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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

地域の絆の今日までの歩み、そして、これからの道筋【創立10周年誌コメント】

2016/01/23 21:40:12  社会全般

 「地域の絆の今日までの歩み」を、一言で述べるならば、介護保険事業所に、社会変革を志向した真のソーシャルワーク実践の展開ができるのか、その挑戦の堆積にあったといえます。私たちが、なぜ、ソーシャルワークにこだわり続けてきたのか、そして、どのようなソーシャルワークに今後頓着し続けていくべきなのか、その掲げてきた方針と今後の決意を叙述し、創立10周年の挨拶の言葉に代えさせて頂きたいと思います。

 大学では社会学を学び、ジャーナリストを志望していた私が、社会福祉実践の道に足を踏み入れたのは、ジャーナリズムとソーシャルワークに強い親和性を感じたからでした。

 公正中立・不偏不党な立場や事実はこの世に存在しない。逆に、実在するのは、100人いれば100通りの立場と事実であるということを様々な経験を通して学んできました。であればこそ、全ての人びとの尊厳ある社会を構築するためには、この多様な人々の立場と言い分を共有する必要が生じてきます。しかし、現下の趨勢はどうでしょうか。一部の大きな声を発することのできる人たちの「立場」と「事実」が普遍化し、まるでそれこそが客観的事実であり、不偏不党であるかのように巷間では捉えられているのではないでしょうか。

 この要因として私は、資本主義社会の力学的必然として、また、権力構造を背景とした少数者意見による席巻がなされていることと(例えば、生活保護を「贅沢保護」と捉える風潮や、原発・電磁波の安全神話の問題などと)、既存の社会の秩序や規範に馴化させることに重きをおいた誤った教育のあり方にその端緒をつかんでいます。

 いずれにせよ、世間で言われている「普通」や「常識」、「公理」というものは、全ての人びとの立場や意見を反映したものでは断じてなく、一部の人たちから見た事実を普遍化したものに過ぎないと言えます。ここで問題視すべきことの一つは、この「一部の人たち」は、社会に多大な影響を行使することのできる力を有する権力者や富裕層など優位的な立場にあることが専らであることと、今一つは、これら「普通」や「常識」がまるで客観的事実であるかの如き錯覚が蔓延していることにあります。

 全ての人びとの尊厳ある暮らしを守るためには、これら「一部の人たち」の立場はもちろんですが、それ以外の人びとの言い分にも耳を傾ける必要があります。この場合、「一部の人たち」は、自らの論理を普遍化する力を有していますので、ソーシャルワークとジャーナリズムは、むしろ、そうではないそれ以外の人たちから捉えた事実に着眼しなければなりません。つまり、「一部の人たち」の立場が席巻した帰結としての「普通」や「常識」といったものとは異なる別の〈普通〉と〈常識〉があることを提示することがジャーナリズムの役割であり、この〈普通〉や〈常識〉の立場から、時に、「普通」と「常識」と対峙し、その改善と変革を促進することがソーシャルワークそのものであると私はとらまえているのです。そして、これらの活動を推進する基底には、「普通」や「常識」が真に客観的事実を捉えたものではないという見識を、ソーシャルワーカーとジャーナリストが包含していなければなりません。その意味で、これらの取り組みは、不偏不党や公正中立の存在を信じて疑わないジャーナリストには、そもそも期待できない実践かもしれませんし、ソーシャルワーカーにおいても然りです。

 以上の様にソーシャルワークもジャーナリズムも、現に社会から排他・排斥されている人びとの立場から社会的活動を展開し、彼らの尊厳の保持された社会を構築すること、その様な社会への変革を成し遂げることの進展に貢献し、これらの営みを経由して、「一部の人たち」を含む全ての人間の尊厳保障へと帰結する社会を描いていくことにこそ共通する真骨頂があります。ここで、確認しておきたいことは、ジャーナリズムもソーシャルワークにおいても、「排除する側」と「排除される側」の分断を決して生み出すことなく、「(全ての)人間の利益」としての普遍的価値に着眼した戦略的実践が不可欠であるということです。排除ではなく、連帯と連携を基盤に据えたあるべき社会への接近こそが私たちの志向する社会変革であるからです。

 さて、ソーシャルワークに如上の崇高な使命を含意した時、この様なソーシャルワークの展開が可能な機関や組織は全国に如何ほど存在するのでしょうか。ソーシャルワークでは、個人の課題を、個人の内部と、外部にある社会環境との相互作用のあり方に見いだすわけですが、その課題解決にあたって社会環境の改善と変革を意図した実践がどれほど展開されているというのでしょうか。2005年6月高松市で開催された日本社会福祉士会全国大会における記念講演で、当時岩手県立大学のラジェンドラン=ムース氏が話した内容であり、講演中最も心証に残った一部をここでは紹介しておきます。
 

