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NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

地域の絆の今日までの歩み、そして、これからの道筋【創立10周年誌コメント】

2016/01/23 21:40:12  社会全般

 「地域の絆の今日までの歩み」を、一言で述べるならば、介護保険事業所に、社会変革を志向した真のソーシャルワーク実践の展開ができるのか、その挑戦の堆積にあったといえます。私たちが、なぜ、ソーシャルワークにこだわり続けてきたのか、そして、どのようなソーシャルワークに今後頓着し続けていくべきなのか、その掲げてきた方針と今後の決意を叙述し、創立10周年の挨拶の言葉に代えさせて頂きたいと思います。

 大学では社会学を学び、ジャーナリストを志望していた私が、社会福祉実践の道に足を踏み入れたのは、ジャーナリズムとソーシャルワークに強い親和性を感じたからでした。

 公正中立・不偏不党な立場や事実はこの世に存在しない。逆に、実在するのは、100人いれば100通りの立場と事実であるということを様々な経験を通して学んできました。であればこそ、全ての人びとの尊厳ある社会を構築するためには、この多様な人々の立場と言い分を共有する必要が生じてきます。しかし、現下の趨勢はどうでしょうか。一部の大きな声を発することのできる人たちの「立場」と「事実」が普遍化し、まるでそれこそが客観的事実であり、不偏不党であるかのように巷間では捉えられているのではないでしょうか。

 この要因として私は、資本主義社会の力学的必然として、また、権力構造を背景とした少数者意見による席巻がなされていることと(例えば、生活保護を「贅沢保護」と捉える風潮や、原発・電磁波の安全神話の問題などと)、既存の社会の秩序や規範に馴化させることに重きをおいた誤った教育のあり方にその端緒をつかんでいます。

 いずれにせよ、世間で言われている「普通」や「常識」、「公理」というものは、全ての人びとの立場や意見を反映したものでは断じてなく、一部の人たちから見た事実を普遍化したものに過ぎないと言えます。ここで問題視すべきことの一つは、この「一部の人たち」は、社会に多大な影響を行使することのできる力を有する権力者や富裕層など優位的な立場にあることが専らであることと、今一つは、これら「普通」や「常識」がまるで客観的事実であるかの如き錯覚が蔓延していることにあります。

 全ての人びとの尊厳ある暮らしを守るためには、これら「一部の人たち」の立場はもちろんですが、それ以外の人びとの言い分にも耳を傾ける必要があります。この場合、「一部の人たち」は、自らの論理を普遍化する力を有していますので、ソーシャルワークとジャーナリズムは、むしろ、そうではないそれ以外の人たちから捉えた事実に着眼しなければなりません。つまり、「一部の人たち」の立場が席巻した帰結としての「普通」や「常識」といったものとは異なる別の〈普通〉と〈常識〉があることを提示することがジャーナリズムの役割であり、この〈普通〉や〈常識〉の立場から、時に、「普通」と「常識」と対峙し、その改善と変革を促進することがソーシャルワークそのものであると私はとらまえているのです。そして、これらの活動を推進する基底には、「普通」や「常識」が真に客観的事実を捉えたものではないという見識を、ソーシャルワーカーとジャーナリストが包含していなければなりません。その意味で、これらの取り組みは、不偏不党や公正中立の存在を信じて疑わないジャーナリストには、そもそも期待できない実践かもしれませんし、ソーシャルワーカーにおいても然りです。

 以上の様にソーシャルワークもジャーナリズムも、現に社会から排他・排斥されている人びとの立場から社会的活動を展開し、彼らの尊厳の保持された社会を構築すること、その様な社会への変革を成し遂げることの進展に貢献し、これらの営みを経由して、「一部の人たち」を含む全ての人間の尊厳保障へと帰結する社会を描いていくことにこそ共通する真骨頂があります。ここで、確認しておきたいことは、ジャーナリズムもソーシャルワークにおいても、「排除する側」と「排除される側」の分断を決して生み出すことなく、「(全ての)人間の利益」としての普遍的価値に着眼した戦略的実践が不可欠であるということです。排除ではなく、連帯と連携を基盤に据えたあるべき社会への接近こそが私たちの志向する社会変革であるからです。

 さて、ソーシャルワークに如上の崇高な使命を含意した時、この様なソーシャルワークの展開が可能な機関や組織は全国に如何ほど存在するのでしょうか。ソーシャルワークでは、個人の課題を、個人の内部と、外部にある社会環境との相互作用のあり方に見いだすわけですが、その課題解決にあたって社会環境の改善と変革を意図した実践がどれほど展開されているというのでしょうか。2005年6月高松市で開催された日本社会福祉士会全国大会における記念講演で、当時岩手県立大学のラジェンドラン=ムース氏が話した内容であり、講演中最も心証に残った一部をここでは紹介しておきます。
 

「ソーシャルワーカーの目標はソーシャルチェンジを行う事。ソーシャルチェンジとは、個人・グループ・地域社会の変化を行う事。ソーシャルワークは変化を行う道具である」※1。


 そして、ムース氏は語り続けました。「その意味において日本に本物のソーシャルワーカーはいない」。
 
 私は「本物のソーシャルワーカー」でありたいし、そして、これからの若い人たちにも「本物のソーシャルワーカー」であって欲しいと切望します。そして、このソーシャルワークの理念と理論を礎に書き上げたのが、私たちの経営理念であるし、その実践を敷衍するために創設したのが私たちの「地域の絆」なのです。

