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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

福祉車両にはステッカーを堂々と貼りなさい

2015/02/21 19:13:38  社会福祉


 特に介護保険制度が創設されて以降、社会福祉サービスの多様化が顕著であります。これ自体は、歓迎されるべき事であり、クライエントの多様なニーズに応え得る良質な実践へと繋がるものと喜んでいる所です。しかし、中には思わず、首を傾げたくなるサービスも御見受けします。社会福祉施設を利用していることを近隣住民に知られたくないので、施設のステッカーを全て送迎車両から外した状態で来てもらいたいとの要望に対して、いわゆる福祉車両のそれが分からぬようステッカーを外して送迎をしている施設が数多あるようです。このことは、クライエントや家族のニーズに柔軟に対応したサービスと一部評されてもいるようですね。その為か、ノンステッカーの福祉車両を昨今よく目にします。

 人々が社会で暮らす上で、そこには当然に様々な困難や課題が生じてきます。そんな時に、その理由如何によらず、最低限の生存権と尊厳の保障が成されているのが我が国であるはずです。つまり、医療も当然ながら、社会福祉サービスを受けることは国民の当然の権利としてある訳です。その当然の権利を行使するに当たって、人目を憚ってでしか、そのサービスの受給が出来ないことにこそ問題を感じずにはいられません。本人の意志だからと、サービス提供者は思っているのかも知れません。しかし、その本人の願いは、どのような社会的背景から生じているのかまで考えたのでしょうか。昔は根強く存在していた「福祉の世話になったら終わりだ」という意識が、社会の中で払拭されていないことがその背景にあると私は考えます。要するに、偏見のまなざしで見られるであろう人目があるからこそ、ステッカーを拒否するのであって、社会福祉サービスを受給するのは国民の当たり前の権利だと周囲が十分理解したまなざしで見るのであればステッカーの拒否などあり得ない訳です。

 この様に考えれば、私たち社会福祉実践家が成すべきは、クライエントの暮らしに不可欠な社会福祉サービスをクライエントが人目を憚ることなく堂々と利用できる社会を構築することにこそあると言えます。社会福祉サービスの受給に対するスティグマを押されたままの状態で隠すのではなく、むしろ、そのスティグマを払拭するべく行動を起こす必要があるのではないでしょうか。であればこそ、私は考えます。福祉車両のステッカーは、むしろ、それが分かる様に大々的に貼っておけばよろしい。



2015年 年頭の辞※1

2015/01/01 15:31:37  社会福祉
 昨年7月メルボルンで開催されたIFSW及びIASSW総会で「ソーシャルワークのグローバル定義」が採択されました※2。人々の権利擁護のための社会変革の実践や、その拠り所としての社会正義や多様性尊重の原理が強力に打ち出されており、旧定義よりも本新定義はある意味、より本来のあるべき姿への接近が目指されているといえます。

 一方で残念なことに、我が国における人々の権利擁護と社会正義は減退の一途を辿っています。社会保障においては、生活保護費や介護報酬の低減が目論まれる一方で、法人実効税率の引き下げを決行する様相です。また、安全保障では、集団的自衛権の行使容認が閣議決定で成されるという過去の過ちを全く省みない状況が進行しています。まさに、ソーシャルワーカーが、社会正義に基づき、社会変革を展開する対象が目の前に佇んでいるのです。

 折しも、天皇は「新年にあたっての感想」で次のような声明を発しました。「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります」※3。

 実は、政治的発言の許されない天皇や皇太子の近来の発言には目を見張るものがあります。例えば、天皇は「81歳誕生日の会見」でも次のように語っています。「先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、後に来る時代への責任であると思います。そして、これからの日本のつつがない発展を求めていくときに、日本が世界の中で安定した平和で健全な国として、近隣諸国はもとより、できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう、切に願っています」※4。

 加えて、その前年の誕生日に先立つ会見でも、「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」※5という件が確認できます。

 更には、去年2月23日に54歳の誕生日を迎えた皇太子も以下の様に述べています。「今日の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、現在、我が国は、平和と繁栄を享受しております。今後とも、憲法を遵守する立場に立って、必要な助言を得ながら、事に当たっていくことが大切だと考えております」※5。