「ソーシャルワーカーの目標はソーシャルチェンジを行う事。ソーシャルチェンジとは、個人・グループ・地域社会の変化を行う事。ソーシャルワークは変化を行う道具である」※1。


 そして、ムース氏は語り続けました。「その意味において日本に本物のソーシャルワーカーはいない」。
 
 私は「本物のソーシャルワーカー」でありたいし、そして、これからの若い人たちにも「本物のソーシャルワーカー」であって欲しいと切望します。そして、このソーシャルワークの理念と理論を礎に書き上げたのが、私たちの経営理念であるし、その実践を敷衍するために創設したのが私たちの「地域の絆」なのです。

 私たちの支援を必要としている人びとの最も身近にあり、その暮らしに多大な影響を及ぼしている社会環境は地域です。人びとが、自分らしく安心して暮らせるその尊厳を保障するための重要な条件の一つには、この地域における人びとの互酬性と信頼に裏打ちされた関係の構築が挙げられます。これを遂行するためには、実に多様な人びとが同じ地域で暮らしていることの共通理解を果たす必要があるでしょう。特に、貧困や、障がい、差別、虐待などにより暮らしに課題のある人びとの困難を地域で共有していかなければなりません。この共通理解を推し進めるために、私たちは、私たちの支援を必要とする人びととその支援をする私たちの仕事を意図して地域に「ひらいて」きました※2。そのことを通して、認知症や介護にかかる苦悩を地域の人びとに、身近なものと捉えてもらい、延いては、自らのことと実感してもらうこと、かてて加えて、認知症のある人や介護をしている人に対する理解と慮りへと意識・感情・行動の変容を促進し、地域変革と地域包摂を狙った実践を展開してきたのです。これらの取り組みは、支援を必要とする人びと個人に焦点化した実践ではなく、その人びとと、人びとの背景にある地域社会を一体的に捉えた支援としてもソーシャルワークと整合する実践であることが確認できます。

 一方で、私たちの実践はまだ緒に就いたばかりといえます。まちづくりや地域包摂といったカテゴリーの実践は、10年で成し得るものではなく、世代の連続性を認識しながら更に長い期間を経て実践を堆積していく必要があるからです。そして、従来の他機関や組織では、あまり展開されてこなかったこれら先駆的・開拓的な実践は、今後さらに省察を繰り返しながら、その実践の精度を高めていく必要もあります。そのためにも、私たちは、現在の実践を、臆することなく変革させ、実践分野や圏域を越えて更に「ひらいて」いく必要があるのです。

 以上「今日までの歩み」として、地域包摂と地域変革を意図したソーシャルワーク実践を一定程度確立してきたことを取り上げ、そして、「これからの道筋」では、この取り組みが更なる成長を遂げていく必要を確認しました。

 しかし、私たちの実践は、決して、地域包摂や地域変革に留まるものではありません。信頼と多様性の確立がなされた地域の創出に貢献するということは、社会全体のあり方にも多分な影響を与えることを意味します。また、地域の中で、様々な人びとの直接的な関わりの創出を経て、多様な他者に対する理解や慮りを促進することができたならば、その人びとは、未だ直接出逢ってはいない圏域と時代を越えた人びとへの理解と慮りを始めるのだと思います。私たちの実践が、絶えず、地域を越えた社会の変革へと連なっていること、そして、このことを意識した実践が求められていることも付言しておきたいと思います。

 斯くの如く、ソーシャルワークは、そして、ケアワークも内含したあらゆる社会福祉実践は、現下の社会のあり方に代わる新たな社会の創造に資する中核的な役割を担う確たる潜在的機能と力を有しています。惜しまれてならないのは、その潜在力あることを多くの社会福祉実践家自身が気づいていないことにあります。この自覚が生まれなければ、私たちが自らの仕事を誇り得ることはできないと考えますので、このことは「地域の絆」の職員のというよりは、全ての社会福祉実践家の課題であると捉えています。この社会変革を射程に収めたソーシャルワークの展開は、社会福祉実践家が自らの仕事に対する真なる価値を発見し自負することにも大いに貢献することとなるでしょう。私たち地域の絆の「これからの道筋」には、この様な新しい社会を切り「ひらく」展開が待ち受けているのです。

 最後に、今ほど「一部の人たち」の声が伸張し、それ以外の人びとの声の稀釈された時代は、少なくとも戦後70年の道程においては存在しませんでした。こんな時代だからこそ、いま真のソーシャルワークとジャーナリズムが求められています。どのような立場から、如何なる方法で社会の変革を遂げていくのかが問われていることは、ソーシャルワークも、そして、ジャーナリズムも、その含意する課題は全く同様であるように思えます。この重大な危機を乗り越えるために、「地域の絆」が成し得ることは何か、職員の皆さんと共に考えていきたいと思いますし、分野と圏域を問わず志を一にするあらゆる人びととの実効ある連携を加速度的に進めていきたいと思います。この決意の体現こそが、「地域の絆」の、そして、私自身の「これからの道筋」にあたるのです。