 私たちの支援を必要としている人びとの最も身近にあり、その暮らしに多大な影響を及ぼしている社会環境は地域です。人びとが、自分らしく安心して暮らせるその尊厳を保障するための重要な条件の一つには、この地域における人びとの互酬性と信頼に裏打ちされた関係の構築が挙げられます。これを遂行するためには、実に多様な人びとが同じ地域で暮らしていることの共通理解を果たす必要があるでしょう。特に、貧困や、障がい、差別、虐待などにより暮らしに課題のある人びとの困難を地域で共有していかなければなりません。この共通理解を推し進めるために、私たちは、私たちの支援を必要とする人びととその支援をする私たちの仕事を意図して地域に「ひらいて」きました※2。そのことを通して、認知症や介護にかかる苦悩を地域の人びとに、身近なものと捉えてもらい、延いては、自らのことと実感してもらうこと、かてて加えて、認知症のある人や介護をしている人に対する理解と慮りへと意識・感情・行動の変容を促進し、地域変革と地域包摂を狙った実践を展開してきたのです。これらの取り組みは、支援を必要とする人びと個人に焦点化した実践ではなく、その人びとと、人びとの背景にある地域社会を一体的に捉えた支援としてもソーシャルワークと整合する実践であることが確認できます。

 一方で、私たちの実践はまだ緒に就いたばかりといえます。まちづくりや地域包摂といったカテゴリーの実践は、10年で成し得るものではなく、世代の連続性を認識しながら更に長い期間を経て実践を堆積していく必要があるからです。そして、従来の他機関や組織では、あまり展開されてこなかったこれら先駆的・開拓的な実践は、今後さらに省察を繰り返しながら、その実践の精度を高めていく必要もあります。そのためにも、私たちは、現在の実践を、臆することなく変革させ、実践分野や圏域を越えて更に「ひらいて」いく必要があるのです。

 以上「今日までの歩み」として、地域包摂と地域変革を意図したソーシャルワーク実践を一定程度確立してきたことを取り上げ、そして、「これからの道筋」では、この取り組みが更なる成長を遂げていく必要を確認しました。

 しかし、私たちの実践は、決して、地域包摂や地域変革に留まるものではありません。信頼と多様性の確立がなされた地域の創出に貢献するということは、社会全体のあり方にも多分な影響を与えることを意味します。また、地域の中で、様々な人びとの直接的な関わりの創出を経て、多様な他者に対する理解や慮りを促進することができたならば、その人びとは、未だ直接出逢ってはいない圏域と時代を越えた人びとへの理解と慮りを始めるのだと思います。私たちの実践が、絶えず、地域を越えた社会の変革へと連なっていること、そして、このことを意識した実践が求められていることも付言しておきたいと思います。

 斯くの如く、ソーシャルワークは、そして、ケアワークも内含したあらゆる社会福祉実践は、現下の社会のあり方に代わる新たな社会の創造に資する中核的な役割を担う確たる潜在的機能と力を有しています。惜しまれてならないのは、その潜在力あることを多くの社会福祉実践家自身が気づいていないことにあります。この自覚が生まれなければ、私たちが自らの仕事を誇り得ることはできないと考えますので、このことは「地域の絆」の職員のというよりは、全ての社会福祉実践家の課題であると捉えています。この社会変革を射程に収めたソーシャルワークの展開は、社会福祉実践家が自らの仕事に対する真なる価値を発見し自負することにも大いに貢献することとなるでしょう。私たち地域の絆の「これからの道筋」には、この様な新しい社会を切り「ひらく」展開が待ち受けているのです。

 最後に、今ほど「一部の人たち」の声が伸張し、それ以外の人びとの声の稀釈された時代は、少なくとも戦後70年の道程においては存在しませんでした。こんな時代だからこそ、いま真のソーシャルワークとジャーナリズムが求められています。どのような立場から、如何なる方法で社会の変革を遂げていくのかが問われていることは、ソーシャルワークも、そして、ジャーナリズムも、その含意する課題は全く同様であるように思えます。この重大な危機を乗り越えるために、「地域の絆」が成し得ることは何か、職員の皆さんと共に考えていきたいと思いますし、分野と圏域を問わず志を一にするあらゆる人びととの実効ある連携を加速度的に進めていきたいと思います。この決意の体現こそが、「地域の絆」の、そして、私自身の「これからの道筋」にあたるのです。


※1 ラジェンドラン=ムース「アジアにおける日本のソーシャルワーカーの役割」第13回日本社会福祉士会全国大会・社会福祉士学会 記念講演 2005年6月4日(土)サンポート高松
※2 ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。



東京五輪エンブレム問題の背景にあるもの

2015/09/04 01:08:32  社会全般

 巷間を騒がせている東京五輪エンブレム問題。芸術・デザインに全く無頓着な若輩が、このエンブレムが盗用されたものであるのか、真相を判別する資格は全く持たないものの、仮にこのエンブレムが明らかな盗作であったと証明されたとしても、やはり、佐野氏だけを騒動の首謀者に仕立て上げることには不合理さを感じざるを得ない。この問題自体に焦点化した分析を行うのであれば、いま報じられているように、大会組織委員会の在り方やその運営に付随する政治における瑕疵問題は避けては通れないのだが、ここでは、もう少し広範にこの問題を捉えなおすことにする。

 実は、これら盗用の問題は、何もデザインの世界に特有なものではない。漫画や音楽の世界においても、盗作もしくは、盗作とまでは認定されない模倣の類の作品が蔓延している。特に音楽界では「サンプリング」の名のもとに、「引用」や「盗用」が跳梁跋扈しているようだ。なるほど、素人の私からしても、昔どこかで聴いたはずのメロディーを新曲で捉える事ができるほどに横行しているのである。