 もちろん、政治的権限に制約のある天皇・皇太子によるこれらの発言は、その範疇に依拠したものであるのか、若干の際疾さを市井に与えているのは事実です。しかしながら、裏を返せば、彼らが、この様なぎりぎりの意見を表明せざるを得ない極めて危険な状況下に今の社会があるということなのでしょう。国民の多くは、この危険な状況にどれほどの自覚を有し、そしてこれらの発言をどの様に捉えているのでしょうか。

 今私たちはまさに問われているのです。私たちが、これから数十年未来に向けて、現下の社会をどの様に導いて行こうとしているのか、と。時の政府が70年前に起こした責任を、現在に生きる私たちが直接的な責任を負うことは無いでしょう。いや、責任の取りようがないと私は考えます。しかし、問われているのは、現在であり、未来に向けての過程にあります。そして、このことに対する私たちの責任は逃れようがありません。過去に犯した過ちを、繰り返そうとする現在と、未来への道筋を現世代がつくったならば、その責任は私にもあると言えます。

 私たちは、現在の課題から目を背けるべきではありません。言わずもがな、現在の課題は、今私たちが取り組むべき対象なのです。そして、この責任から逃れることもできません。これら現在との対峙を避けるために、向き合うことを欺瞞的にはぐらかすために、過去を弄あそぶべきでもないのです。現在に対する重大性に比べ、過去や歴史は、現在の発展のために用いるべき“道具”に過ぎません。しかし、これらは、いまを生きる人々の権利擁護に資するものでなければなりません。我が国における状況は、むしろ、これら歴史を、人々の暮らしを守る権利擁護とは、真逆の方法で用いようとしているのではないでしょうか※6。

 以上の事を踏まえながら、現在の、そして、これからの人々のためにこそ、私たちはソーシャルワークを展開する必要があります。であるならば、まずは、これら目の前の社会構造を人々の目線で的確に捉え、これらと真摯に向き合うことが求められるでしょう。ソーシャルワークの新定義を携え、今年もより精力的に実践を堆積して行こうと思います。




※1 日本を含めてアジア諸国では、本来は旧正月を祝う習慣があります。また、年号や暦は宗教・民族・文化によって多様性が認められますので、敢えて、今年が何年で、1月1日がおめでたいとは考えておりません。しかし、実践家として、社会通念上、儀礼的に「おめでとう」と述べることはあります。
※2 GLOBAL DEFINITION OF THE SOCIAL WORK PROFESSION
Social work is a practice-based profession and an academic discipline that promotes social change and development, social cohesion, and the empowerment and liberation of people.
Principles of social justice, human rights, collective responsibility and respect for diversities are central to social work.
Underpinned by theories of social work, social sciences, humanities and indigenous knowledge, social work engages people and structures to address life challenges and enhance wellbeing.
The above definition may be amplified at national and/or regional levels.
ソーシャルワークのグローバル定義
「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい」。
(社会福祉専門職団体協議会国際委員会+日本福祉教育学校連盟による日本語定訳)
※3 『朝日新聞』2015年1月1日
※4 『毎日新聞 』2014年12月23日
※5 「田原総一朗「天皇・皇太子が踏み込んだ日本国憲法論」」『週刊朝日』2014年3月21日号
※6 ジョン=デューイ『民主主義と教育(上)』2013年6月岩波文庫PP.125-126「人間は現在にしか生きることはできない。現在とは、過去の後に来るにすぎないものではない、まして過去が産み出したものではない。それは、過去から脱出して行くときの生命のあり方なのである。過去の産物の研究は現在を理解するのに役立たないだろう。なぜならば、現在は、それらの産物から生ずるのではなくて、それらの産物を産出した生命から生ずるのだからである。過去と過去の遺産についての知識が大きな意義をもつのは、それが現在の中に入り込むときなのであって、それ以外の場合ではない。(中略)人々は、現在の未熟さを円熟させる力として過去が提供するものを利用しないで、現在の未熟さから逃避して、その想像上の優雅さの中に生きようとするのである。(中略)過去は、まさにそれが現在に特有なものを含んでいないからこそ、過去なのである。動きつつある現在は、それ自体の運動を方向づけるために過去を利用するならば、過去を含んでいる。過去は想像力の大きな資源であり、生活に新たな広がりを付け加えるのであるが、それは、過去が現在の過去と考えられており、切り離された別の世界とは考えられていないならばのことである」。