※1 ラジェンドラン=ムース「アジアにおける日本のソーシャルワーカーの役割」第13回日本社会福祉士会全国大会・社会福祉士学会 記念講演 2005年6月4日(土)サンポート高松
※2 ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。



東京五輪エンブレム問題の背景にあるもの

2015/09/04 01:08:32  社会全般

 巷間を騒がせている東京五輪エンブレム問題。芸術・デザインに全く無頓着な若輩が、このエンブレムが盗用されたものであるのか、真相を判別する資格は全く持たないものの、仮にこのエンブレムが明らかな盗作であったと証明されたとしても、やはり、佐野氏だけを騒動の首謀者に仕立て上げることには不合理さを感じざるを得ない。この問題自体に焦点化した分析を行うのであれば、いま報じられているように、大会組織委員会の在り方やその運営に付随する政治における瑕疵問題は避けては通れないのだが、ここでは、もう少し広範にこの問題を捉えなおすことにする。

 実は、これら盗用の問題は、何もデザインの世界に特有なものではない。漫画や音楽の世界においても、盗作もしくは、盗作とまでは認定されない模倣の類の作品が蔓延している。特に音楽界では「サンプリング」の名のもとに、「引用」や「盗用」が跳梁跋扈しているようだ。なるほど、素人の私からしても、昔どこかで聴いたはずのメロディーを新曲で捉える事ができるほどに横行しているのである。

 では、なぜこのような事象が多発するのだろうか。その大きく一つの要素として、まず、芸術分野に経済の論理が濃厚に導入されていることにその源泉があると私は考えている。つまり、現下の社会では、作品のメッセージ性や独創性よりも、商品価値の高い「売れる」作品こそが第一義に求められているのだと思う。商業化して売れるものこそが優先の社会。ここでは、大衆受けのするものが優れた作品であると評される。このような構造下では、例えば一世を風靡した知名度の高い者など一部の恵まれたアーティストを除いて、売れなくても良いと豪語できる状況下にあるアーティストは数少ない。結果として、商業化と競争化にさらされ、万人受けする作品が商業ベースに乗って普遍化していく。私たちの社会では、作品の画一化が広がり、独創性の高い奇抜な作品が生まれにくい環境下にあると言える。

 効率性と生産性を最優先する社会においては、あらゆる実践や活動における多様性の喪失と画一化が顕著となる。この条件のもと、アーティストが生き残るためには、多数派により好まれる作品を創出していくことが強いられる。逆説的に言えば、現に売れている作品の多くは、大衆迎合型の独創性のかけらもない代物であるといってよい。

 そもそも、アーティストの定義が、少なくとも我が国においては曖昧模糊とした状況にある。古くより語り継がれている人たちや現代においても敬拝されるアーティストの共通項としては、社会に対する意見表明や感情表出、メッセージの発信が作品の根底に見られることが挙げられる。つまり、本人のいま有する思想や感情、理論を、表現方法としての作品を通して、社会に発する人々がアーティストではないかと少なくとも私は考えてきた。この定義に照らしてみれば、巷には似非アーティストが蔓延していると言えなくもない。

 アーティストが現下の社会をどのように捉え、そして、作品を通してその社会に何を伝えたいのか。斯様な本質を失した作品が多発し、作品を鑑賞する私たちの側においても、この深層を度外視した観察法が一般化しているのではあるまいか。この度のエンブレムに最も不足していた点は、まさにこのメッセージ性や本質の発露にあった。しかし、これはアーティストの責め一人に帰すべきものではなく、大会組織委員会をはじめそれを受け止める側の期待と観察眼やその社会構造に大きく依拠していることを忘れるべきではない。

 そもそも、教育・環境・医療・福祉・芸術・防災などは経済の効率性とは相いれない領域であり、その分野にまでも、市場原理が敷衍していることによって大きな問題が顕在化している。そして、これらの流れと共同歩調をとるかのように、人々の思想や表現、活動の画一化が広がっている。多様性や独創性は減退し、自らと思想や価値の異なる他者への理解や慮りは欠如し、人々の信頼の関係も失墜の傾向にある。

 今回の問題に終止符を打ったのは、すなわち、大会組織委員会の急速な変節は政治的判断によるものであった。盗用に関する真贋の丁寧な検証無くして、政権の思惑でエンブレムの取り下げが決断されたのだ。この拙速な幕引きによって、私たちは、責任の所在に加え、その社会的要因を追究する好機も同時に喪失したことになる。斯くの如く、その根源的な議論の機会を失してしまったことこそが、何よりもこの社会にとっての「機会損失」であった。