 では、なぜこのような事象が多発するのだろうか。その大きく一つの要素として、まず、芸術分野に経済の論理が濃厚に導入されていることにその源泉があると私は考えている。つまり、現下の社会では、作品のメッセージ性や独創性よりも、商品価値の高い「売れる」作品こそが第一義に求められているのだと思う。商業化して売れるものこそが優先の社会。ここでは、大衆受けのするものが優れた作品であると評される。このような構造下では、例えば一世を風靡した知名度の高い者など一部の恵まれたアーティストを除いて、売れなくても良いと豪語できる状況下にあるアーティストは数少ない。結果として、商業化と競争化にさらされ、万人受けする作品が商業ベースに乗って普遍化していく。私たちの社会では、作品の画一化が広がり、独創性の高い奇抜な作品が生まれにくい環境下にあると言える。

 効率性と生産性を最優先する社会においては、あらゆる実践や活動における多様性の喪失と画一化が顕著となる。この条件のもと、アーティストが生き残るためには、多数派により好まれる作品を創出していくことが強いられる。逆説的に言えば、現に売れている作品の多くは、大衆迎合型の独創性のかけらもない代物であるといってよい。

 そもそも、アーティストの定義が、少なくとも我が国においては曖昧模糊とした状況にある。古くより語り継がれている人たちや現代においても敬拝されるアーティストの共通項としては、社会に対する意見表明や感情表出、メッセージの発信が作品の根底に見られることが挙げられる。つまり、本人のいま有する思想や感情、理論を、表現方法としての作品を通して、社会に発する人々がアーティストではないかと少なくとも私は考えてきた。この定義に照らしてみれば、巷には似非アーティストが蔓延していると言えなくもない。

 アーティストが現下の社会をどのように捉え、そして、作品を通してその社会に何を伝えたいのか。斯様な本質を失した作品が多発し、作品を鑑賞する私たちの側においても、この深層を度外視した観察法が一般化しているのではあるまいか。この度のエンブレムに最も不足していた点は、まさにこのメッセージ性や本質の発露にあった。しかし、これはアーティストの責め一人に帰すべきものではなく、大会組織委員会をはじめそれを受け止める側の期待と観察眼やその社会構造に大きく依拠していることを忘れるべきではない。

 そもそも、教育・環境・医療・福祉・芸術・防災などは経済の効率性とは相いれない領域であり、その分野にまでも、市場原理が敷衍していることによって大きな問題が顕在化している。そして、これらの流れと共同歩調をとるかのように、人々の思想や表現、活動の画一化が広がっている。多様性や独創性は減退し、自らと思想や価値の異なる他者への理解や慮りは欠如し、人々の信頼の関係も失墜の傾向にある。

 今回の問題に終止符を打ったのは、すなわち、大会組織委員会の急速な変節は政治的判断によるものであった。盗用に関する真贋の丁寧な検証無くして、政権の思惑でエンブレムの取り下げが決断されたのだ。この拙速な幕引きによって、私たちは、責任の所在に加え、その社会的要因を追究する好機も同時に喪失したことになる。斯くの如く、その根源的な議論の機会を失してしまったことこそが、何よりもこの社会にとっての「機会損失」であった。



議論をすることの馬鹿らしさ

2015/08/16 08:05:51  社会全般


 多数派や権力の側が、その意見に反論する側に対して、よく「対案を出せ!」と一蹴する場面が見られます。まさに、参議院で審議中の安保法案にかかる遣り取りでお馴染みの政府の論法がこれです。他方においても、原発再稼働やTPP、アベノミクスなど、政府の打ち出す政策に抗弁するたびにこの対案要求論が浮上してきます。

 ここで私たちは大きく三つの事を考える必要があります。一つは、私たちの社会では、基本的人権の尊重や平和主義、民主主義や社会正義など、人々の人間としての基礎的な権利や社会のあるべき姿について、一定の共通理解がなされており、その範疇での議論が展開されている場合は対案を出す必要があるということです。つまり、そこには、議論に参加する意義と一定の責務があると考えますが、そうではない場合、即ち、そもそも俎上に載せられている意見や理論そのものが、大きくこの社会の共通理解から逸脱をしている場合、その議論に参加すること自体が不毛であると捉える論点です。

 なぜならば、人間の基礎的権利から逸脱した論理を前提とした主張に対案を講じるということは、その対案自体が、同じ逸脱の方向へと引きずり込まれることに繋がるからです。戦争のできる国になる法案に対する対案を出すということは、相手の土俵に乗るということであり、私たちが、「戦争のできる国」になることを志向した議論への参加を果たすことを意味するのです。そもそも対案とは、既存の主張を前提としたそれに対する別の案の事をいうわけですから、そこに参入することで、意識してか無意識かは別にして、相手の進路への接近を遂げてしまう危険が生じます。つまり、彼らの言う対案要求論は、自分たちの方針を前提にした方法論に対する議論への加入を求めているに過ぎないのがその姿勢の本質なのです。であるならば、こんな議論に付き合う事自体が、相手の計略にはまっていることになります。