自己責任論と「地域の絆」

2014/12/30 15:34:44  社会福祉


 以下は、ホームレス支援のための小中学生向けセミナーでの出来事を奥田知志氏本人が綴ったものです。

 「『学校でしんどいことがあったら、「助けて」と言っていいんだよ。「助けて」といったら、「何を甘えているんだ」と言う人もいるかもしれない。しかし、「うちにおいで」と言ってくれる人も必ずいるよ。ともかく助けてと言いなさい』と語りかけると、涙を浮かべている子どもがいた。子どもたちは『助けて』といえない、いわばホームレス状態に置かれているのだ。だれが子どもをここまで追い込んだのか。それは、私を含めた大人たちだ。大人たちが『助けて』と言わなくなったから、子どもたちが『助けて』と言わなく、いや、言えなくなったのだ。それでいいのだろうか」※1。奥田氏は人々が「助けて」と言えなくなった要因は、自己責任論の蔓延にあると論じています。

 私も全く同様に感じます。若者が仕事に就けないこと、多重多額債務に陥っていること、福島の第一原発の周辺に住んでいたこと、東日本大震災の被災地に住んでいたこと、ホームレス状態におかれていること、これらは全て個人の責任で解決しなければならない問題なのでしょうか。

 では自己責任論を全うして生きている人は、世の中に存在するのでしょうか。自己責任論を唱える人々は、その体現者なのでしょうか。誰が考えても分かるはずです。無人島で一人暮らしをしていらっしゃる方を除いて、誰ひとりとしてその体現者は存在しません。いや、無人島の一人暮らしでさえ、実は様々な文明の力を用いていることが多くこれも厳密に言えば自己責任論の体現者とは言えないようです。

 問題は大きく二つあります。一つは、論理的に破綻している言葉がよく用いられていること、二つ目に、それを政府の側がよく口にすることです。国や、民族、地域と言った社会の中で生きている以上、自己責任論は何処にも存在しません。その言葉が多用されていること自体、残念ながら我が国が成熟した社会では無いことを国際社会に示すことになりやしないかと危惧しております。政府がこの言葉を用いることは、政府自身がその「自己責任」を放棄しているという意味においても、二重の論理的破綻を招いています。

 この社会で暮らす以上、私たちは支え合うことを忌避してはなりません。そして、そのあり方は、実に多様であるはずですし、そのためには、ひとり一人の多様な個性と能力を尊重する社会の規範が必要です。人は誰かを支え、また誰かに支えられて生きている。それは、たとえ社会福祉サービスを利用するクライエントであっても同様です。クライエントが誰かを支えることも当然の事としてあるのです。この当たり前のことを、地域の中で顕在化・可視化させていくことが私たち「地域の絆」の使命であると思っています。

 そう考えれば、自己責任論なるものは、「地域の絆」とは全くの逆機能を果すことになります。少なくとも、福祉サービスの申請者・受給者を減らすことに作用することでしょう。福祉サービスを利用する状況に至ったのは、自身の責任だと自己責任論は人々を抑圧するからです。支え合う社会を自己責任論は否定します。支えられる原因を作ったのは自分なのだから、自分に責任があると圧力をかけるのです。だから、認知症の問題でも、本人が、そして家族が何とかすべきだとの意識が未だ根強く存在するのです。であるならば、これは社会福祉実践家の使命である権利擁護とも対立する概念であることが確認されます。斯くの如き「自己責任論」なる言葉を、少なくとも、社会福祉実践家が信仰するようなことだけは無いようにお願いしたいものです。




※1 奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社P.173-174 2011年7月



共に生きることの責任

2014/12/24 11:09:40  社会福祉
 

 2011年8月に改正された障害者基本法は、その目的として、「全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのっとり、全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現する」とする共生社会の確立を意図したものであると言われています※1。

 「共生」という言葉は、一見耳触りも良く、分野を問わず彼方此方で多用されているように見受けられます。しかし、「共生」において最も重要なことは、その内実であり、実質的な人々の暮らしの在り方にこそ本質があるものなのでしょう。つまり、共に生きると言うことは、その構成員たる全ての人々の人間としての尊厳が守られていなければならないことが実質として求められているハズです。ここで敢えて、「ハズ」と書くのは、現下の社会がそうなってはいない現実に目を向けることにこそ、この「共生」を考える意義があると思うからです。

