を醸成し、社会的少数派や弱者に対する慮りを喪失しています。また、それを実に巧妙かつ潜在的に推し進めていることに誰も警鐘を鳴らさない様相を呈しているのではないでしょうか。こんな時こそ、三権分立における司法の役割が求められているはずです。その司法が本来の役割を果たせていない、その傾向をひとつ顕著に示したのが本判決であるとも私は受け止めています。


※1 久保田一道「認知症で徘徊し線路で事故、遺族の賠償減額 名古屋高裁」『朝日新聞』2014年4月24日
※2 「認知症、高齢者の15%に 厚労省調査、85年から倍増」『朝日新聞』2013年6月1日
※3 畑山敦子「認知症で行方不明届け出、延べ9607人に 2012年」『朝日新聞』2014年4月25日「認知症が原因で徘徊し、家族らが行方不明者として警察に届け出た人の数が、2012年に全国で延べ9607人に上ったことがわかった。9376人は同年中に居場所がわかり、大半は無事だったが、13年末時点で約180人が行方不明のままだ」。



「当事者性」を「ひらく」仕事※

2014/04/06 17:49:24  社会福祉


 法人職員のために大学の恩師に過日講義を頂く機会がありました。私たちの法人の職員に拘わらず、福祉・介護分野で働く人々に対する問題意識として、社会の構造やその価値規範といったマクロ領域の視点や、人権とは何か・社会福祉とは何か、といった本質論を検討する視座が希薄化しているように思えます。要するに、我々は一体何のためにこの仕事をしているのかを深く捉えずに、目の前のクライエントと向き合い、それを業としてこなしている感が否めないわけです。もう少しはっきり言えば、専門職ではなく、単なる技術屋さんに凋落してはいないかとの問題提起の意味を含めての課題であると言えます。これらの課題を少しでも克服すべく、私たちの法人では今後、介護・福祉とは直接関係のない領域の研修(講義)も設定する予定です。いみじくも、私の尊敬する経済学者にも一役買っていただけることを一昨日確認したところです。

 さて、恩師の講義は、部落差別問題や優生思想批判、医療分野の経済至上主義批判における具体的な事例を扱いながらも、一貫して「当事者性」とは何か、を問うたお話であったと認識しています。私たち社会福祉実践家、特に私の場合はソーシャルワークが重要になってくる訳ですが、これらのなすべき仕事を一言で言及すれば、クライエントの権利擁護の実践を通して、すべての人々の尊厳ある暮らしが成される社会を構築することがその根底にあると言えます。

 ここには二つの視点があることは言うまでもありません。ひとりの人の支援たる「クライエントの権利擁護」と、その延長線上に繋がっている「すべての人々の尊厳ある暮らし」の構築。ソーシャルワークの基本的な考え方として、また現在なされている実践の在り方としては、前者が圧倒的に優位であり、後者はあまり意識されていないか、等閑に付されている感は否めません。しかし、これからのソーシャルワークでは、この二つの視点を同様に重視した実践が求められていると私は考えています。

 「当事者性」を検討するにあたって、ソーシャルワークのこの端的な二つの視点に思いを巡らせておくことはきっと不毛な作業ではないと自身は考えます。今の思いを以下少し吐露しておきます。

 例えば、クライエントの「当事者性」を考えてみます。認知症のある人の「当事者性」という捉え方もあるかも知れませんが、それは飽く迄も理念的なお話であって、実践論的には、やはりそこに個別性が存在するのではないでしょか。同じ認知症のある人であっても、AさんとBさんの「当事者性」は異なるわけです。また、AさんとBさんの「当事者性」が対立構造に陥っていることもあるでしょう。このように考えれば、認知症のある人の「当事者性」という概念ははやり揺らいでくると言えます。認知症のある人の「当事者性」が、存在するのではなく、AさんとBさんの「当事者性」が存在しているに過ぎないのです。

 そのような認識の上においてでも、認知症のある人々や、障害のある人々、少数派やその他排他・排斥されている人々における運動の在り方として、仮の「当事者性」を用いることに自身は否定する立場を取りません。なぜなら、ソーシャルワークの使命としては、「すべての人々の尊厳ある暮らし」を目指すべく、ソーシャルアクションを起こすことの重要性も一方で強く認識しているからです。しかし、この場合の、集団毎の「当事者性」は、一定の個別性を排した仮のものであるとの認識が不可欠です。被差別部落の人々の中にあっても、在日韓国・朝鮮の人々の中においても、多様な個別性のある立場や思想が存在すると言うことです。そこを度外視した運動は、おそらく、その後の広がりを見せることはないでしょう。

 広がりのある運動を成すためには、少なくともその集団内に個々に存在する「当事者性」が一定程度共有される作業が成されていなければならないと思うのです。例えば、同じ「障害のある人」との位置づけであっても、そこには置かれた状況や思いに個別性が存在します。そこを互いの個別性を重んじながらも、大局観を持って共通理解を促進していく過程が、後の運動への広がりを見せるのであろうと認識するのです。また、こうして構築された共通理解こそが、集団における仮の「当事者性」であると言えるのかも知れません。また、異なる立場の人々が共通理解を構築していく作業は、煩雑なれど、非常に尊く、重要であるとも認識します。

 これまでは、集団の内部における「当事者性」の共有のお話をしてきましたが、ソーシャルワークの要諦は、この集団の内部にある「当事者性」を、その外部に如何に「ひらいて」行くかににあることは言うまでもないでしょう。集団の内部にある個人の「当事者性」を集団内で「ひらいて」一定程度共有することが可能である以上(それを否定するのであれば、あらゆる運動は不毛であると断言できます)、集団としての仮の「当事者性」や内部にある個々の「当事者性」を集団外部に「ひらいて」行くことも不可能ではないはずです。