 加えて、悲しいことに私たち日本人は、特に、両者の言い分を公平に取り扱うという“謙虚な”思想の持ち主が多いように思います。公平に捉えた結果、両者には等しく「言い分」があるのだと理解してしまいがちです。しかしどうでしょう。例えば、武力行使を主張する主戦論者らと、憲法9条を堅持し平和主義を訴える人々とが議論をした場合、両者に等しく言い分があると私たちは言えるのでしょうか。両者に等しい言い分があると断じたこの時点で、私たちは、主戦論者の側の土俵に乗り、その片棒を担ぐことになっているのではないでしょうか。両者の意見を等しく取り扱うということは、主戦論者にも半分の道理があることを認めることになるからです。このように、人間の本質的権利から根本的に乖離している論理に対して、対案などを出す必要は断じてなく、むしろ、議論そのものへ参加することすら慎重になるべきだと私は考えるのです。

 今一つは、対案までは構築できなくとも、おかしいと思ったことに反駁する人々の表現の自由の重要性にあります。情報量や財政力、連携力に圧倒的な格差のあるところに、精度の高い対案を要求されても、その時点で、対等な議論とは言えない実態があります。であるならば、対案構築までは出来ないが、少なくとも、政府の提示しているこの法案が、あるべき人間社会の根源に対比し、明らかに常軌を逸していると異議申し立てをすることは、人々の思想や表現の自由そのものであり、この自由が守られている社会にこそ民主主義が現存していると言えるのです。対案を保持しない反論も、決して軽んじてはなりません。

 最後に、あらゆる議論において、両者の言い分を公平に聴くこと自体はよいのですが、平等に受け止めるがゆえに、その間をとって折衷案を出すという手法がよく見受けられます。特に、私たち日本人は。この手法を堆積していくと、議論そのものが極端な方向へ漸次牽引されていく可能性が生じることと、そうでない場合は、無難な結論を選択する議論の先細りの傾向が生じる恐れがあります。あらゆる議論のあり方としては、両者の意見のいずれを選択するのか、その選択した一方の意見をいかにして昇華させていくのかという方法が最も有効であると考えています。意見の間をとる方法を継続することで、その社会や組織は、議論の活性化を喪失し、思索や創造の機会を減退させ、そして、その発展を停滞させることに帰結するからです。そして、この場合、両者の意見は、多数派・少数派の如何にかかわらず、全ての構成員が十分な議論を経てその一方を選択することになります。つまり、多数決という方法をなるべく取らずに、構成員間の自由な議論を通して、合意を得る努力を蓄積することこそが重要であると考えるのです。今こそ、基本理念に立ち返った本質的な議論を丁寧に堆積することの重要性を確認すべきです。

 以上のことから、今回の安保法制に対する対案や折衷案の提示は、全く意味がないばかりか、その事に捉われてしまうことで、却って、人間の基礎的権利を剥奪し、また極端に乖離した本法案に対する根源的な批判が稀釈され、現下の社会構造の本質的意味を私たち自身が自問自答する思考と想像の機会をも失してしまうことに連なると断言できます。

 つまり、人間の基礎的権利と社会の仕組みに対する共通理解の外にある主張に対しては、その意見が如何に、反人権的であり、反平和主義に依拠しているのかを厳然と解き明かしていけばよいのです。人間の基本的権利を理解している多くの人々にとっては、実に馬鹿らしくとても相手にできない法案であることを前提に…。



【通所サービス編】地域の一員として認められるためのさまざまな取組み実践例

2015/03/30 19:42:47  地域密着型サービス


1.はじめに−地域の絆の考える地域活動の目的と意義−
 2006年の介護保険制度改正によって地域包括支援センターと地域密着型サービスが創設され、地域包括ケアへの機運が高じてきました。そして、今や地域包括ケアを意図していない実践家は皆無であるかの様相が、特に我が国の介護保険事業にかかる状況ではないでしょうか。

 しかし、この中にあって幾つか留意しておかなければならない視点があります。一つは、個人に多様性があるように、地域においても様々な地域性があるということです。地域は個人の集合体ですので、個人のそれより多様な構成要素があるものと考えられます。例えば、規模や地理、気候、文化、歴史、宗教、言語、産業等の環境の在り方や、そこで暮らす人々の思想や共通理解も各地域によって大きく異なるものであると言えるでしょう。つまり、これからお話しする私たちの実践や方法は、私たちの実践地域では有効であったと言い得るでしょうが、皆さんの活動地域においてはこの方法がそのままの形では使えないことがあって当たり前であるということです。よって、私たちが他者の実践から学びを得るときの大事な観点は、その実践をありのまま模倣するのではなく、私たちの置かれた状況(組織や地域の在り方や私たち自身の個性や専門性)に応じて、改変・調整したうえで援用して取り入れるというところにあります。本章はこのような視点で読み進めて頂きたいと思います。

 そして、今一つはケアとしての個別支援と、まちづくりに関連する地域支援を繋げたものが地域包括ケアであり、このケアと地域の連動を実践家自身が頭の中で描けなければその実践は成し得ないという事実です。従来ケアワークの担い手たちは、目の前のクライエントに焦点化した支援に終始してきたと考えます。そこに、地域包括ケアの概念が突然に舞い降りて来て、地域にも関心を向けざるを得なくなったというのが現場の様相ではないでしょうか。この地域とケアを、思想的に、そして、実践的にも連ねる為に必要な視座は、ケアワークではなくソーシャルワークにあるというのが私の持論です。旧来よりソーシャルワークでは、クライエントに焦点化した支援ではなく、クライエントとその背景にある社会環境を一体的に捉えた支援が叫ばれてきました。そのような実践が数多なされて来たかは定かではないものの、考え方としては、以上の立ち位置で実践を行うのがソーシャルワークであるとの共通理解はなされていたと認識します。ここでは、地域包括ケアを進めるためにはソーシャルワークが不可欠であることの説明も試みていきたいと思います。