 私たちの法人のクライエントの9割以上は何らかの認知症のある人たちです。いわゆる「徘徊」や「不安・焦燥」、「興奮・暴力」等の行動・心理症状(BPSD:Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)が顕著な方も当然に珍しくはありません。因みに、なぜ、「行動」「心理」の「症状」と捉えるのかは理解に苦しむところです。「社会」(Social)の要素は無いのでしょうか。医学会が定義した本BPSDの捉え方にも実は異論のあるところです。

 それはさておき、斯様な「症状」のあるクライエントが、地域で暮らす中で、当然に地域住民に“ご迷惑”をおかけすることも多々ある訳です。自動車の修理工場に入って車を叩いたり、菜園のお花を勝手に摘んだり、誤って他の家の敷地に入ろうとしたり、今までの経験の中で、枚挙に遑がないほどこの様な事例は挙げることが出来るでしょう。問題は、その時の対応の方法にあります。今まで私たちの法人職員には、経緯と事情の説明をするために地域住民の所に訪問には行ってもらうのですが、過失を認めるような謝罪はする必要はないと言ってきました。当然、社会における普遍的コミュニケーションの一環としての儀礼的な謝罪は必要だと思います。しかし、こちらが認める過失は無いと職員には伝えているのです。

 なぜか、それこそが真なる共生社会の在り方であると信じているからです。全ての人々の尊厳が守られた社会が共生社会であると叙述しましたが、「全ての人々」はその名の通り、それ以外の意味は無いのであって、障がいのある人も、児童も、要介護高齢者も、犯罪被害者も、そして、犯罪加害者であっても、文字通り全ての人々の事を指すハズです。斯様な社会こそが、多様性の認め合える真に豊かな社会であると自身は信じて憚りません。

 例えば、認知症のある人たちが、共生社会を生きると言うことは、その構成員たるその他全ての人々が、その存在を、そして共に生きることを認めなければ成立せぬことは自明の理でしょう。認知症のある方の内約7割はBPSDを有している訳ですから、認知症のある方と共に生きると言うことは、その他構成員全員がそのBPSDを受け止めていくと言うことになるハズです。障がいのある人々と、共に生きると言うことは、その様な“困難”を共有することを指すのではないでしょうか。それが出来ない現下の社会が、「共生社会」を声高に謳うことに思わず失笑してしまう自身がいるのはこの為です。だからこそ、そうある「ハズ」を、そうあるべき姿に変革していきたい思いがあるからこそ、過失を認める謝罪は不要だと職員さんには伝えるのです。

 さて、上記のようなメゾレベルのお話とは異なり、大きな禍根を残すであろう判決が昨今出され取り沙汰されていました。朝日新聞の社説によれば、「愛知県内で列車にはねられ死亡した認知症の男性(当時91)の遺族が、振り替え輸送にかかった費用などの損害賠償として約720万円をJR東海に支払うよう裁判で命じられた。 8月に名古屋地裁が出した判決は、介護の方針を決めていた長男に監督義務があるとし、死亡男性の妻(当時85)についても『目を離さず見守ることを怠った』と責任を認めた。 一方、介護の関与が薄いきょうだいの責任は認めなかった」とされています※2。

 「徘徊」によって、列車事故を起こして亡くなった認知症高齢者本人ではなく、その家族に対して司法が損害賠償の支払いを認めたと言うものです。真なる共生社会の議論が、いまこそ必要だと私は感じました。

 更に言えば、地域包括ケアと称して、家族で地域で支え合うことを強要しながら、では、政府は如何なるその責任を取ったと言うのでしょうか。判決では、家族による「見守り」義務が謳われているようですが、介護保険制度は、介護の社会化をその目的として創設されたものではなかったのでしょうか。本社説では、この判決に異論を唱えた上で、これが社会に与える影響を危惧しています。「介護に深くかかわるほど、重い責任を問われる。それなら家族にとっては施設に入れた方が安心。施設としてはカギをかけて外出させない方が安全――という判断に傾きかねない。年老いても、住みなれた地域で人間らしく暮らせるようにするのが、この国の政策目標である。判決は、そこに冷や水を浴びせかけた。高齢者の介護で家族が大きな役割を果たしているのは事実である。だが、法的にどんな責任を負うのかは別の問題だ。家族に見守りの注意義務を厳しく求めるあまり、『何かあったとき責任を取りきれないから病院や施設に入れる』という状況をつくってはならない」※2。