 「他人の痛みは我慢できる」という言葉があるようですが、自身は10代の頃より「他人の痛みが我慢できない」人間になりたいと思って生きてきました。そこには、「他人」の「痛み」は、その「他人」と全く等しくは理解できないけれども、その一部は理解することができるとの信念が厳然と存在していたと言えます。もし、「他人」の思いが全く理解できないとしたら、巷にあふれる映画やドラマ、あらゆる書籍、そしてあらゆる議論は全く意味をなさない代物であると言うことになります。私たち人間は、体験や想像力を駆使して、「他人」の思いの一部は理解することが出来るとても優れた能力を持ち備えていることに強い誇りを抱くべきでしょう。

 友人と深夜まで痛飲して語り合い、そこで交わした言葉を翌朝ふと振り返り、彼の伝えたかった思いを考えてみる。このような関わりの過程を通して、人々は、「他人」の思いを一定程度は共有することができるはずです。もちろん、「他人」の思いの全てを理解できる事などはあり得ない訳ですから、この点に対する畏敬の念は堪えず持ち続ける必要はあります。クライエントの思いも然りで、私が対人援助の要諦は、クライエントの思いを「決めつけない」ことと、理解することを「諦めない」ことの双方が重要であると説くのはこのことから端を発していると言えます。

 経済至上主義とそれに連動した教育制度が相俟って、私たちは、自らの利益と他者の利益が切っても切れない関係であることを忘却しているように見受けられます。他者の悲しみはやがて、自らの悲しみに繋がり、自らの喜びは他者の喜びへと連鎖している事実を私たちはどこかで見失っている様相があります。誰かを排除する社会を放置することによって、また誰かを排除することによって、そのことが、やがて自らの排除へと繋がることに対する想像力が欠如しているのが現下の社会なのかも知れません。

 私たちソーシャルワーカーの仕事は、その人々の繋がりを、可視化し、社会に共通理解を促進していくことにあると私は考えています。本来であれば、教育によって直接接点の無い他者に対する理解もある程度は人間のなせる能力の範疇であると言えますが、今の教育はそうなってはいませんので、このことは大きな課題であるとも言えます。多くの人々にとって、直接接点のない沖縄や福島、生活保護に係る問題が、人々の間で広く共通理解が成されていないことを顧みればこれは明白な事実であると断じることが可能です。

 斯様な状況下において、ソーシャルワーカーがとるべき実践は、地域の中で、多様な他者の存在を可視化と体験を通して共有し、その共通理解を促進することにあるのではないでしょうか。他者の支援を必要としている人々の存在と暮らしを、そしてその人々を支援している私たちの仕事を地域に「ひらいて」、可視化し、体験的な関わりを促進することこそが、自身の利益と他者の利益が繋がり得ることの理解を全ての地域住民に促進し、「他人の痛みが我慢できない」地域社会の構築へと繋げることが出来るのです。このような地域社会を構築することが出来れば、恐らくそこに暮らす人々は、今度は直接接点を有さない他者への慮りを始めるのかも知れません。こう考えれば、ソーシャルワークの実践論には、社会教育や成人教育分野の知見にも触れておく必要性を考えざるを得ません。また、これらの営みは、多くの人々が子どもから大人になるまでの間に経験してきたことを、地域の中で、今度は真逆の体験として促進する過程であるとも言えるでしょう。

 福島の不幸の上に、東京の幸福があり、沖縄の被害の上に、国民の幸福がある。除染作業員の苦悩の上に、私たちの安全があり、最前線で生死をかける兵士の上に、人々の安全保障がある。このような社会は決して健全な社会とは言えず、他者の不幸を礎とした幸福などは、しょせん幻想に過ぎず、それに気が付かないこと自体が人々の不幸であると断言できます。

 自身の暮らしと他者の暮らしはどこかで必ず繋がっている。であるにも拘わらず、その事が誤魔化され、曖昧模糊とされているその人々の繋がりを敢えて可視化し、体験的な学習の機会をもって共通理解を促進し、再度人々をしっかりと繋いでいく。このことを地域の中で展開していくことこそが、私たちの仕事なのです。

 ここまで議論を拡散させておきながらも再び「当事者性」の議論に戻します。繰り返しになるかも知れませんが、如上のことからも、「当事者性」を地域に「ひらいて」行くことこそが私たちの仕事であると言えます。「ひらいて」可視化し、共通理解を促進するために、「当事者」の暮らしや支援者の仕事に直接関わってもらう体験的学習の機会を数多設けていくことがその有効な一つの方法であると私は理解しています。この実践を積み重ねることによって、地域住民は、直接接点を持たない他地域・分野の人々に対する共通理解を可能とし、延いては、この社会を構成する全ての人々の尊厳ある暮らしへと帰結することを信じているのです。

 その意味において、「当事者性」を社会に「ひらいて」共有するということは、全ての人々が「当事者性」を有するということにも繋がります。そして、すべての人々の尊厳ある暮らしを目指す以上、そこに「当事者性」は意味をなさなくなるのではないでしょうか。なぜなら、「すべての人々」こそが「当事者」となるはずだからです。であれば、この「当事者性」という言葉そのものの意味を失効させることこそが、私たちソーシャルワーカーの目指すべき到達点なのかも知れません。


※ 友人から教わった事ですが、ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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