 如上のことを鑑み、私たち「地域の絆」における地域活動の要諦は、ソーシャルワークの理論に基づいた経営理念の共通理解を組織内に促進し、各地域に応じた多様な方法を創造・選択して実践することにあると説明できます。即ち、介護保険事業を展開する私たちが、クライエントの支援に終始するのではなく、クライエントの背景にまで裾野を広げた実践を推し進めていくことに私たちの真骨頂があると言えるのです。

 そして、これらのことを促進していく目的は、クライエントが安心して暮らすことができる地域社会を構築することにあります。クライエントがその地域で安心して暮らすためには、認知症や障がいのある方に対する地域住民の理解や協力が不可欠です。しかし実際には、多くの地域では、この理解や協力を得ることが難しく、であればこそ本章のテーマにも取り上げられているのが現状です。私たちには、この目的を遂行するために、地域住民の理解や協力を促す、つまり、その意識の変革を促進することが求められているのです。

 社会教育分野においては、地域住民の意識に大きな影響を与えるものは、体験や経験であると言われています。つまり、その活動に興味はなかったが関わっているうちに興味がわいてきた、その実践の重要性は理解していなかったが引っ張り込まれて参加する間にその必要性を認識するに至ったという体験的な学習こそが人々の意識を大きく変革する可能性があるというものです。私たち「地域の絆」は、このことに着眼した実践を強く意識しています。要するに、障がいのある人とない人の関わりの体験を地域の中で数多創出しようというのが私たちの意図する実践なのです。

 かつてのケアワークの時代においては、クライエントへの支援に収斂するあまり、クライエントと地域を峻別した支援が行われてきました。その結果、クライエントの暮らしと存在は、地域住民からは認識されないものとなり、また私たちの仕事も地域住民にとって疎遠な存在へと化してきたのです。この様に、障がいのある人との接点を稀釈した地域住民は、障がいを身近なものと捉えることや、自らのこととして認識することにまで困難を来たすようになりました。

 この様な現状の課題に対して、この流れを逆流させようというのが私たちの実践の中核となっています。つまり、クライエントの暮らしと存在、そして、私たちの仕事にまで、地域住民に関わってもらうこと、クライエントそして私たちとの関わりの機会を地域に意図して押し広げていくことこそが実践の基盤としてある訳です。そのことによって、地域住民に体験的学習の機会を提供し、障がいに対する認識をより身近に捉えてもらうことを狙っているのです。


2.地域活動に求められるソーシャルワークの機能と役割
 ここではソーシャルワークを以下の様に定義しておきます。

(襪蕕靴鵬歛蠅鯤えている人々(クライエント)に直接支援を行うこと、
▲ライエントが暮らしやすい社会構造(家族・地域からなる社会の構造)を構築するよう働きかけること、
クライエントのニーズを中心に、クライエントと社会構造との関係を調整すること、
だ府・行政に対し、クライエントのニーズを代弁した社会的活動(ソーシャルアクション)を行うこと、

 これらの4つの仕事を通して、クライエントが暮らしやすい社会を構築し、延いては、全ての人々が暮らしやすい社会を創出する専門性の総体、これがソーシャルワークであることを確認しておきたいと思います。

 特にケアワークとの違いは、△鉢い砲△襪搬えることができます。まさに、社会環境に対する働きかけがソーシャルワークには求められているのです。また、地域包括ケアの実践が求められているケアワークの領域においても、実はこれらのことが今まさに求められていると言えます。であるならば、これからのケアワークに加えるべき最も必要な機能は、ソーシャルワークであると言って過言ではないでしょう。

 通所サービスにおける相談員に求められている機能がソーシャルワークであることを認めれば、まさに、今までのケアワークで求められてきたことに留まっていれば、それは相談員としての役割を果たしたことにならないと自覚すべきではないでしょうか。特にこれから、通所サービスの相談員に求められる役割としては、地域包括ケアを念頭に、事業所のケアワーカーに対してソーシャルワークの機能を付加していくことと、そして、自らがソーシャルワーカーとしてクライエントのニーズを代弁し、地域社会と向き合っていくことができなければなりません。まさに、組織にソーシャルワークを普及し、個別支援たるケアと地域支援が表裏一体の状況にあること、相互作用の関係にあることの共通理解を推し進める主導的役割を担ってもらいたいと願わずにはいられません。

 一方で、人々の信頼関係の希薄化や、様々な課題の山積している各々の地域に対して、事業所の相談員だけがそれに対処することは現実的ではありません。自らがソーシャルワーカーとしての役割を担いながらも、事業所内における全ての職員にソーシャルワークを流布し、多くの職員が地域課題に向き合うことができるようにすべきです。でなければ、相談員に過度なる負担がかかり、結果、地域活動の継続性が危ぶまれることになるからです。地域との連携や、地域支援がむしろ相談員の独占業務とならないよう、組織全体で取り組む道筋が必要だと考えています。


3.地域活動に必要な要素
 いわずもがな、人間は本来主体的・能動的に生き、そのことを通して発展・成長を遂げていくものです。また、この成長の過程には、必ずや、他者との関わりや対話の機会が不可欠となります。この様な人々の関わりの機会が豊富に見込める地域は、人々の成長と発展に欠かせない場所になり得ると私は捉えています。つまり、地域活動で重要なことは、活動の過程における人々の関わりと対話の時間を大切にした実践を堆積することにあると言いたいのです。そのことが、人々の成長と発展のみならず、組織や地域の発展へと連なるものと信じています。よって、地域活動を単に実施することや、地域の催しに参画するのみならず、その活動の過程における地域住民との対話と関わりの時間が私たちの活動では重要となってきます。