 失敗学を提唱している工学院大学の畑村洋太郎氏によれば、失敗を捉える要点として、「責任追及」ではなく、「原因究明」を挙げています※3。であればこそ、この失敗が再発防止や、その予知に活用され、社会に真なる科学的理解が促進されるであろうというものです。この問題を、家族の責任に帰することによって、社会が失うものもまた大きいことは想像に難しくはありません。

 しかし、本社説も諸手を挙げて賛同できるものではありませんでした。「家族の責任を問う以外に、何らかの社会的なシステムをもうけるべきだ。たとえば犯罪被害者には給付金を支給する制度がある。知的障害者については互助会から発展した民間の賠償責任保険がある。参考になるだろう。 要介護の認知症高齢者は、2010年時点で280万人。25年には470万人にまで増えると推計されている。事故への備えは喫緊の課題だ」※2。私が言わんとすることは、もうお分かり頂けるものと思われます。「全ての人々」の尊厳が守られる社会こそが、共生社会であり、一部の人々は事故を起こしやすいのでその人や、その被害者のみに保険を掛けたり、救済することが真なる共生社会の実現に繋がらないことは明白な事実です。斯様な取り組みは、新たな偏見とレッテル張りを促進することでしょう。

 これらの事例から「共生」とは何か、私は考えます。それは多様な人々と共に生きることの責任と覚悟を、その社会を構成する全ての人々が甘受することの重要性を説いているのではないでしょうか。多様な人々と共に生きることで生じる様々な対立・軋轢・妥協・忍耐等の問題を、人々が受け止めていくその過程が「共生」そのものではないかと思うのです。そうでなければ、認知症のある人の問題は、家族にその責任を押し付ければよいと言う如上の乱暴な論理に繋がるのではないかと危惧するものです。



※1 障害者基本法(2011年8月改正)(目的)第一条
※2 「社説 認知症と賠償 家族を支える仕組みを」『朝日新聞』2013年 10月 3 日
※3 畑村洋太郎『だから失敗は起こる』日本放送出版協会P.12-16 2006年8月


追記
本原稿を書き上げた後の2014年4月24日、本判決の二審判決が名古屋高裁でありました。私は二審で一審判決が覆ることを想定していましたが、逆に、私自身の思いが覆される結果となっています。判決では、その請求金額が半減し、別居中であった長男への請求を棄却したのみの“改善”であって、本質的には何の変化も見られないものが示されたのです。よって、本コラムは今日現在も継続して検証を重ねるべきテーマとなっています。


「支援」が「支配」に変容するとき

2014/12/01 10:37:51  社会福祉
 身体・精神・社会面において暮らしの課題を抱えているクライエントとその支援に携わる私たちの関係が、権力関係に陥らないようにするためには一体何が必要なのでしょうか。このことは、私が、この分野で仕事を始めるに当たって真っ先に考えたことでした。また、実は今も自問自答すべきテーマであり、社会福祉実践家としての生涯に渡る重要なテーマの一つと言えるかも知れません。

 特に、2000年の社会福祉基礎構造改革以降、サービス提供者と利用者との対等な関係が強く謳われてきました。また、その後、児童・DV・高齢・障がいの4つの分野の虐待防止法が施行されています。裏を返せば、それだけクライエントの権利が脆弱な状況にあることを政府が認めているとも言えます。私たちは、まず、クライエントの権利が侵害されやすいものであることに強い自覚を持つ必要があるのです。

 心身の機能やそれに伴う判断能力の低下が見られるクライエントと支援者との間には、力の均衡が取れていない現実があります。端的に言うと“力のある側”と“力のない側”の関係がそこにあり、この関係に無自覚であればあるほど、両者の関係は支配・権力関係へと陥りやすくなると言えます。私は、障がいのある人々が「弱者」で、健常者を「強者」という二分法でのみ物事を捉えることには与しませんが、競争原理と効率優先の社会構造下にあることを前提とすれば、上記の二分法は、現下の社会において主流となる区分であると捉えています。つまり、社会構造が、競争原理と効率化を中心に据えた画一化したあり方ではなく、価値観の多様性を尊重して行かない限り、この二分法の関係からは脱却できないであろうと考えるのです。