 当然対話や関わりは、活動前後に実施される説明会や反省会といった会議の場面でなされるものです。しかしその機会は、全ての活動の過程において意図して設けることが可能です。例えば、活動では、目的遂行のための様々な作業があります。備品を運んだり、並べたり、物を作ったり、共に歌ったり踊ったりといったこれらの作業の最中での地域住民との関わりや会話を大切にしなければならないと私たちは考えています。また、そこで得られた情報を組織の中で共有し、次への活動に繋げていくことも重要です。

 さらに言えば、対話と関わりの機会は、地域活動の場面以外にも日常的に設けることができます。出退勤時に地域住民とすれ違うことや、クライエントの外出支援の折、外勤時などに私たちはその機会を得ることができるのです。この様な日常的な場面において、私たちは、挨拶と日常生活会話を大切にすることを法人の行動指針に謳っています。

 私たちの法人の名称は「地域の絆」ですが、地域における「絆」を構築していくことが私たちの実践の目的であると言えます。この「絆」は、「人々の信頼の関係」に置き換えて捉えることもできます。つまり、地域における人々の信頼関係を構築することが私たちの仕事であると認識しているのです。しかし、信頼の関係は、段階を経て構築されるものです。ある人々の関係が一足飛びに、信頼あるものへと到達するものではありません。日常的な会話と関わりの中で、お互いの人柄や職業、趣味などの情報と思いを共有し、その継続された過程の中で、やがて信頼の関係へと成就していくものであると考えています。そして、人と人とが支え合い・助け合うためには、その両者の関係の基盤に信頼がなければならないことも事実です。つまり、地域住民における支え合いや助け合い、そして、地域包括ケアを促進していくためには、地域住民間における信頼の関係を構築していく必要があるのです。そして、その信頼の関係は、日常的な関わりと会話の継続によって創造されていくものと言えます。

 であるならば、私たちは、地域住民との日常的な会話や関わりを等閑にして、信頼の関係を構築することなど出来ないし、そのことによって支え合い・助け合うことも儘ならない現実を明確に捉えることができます。何か新しいことに取り組みたいとき、困った折に、私たちが共に手を取り合い助け合うためには、日常的な連携が不可欠なのです。このことを私は、「有事の為の平時の連携」と言っています。人々の暮らしの「有事」は、自然災害や事故に限定されるものではありません。身内が認知症になることや、子どもが生まれること、自身が年をとることなど、暮らしにおける「有事」は実に多様で多量に存在します。「有事」を乗り越えるためには当然に人々の支え合いが不可欠です。しかし、日常としての「平時」から人々の連携が成されていなければ、恐らく、この「有事」の際の支え合いは機能することが期待できないと思います。私たちは、日常的な関わりの中で、お互いを認識し、お互いの存在を認め合い、その関わりを大事にしておらねば、「有事」の際に支え合うことなど出来ないのです。

 以上、私たち「地域の絆」が、地域活動において重要視している点はここでは次の二つを挙げることができます。‖佻辰抜悗錣蠅硫當を大切にすること、◆嵳事」に支え合うためには、「平時」の日常的な関わりがその基盤として無ければならないこと。そして、関わりや対話はいつも円滑で微笑ましいものとは限りません。時には、軋轢や葛藤、対立が生まれることもあります。しかし、その過程を経ることでしか、私たちはこの「絆」を地域に創造することは出来ないのです。


4.地域との連携の実践事例の紹介
 ここでは二つの視座に基づいて、「地域の絆」における事例の紹介をしていきたいと思います。一つ目は一節の「地域活動の目的」の箇所で説明した体験的な学習を意図した実践についてです。私たちは単にまちづくりをその仕事としているわけではありません。飽くまでも、クライエントの権利を守り、暮らしの質を高めるために地域と向き合うことが私たちには求められています。つまり、地域活動の中心にはクライエントの存在を据える必要があるのです。ですので、私たちの実践する地域活動は、その活動におけるクライエントの居場所と役割があることを重要視しています。

 障がい分野の施設における地域活動では、クライエントが作成した食品や物品を、クライエントが店頭で販売することなどは珍しいことでは無いかもしれません。一方で、高齢者分野では、その様なクライエントが役割を担う場面が少ない様に私は感じています。写真,任蓮▲ライエントが作った豚汁やうどん、善哉などをクライエントが店頭販売を行っている様子を示しています。たとえ認知症のため円滑な販売が困難であっても、地域住民はその事を理解した上で「美味しいね」と言って食べてくれます。また、これらの一連した活動で主体的な役割を担うことができたクライエントにも達成感や充足感、そして自己有用感が醸成されていきます。

 写真△蓮地域の中学校からの要請で、戦争体験をクライエントが生徒に語っている場面です。実は、私たちが地域活動においてクライエントに役割を持ってもらう際、最も重要視している点が、ストレングスモデルの観点です。ここではストレングスモデルを次の様に定義しておきます。


「クライエントの弱み(ウィークネス)にのみ着眼するのではなく、強み(ストレングス)にも着眼するケアマネジメントの一つのモデルであり、クライエントの持っている強み(意欲・嗜好・抱負・希望・夢等)のみではなく、環境の持つ強み(地域や家族との関係性や社会資源等)を同時に引き出し、クライエントの自己決定の促進と自己実現を目指すものである」。


 つまり、クライエントの夢や希望、趣味、特技、集中できるもの、こだわりや、クライエントが自らの環境に有している強みと言える関係(親族や地域住民とのつながり等)といったストレングスを活動の役割に変える工夫を凝らしているのです。ここでは、クライエントの戦争体験という強みを地域における役割に変換するという介入の機能を職員は果たしていると言えるでしょう。自らの強みを中学生に対する役割へと変遷することで、このクライエントの身体機能的状況と精神・心理的状況は一定程度向上しました。自己有用感が満たされたわけですからこれは当然の結果とも言えます。しかし、本事例の最も優れている点は、このクライエントと地域住民との関わりと対話の機会を通して、地域住民の認知症高齢者に対する捉え方に変化を起こしたことにあります。活動後の聞き取りにおいて、中学生とその先生たちは、〈昔のことなのに細かく覚えていることに驚いた〉〈長時間の話は体力的に難しいと思っていたが、長時間話ができることに驚いた〉〈思った以上に説明が分かりやすかった〉などの反応を示しました。これは、体験を通じて、中学生と先生の認知症高齢者に対する視点が変わったことを物語っています。このように、クライエントには、人々の意識を変革する力があるのです。クライエントであることの強みをクライエントが有していること。この事実を私たちは受け止める必要があります。

 二つ目の見地は、活動における過程の在り方そのものにあります。私たちが運営するある事業所では、長らくサロン活動を実施しています。この活動は、当初職員主導で始めました。地域住民に事業所を身近に感じてもらうために、おやつ作りをするサロン活動を職員の提案で開始したものです。その後、このおやつ作りの活動の最中に、参加者から様々な暮らしにおける課題を聞き取り、おやつ作りの活動は別の活動へと変遷して行きました。例えば、漢方薬の処方について曖昧な知識のまま服薬されている地域住民がいましたので、漢方薬に詳しい専門医に依頼し、地域住民を対象に講習会を開催したり(写真)、腰痛で悩んでいる地域住民のニーズに応じてカイロプラクターを招いて腰痛予防体操を開催したり(写真ぁ法△感畚蠅竜澣淅汰場面に直面したことから、救命救急に対する意識が高まった地域住民を対象に消防署員による救命講習会を開催することなどが挙げられます。また、「地域の絆」の各事業所では、事業所の避難訓練は専ら地域住民と協働で実施していますが、この事業所では、ある訓練を経て、地域住民から、車いすの操作方法が分からないので今後は協力できないと言われたことがありました。緊急避難時では、車いすでクライエントを避難誘導することになっており、その操作方法が不明瞭であれば、役に立たない所か却って足を引っ張ってしまうという私たちに対する慮りから生じた反応でした。この反応に対して、私たちはすぐさま、地域住民を対象にした車いす教室を開催しました(写真ァ法

 この様に地域活動は、その活動の中で新たに知り得た地域住民の思いや反応をもとに、現在の実践内容を絶えず変化させていくことがその要諦であると私たちは理解しています。冒頭で叙述した通り、多様な構成要素で成り立っているのが地域であり、その様々な地域を一つの指標で評価することには多大な困難を要します。つまり、地域住民のニーズを捉えることは容易なことではないと認識するのです。加えて、地域住民のニーズにかかわらず、あらゆるニーズは、流動的・可塑的なものであると言えます。ニーズは、自らの状況に応じて、そして、周囲の環境に応じて絶えず変化するべきものなのです。

 そこで地域活動において私たちは【図】の様な援助過程を取るようにしています。この【図】は、如上のニーズの傾向を踏まえて、地域住民のニーズを確定することに労力を費やし焦点化するのではなく、一人の地域住民の主訴や声をもとに、まずは何らかの活動を実施してみる事に特徴があります。そして、その活動の過程で関わりを持った地域住民との対話の中から、彼らの思いを抽出し、その捉えたニーズに応じた新たな活動を計画し、実践を重ねていくことを大切にしているのです。ですので、私たちの地域活動では、過程・即応・改変が重要であると捉えています。

 活動における過程での地域住民との関わりと対話の機会を大切にし、そして、そこで知り得た新たな地域住民のニーズに対して即応し、その積み重ねによって、活動そのものの在り方を改変していくことが重要であると認識しているのです。そして、地域活動において、一番忌避すべき方法は、地域住民のニーズが分からないので何も活動をしないということです。そもそも、地域住民のニーズとは何でしょうか?全構成員の総意としての地域ニーズは果たして存在するのでしょうか?また、一度確定した地域ニーズは揺るぎないものなのでしょうか?この様に本質的な課題を有している地域アセスメントに焦点化するのではなく、実践の中で、地域住民のニーズに接近する方法を検討すべきだというのが私たちの見解です。実践家であるならば、その理論の範疇において、現実面における効果的な方法を開発することも考案すべきだと私は思います。これこそが実践家の醍醐味ではないでしょうか。


5.まとめと今後の課題
 本章では、ソーシャルワーク理論に基づいた介護保険事業所による地域活動の考え方と実践について論じてきました。首尾一貫して述べている通り、実践の方法については、皆さんの組織の在り方や地域性に応じて、これから際限なく創造・選択できるだろうと考えています。他方、ここで示した幾つかの考え方については一定の汎用性があるものと認識しています。この点を踏まえながら本章を参考にしてもらえれば幸いです。以上のことを前提に、事業所が展開する地域活動における留意点として次の3つのことを最後に記しておきます。