 このことを踏まえつつも、“力のある側”と“力のない側”が対等な関係を構築するためには何が必要なのかを実践段階では考えておく必要があります。それは、“力のある側”が一歩も二歩も“下がって”、受容的な対応を意図的に行うしかないと私は考えます。いわゆる、受容・共感・傾聴を意図的に行う必要があるのです。そうすることによって初めて、クライエントの自己決定の尊重の基礎が担保されることとなります。一見当たり前のお話の様ですが、実践家の多くはこのことに無自覚である様に見受けられます。恐らく、私たちは、無自覚にクライエントの権利を蔑ろにし、無意識にクライエントの自己決定を度外視している事があるのではないでしょうか。

 悪意のある権利侵害は、本人にも自覚があり、また他者から見てもそれが分かりやすく早急な対応も可能となります。最もたちが悪いのが、無自覚・無意識の内に小さな権利侵害や不適切なケアが水面下で進行していくことにあります。私たちには、自らの立ち位置を時折立ち止まって確認する作業が必要です。

 限られた予算と、時間、人手でクライエントと向き合う中、その慌ただしい毎日の現場の中で、私たちは「経験的判断」を優先にした実践を無自覚に行っています。「経験的判断」とは、「私は何ができるのだろうか」「わたしはどんな選択肢を利用できるのだろうか」といった目の前の現実や出来事に関する判断と言われています。一方、クライエントの尊厳とは何か、社会福祉実践の拠り所とは何か、ケア専門職はどうあるべきか、つまりは、「私は何をすべきなのか」「わたしにとって、何をするのが正しいことなのか」といった目的・価値などに関する判断を「価値判断」もしくは「道徳的判断」と呼ぶそうです※1。

 しかし、これら二つの判断はどちらを優先にすべきかといった、優先順位を確認するものではありません。双方の視点が大事であると言われているものです。ですから、「経験的判断」も大切なのです。しかし、現場の只中にいると、どうしても「経験的判断」が優先され、「価値判断」が等閑になることが多いのではないでしょうか。

 確かに、私たちには、日々やり遂げなければならない決められた業務があり、限られた人員配置で援助活動を行っている訳ですから、どうしても目先の業務に視点が奪われがちであることは否めません。であればこそ、私たちは、時折立ち止まって「価値判断」に基づき、自らの実践を点検する機会を設ける必要があります。それが、現場を離れた会議・事例検討会・研修会・読書等の場であると言えます。その様な機会を定期的に設けなければ、私たちはクライエントの権利を無自覚に蔑ろにしてしまう恐れがあります。

 そして、これらのことを共通理解した上で、私たちの法人では、「私たち地域の絆の行動指針」の中に「私たちとご利用者との約束」と題して、3つの行動指針を示しています。


〃標譴任話します。
¬楡を同じ高さか、それ以下にしてお話します。
L仁畄繊福屐○してください」)を使わずに、依頼形(「○○していただけますか」)を用います。


 当然にこれ以外に守るべきルールは数多あることでしょう。しかし、私たちの法人における目標・ルール等の様々な決め事は3つである事を基本にしています。どれだけ多くとも7つまでが原則です。これは人の記憶の限界を鑑みてのことです。3つだと記憶の保持はもとより、想起まで瞬時に行うことが可能です。7つですと、保持はできますが、瞬時の想起は不可能です。もちろん、これは私の経験則ですから、個別性があり、7つでも瞬時に想起が出来る方もいることでしょう。しかし、以上の事から、私たちの定める行動指針はこの3つに絞っています。逆に、この3つを押さえておくことで、最低限の権利侵害を防ぐことか出来るという項目を選定しています。これら3つの行動指針は、私たちとクライエントの関係が、権力関係に陥らないように、私たちが受容と共感を意図的に実践する様に設けられたものです。ですので、サービス業だから設けているものなどでは断じてなく、クライエントをひとりの人間として捉える為に、そして、その権利を侵害しないようにする歯止めの意味を込めて設けられたものです。