 一つは、私たちが地域に「ひらかれた」※実践を敷衍していくことは、クライエントの暮らしの質を高めることに繋がるという共通理解が必要であるということです。特に重要なことは、支配的援助関係に陥りがちな、非対称性と言われているクライエントと私たちの負の関係を緩和する作用が期待できるところにあります。事業所という閉鎖された空間内で、お世話をする側とされる側の関係が、長時間滞留しておれば、無意識の内に“お世話をする側”の理論が先行し、“お世話をされる側”の思いが度外視される傾向が強まります。クライエントの思いを度外視するということは、それはクライエントの「モノ化」に繋がると言え、いわゆる権利擁護の実践とは対極の位置へと帰結するものです。この権力関係を緩和するには、絶えず第三者の視点を取り入れ、そこで、適度な刺激を受けながら私たちは職務を遂行することが求められます。地域に「ひらかれる」ことは、無意識に起こりがちな、私たちとクライエントとの支配関係を予防ないし緩和する機能があることをここでは共通認識しておきたいと思います。

 そして、二つ目に、「絆」即ち「人々の信頼の関係」を構築することの困難さがあります。生まれも、育ちも、職業も異なる私たちが、地域の中でこの「絆」を構築する際、必ずと言っていい程起こり得ることに意見の対立や軋轢が挙げられます。クライエントの暮らしや社会福祉を身近なものとして、自らのこととして捉えることが困難な地域住民との対立や軋轢の経験は、かつて多くの実践家が経験してきたことであると認識します。しかし、本来多様な人々が信頼の関係を構築するためには、対話と関わりが不可欠であり、この過程において対立や葛藤は避けては通れない現実があります。つまり、対立と軋轢は、人々が信頼関係を構築するための必須で、かつ重要な過程であると言えます。逆説的に言えば、対立・葛藤・軋轢を経験していない組織や集団には信頼関係が構築されづらい素地があるとすら私は考えています。
またこの時、一番やってはいけないことは、「この地域の住民は、社会福祉に理解がない!」とレッテルを貼って、対話と関わりの機会を諦めてしまうことです。また、私たちがこのようなレッテルを貼り続けている間は、少なくともその地域住民が、社会福祉に理解を示すことなど有り得ないでしょう。地域と向き合う際にも、ストレングスモデルの視点は重要な要素となり得るのです。

 最後に、クライエントの権利擁護を念頭に地域包括ケアを展開していくためには、政府や行政と私たちの役割を明確化する必要があります。人々の生存権の保障や尊厳の保持は、憲法で定められている以上、この範疇は第一義に政府・行政の責任においてなされるべきものです。当然に介護保険事業者の役割としては、私たちの責務も多くがここに該当します。そして、地域包括ケアや本章で論じてきた地域活動は、これら責務の基盤の上に付加した形で、クライエントと地域住民の暮らしの質を更に豊かな状態へと発展させるものでなければなりません。仮に、政府や行政が本来担うべき生存権の保障や尊厳の保持までも、地域包括ケアや地域活動において賄っていくというのであれば、公的責任の減退という意味において、我が国の社会福祉の質をむしろ貶めることに帰結するからです。地域包括ケアや地域活動は、飽く迄も、公的責任の土台の上に積み上げる機能として存在すべきであり、公的責任の代替的役割を担うものではありません。

 以上の様に、ソーシャルワーカーとしての相談員には、マクロ・メゾ領域のみならず社会構造全般を捉えたミクロ領域に対する見識も同時に求められているのです。


※ 本章では、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記します。
 


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福祉車両にはステッカーを堂々と貼りなさい

2015/02/21 19:13:38  社会福祉


 特に介護保険制度が創設されて以降、社会福祉サービスの多様化が顕著であります。これ自体は、歓迎されるべき事であり、クライエントの多様なニーズに応え得る良質な実践へと繋がるものと喜んでいる所です。しかし、中には思わず、首を傾げたくなるサービスも御見受けします。社会福祉施設を利用していることを近隣住民に知られたくないので、施設のステッカーを全て送迎車両から外した状態で来てもらいたいとの要望に対して、いわゆる福祉車両のそれが分からぬようステッカーを外して送迎をしている施設が数多あるようです。このことは、クライエントや家族のニーズに柔軟に対応したサービスと一部評されてもいるようですね。その為か、ノンステッカーの福祉車両を昨今よく目にします。

 人々が社会で暮らす上で、そこには当然に様々な困難や課題が生じてきます。そんな時に、その理由如何によらず、最低限の生存権と尊厳の保障が成されているのが我が国であるはずです。つまり、医療も当然ながら、社会福祉サービスを受けることは国民の当然の権利としてある訳です。その当然の権利を行使するに当たって、人目を憚ってでしか、そのサービスの受給が出来ないことにこそ問題を感じずにはいられません。本人の意志だからと、サービス提供者は思っているのかも知れません。しかし、その本人の願いは、どのような社会的背景から生じているのかまで考えたのでしょうか。昔は根強く存在していた「福祉の世話になったら終わりだ」という意識が、社会の中で払拭されていないことがその背景にあると私は考えます。要するに、偏見のまなざしで見られるであろう人目があるからこそ、ステッカーを拒否するのであって、社会福祉サービスを受給するのは国民の当たり前の権利だと周囲が十分理解したまなざしで見るのであればステッカーの拒否などあり得ない訳です。

 この様に考えれば、私たち社会福祉実践家が成すべきは、クライエントの暮らしに不可欠な社会福祉サービスをクライエントが人目を憚ることなく堂々と利用できる社会を構築することにこそあると言えます。社会福祉サービスの受給に対するスティグマを押されたままの状態で隠すのではなく、むしろ、そのスティグマを払拭するべく行動を起こす必要があるのではないでしょうか。であればこそ、私は考えます。福祉車両のステッカーは、むしろ、それが分かる様に大々的に貼っておけばよろしい。



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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