 私たちの社会には多くの関係においてそこに権力関係が存在します。上司と部下、教師と生徒、専門職とクライエント等。このことに無自覚であることは、対人援助職としてその実践に大きな瑕疵を有していると言えます。大変危険なことだと思います。であればこそ、私たちは定期的に立ち止まって自らの立ち位置を確認し、これら現実に目を向ける必要があります。また、その共通理解を行った上で、その権力関係に歯止めをかけるにはどの様な言動が具体的に求められているのかまで共有すべきです。これらの営みを通してでしか、「支援」が「支配」になることを避けることは出来ないでしょう。支援者が間違っても、支配者になることは許されないのです。しかも、それが無自覚・無意識の内に成されているとしたら…。

 最後に、クライエントに敬語を用いる事に反論を頂くことがあります。その反論の要旨としては、堅苦しいのでクライエントとコミュニケーションが却って取りづらくなる、と言ったものが大半です。また、田舎に行けば敬語など使っていないという反論もあります。それらを受けても、やはり、私たちの法人では原則敬語を重要視しています。例えば、私の周囲には年上の仕事仲間が数多おります。彼らと話すときには、私は敬語で話をしています。その年上の彼らとは、共に風呂に入ったり何でも話せる関係ですが、私は敬語を用いています。逆に、その彼らが65歳以上になり、要介護高齢者になって介護保険サービスを利用した途端、私は彼らに対して敬語を用いなくなるのでしょうか。もしそうだとしたら、そこにはどんな関係上の変化が起こっているのでしょうか。一言で言えば、要介護状態になった彼を私は軽んじていると言うことではないでしょうか。しかも、無自覚のままに…。

 また、コミュニケーション論で言えば、言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの割合は35%と65%であるとか、7%と93%であると言われています※2。よって、敬語という言語が、コミュニケーションに与える影響は7%〜35%といっても過言ではありません。であれば、クライエントとの信頼関係や親密度を高めるために敬語が障壁になると言う理論は成立しないと私は考えています。非言語を駆使すれば、幾らでも、親密度を高めるコミュニケーションを取ることが可能だからです。

 もちろん、ここには、クライエント本人がどう呼ばれたいのか、という問題があります。クライエントの意志が明確に確認され、敬語を使わないでくれ、と表明すれば我々はそのことを尊重すべきでしょう。しかし、クライエントの意志が曖昧な状況であれば、私は、無難な方を取った方が良いと考えています。つまり、敬語を用います。仮に、クライエントの意志が不明瞭であったとして、敬語で呼ばれたいと思っているクライエントに非敬語で接するよりも、敬語で呼ばれたいと思っていないクライエントに敬語で接する事の方がクライエントに対する権利侵害の可能性は低いと認識しているからです。

 そして、ここには、敬語で話す話さない以上に、大きな問題がその背景にあることを理解すべきです。つまり、私たちが無自覚・無意識にクライエントと関わる限りにおいて、両者の力の不均衡が進行した帰結として、恐らくそのクライエントの権利の多くが蔑ろにされているという事実にあります。そのことに、畏敬の念を持ちながら、絶えず自認しながら実践を行うことによってこそ、クライエントを権利侵害から守り、延いては、その権利擁護に繋がっていく未来への道筋が見えてくるというものです。



※1 R.A.ダール『デモクラシーとは何か?』岩波書店 P.35 2010年10月
※2 著:マジョリー=F=ヴァーガス 訳:石丸正 『非言語コミュニケーション』新潮新書P.15・P.99 2013年12月
「非言語コミュニケーション研究のリーダーの一人、レイ・L・バードウィステルは、対人コミュニケーションをつぎのように分析している――『二者間の対話では、ことばによって伝えられるメッセージ(コミュニケーションの内容)は、全体の三五パーセントにすぎず、残りの六五パーセントは、話しぶり、動作、ジェスチャー、相手との間のとり方など、ことば以外の手段によって伝えられる』と」。
「アメリカで多年にわたり非言語コミュニケーションを研究しているアルバート・メラビアンは、人間の態度や性向を推定する場合、その人間のことばによって判断されるのはわずか七パーセントであり、残りの九三パーセントのうち、三八パーセントは周辺言語、五五パーセントは顔の表情によるものだと述べている」。



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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