議論をすることの馬鹿らしさ

2015/08/16 08:05:51  社会全般


 多数派や権力の側が、その意見に反論する側に対して、よく「対案を出せ!」と一蹴する場面が見られます。まさに、参議院で審議中の安保法案にかかる遣り取りでお馴染みの政府の論法がこれです。他方においても、原発再稼働やTPP、アベノミクスなど、政府の打ち出す政策に抗弁するたびにこの対案要求論が浮上してきます。

 ここで私たちは大きく三つの事を考える必要があります。一つは、私たちの社会では、基本的人権の尊重や平和主義、民主主義や社会正義など、人々の人間としての基礎的な権利や社会のあるべき姿について、一定の共通理解がなされており、その範疇での議論が展開されている場合は対案を出す必要があるということです。つまり、そこには、議論に参加する意義と一定の責務があると考えますが、そうではない場合、即ち、そもそも俎上に載せられている意見や理論そのものが、大きくこの社会の共通理解から逸脱をしている場合、その議論に参加すること自体が不毛であると捉える論点です。

 なぜならば、人間の基礎的権利から逸脱した論理を前提とした主張に対案を講じるということは、その対案自体が、同じ逸脱の方向へと引きずり込まれることに繋がるからです。戦争のできる国になる法案に対する対案を出すということは、相手の土俵に乗るということであり、私たちが、「戦争のできる国」になることを志向した議論への参加を果たすことを意味するのです。そもそも対案とは、既存の主張を前提としたそれに対する別の案の事をいうわけですから、そこに参入することで、意識してか無意識かは別にして、相手の進路への接近を遂げてしまう危険が生じます。つまり、彼らの言う対案要求論は、自分たちの方針を前提にした方法論に対する議論への加入を求めているに過ぎないのがその姿勢の本質なのです。であるならば、こんな議論に付き合う事自体が、相手の計略にはまっていることになります。

 加えて、悲しいことに私たち日本人は、特に、両者の言い分を公平に取り扱うという“謙虚な”思想の持ち主が多いように思います。公平に捉えた結果、両者には等しく「言い分」があるのだと理解してしまいがちです。しかしどうでしょう。例えば、武力行使を主張する主戦論者らと、憲法9条を堅持し平和主義を訴える人々とが議論をした場合、両者に等しく言い分があると私たちは言えるのでしょうか。両者に等しい言い分があると断じたこの時点で、私たちは、主戦論者の側の土俵に乗り、その片棒を担ぐことになっているのではないでしょうか。両者の意見を等しく取り扱うということは、主戦論者にも半分の道理があることを認めることになるからです。このように、人間の本質的権利から根本的に乖離している論理に対して、対案などを出す必要は断じてなく、むしろ、議論そのものへ参加することすら慎重になるべきだと私は考えるのです。

 今一つは、対案までは構築できなくとも、おかしいと思ったことに反駁する人々の表現の自由の重要性にあります。情報量や財政力、連携力に圧倒的な格差のあるところに、精度の高い対案を要求されても、その時点で、対等な議論とは言えない実態があります。であるならば、対案構築までは出来ないが、少なくとも、政府の提示しているこの法案が、あるべき人間社会の根源に対比し、明らかに常軌を逸していると異議申し立てをすることは、人々の思想や表現の自由そのものであり、この自由が守られている社会にこそ民主主義が現存していると言えるのです。対案を保持しない反論も、決して軽んじてはなりません。

 最後に、あらゆる議論において、両者の言い分を公平に聴くこと自体はよいのですが、平等に受け止めるがゆえに、その間をとって折衷案を出すという手法がよく見受けられます。特に、私たち日本人は。この手法を堆積していくと、議論そのものが極端な方向へ漸次牽引されていく可能性が生じることと、そうでない場合は、無難な結論を選択する議論の先細りの傾向が生じる恐れがあります。あらゆる議論のあり方としては、両者の意見のいずれを選択するのか、その選択した一方の意見をいかにして昇華させていくのかという方法が最も有効であると考えています。意見の間をとる方法を継続することで、その社会や組織は、議論の活性化を喪失し、思索や創造の機会を減退させ、そして、その発展を停滞させることに帰結するからです。そして、この場合、両者の意見は、多数派・少数派の如何にかかわらず、全ての構成員が十分な議論を経てその一方を選択することになります。つまり、多数決という方法をなるべく取らずに、構成員間の自由な議論を通して、合意を得る努力を蓄積することこそが重要であると考えるのです。今こそ、基本理念に立ち返った本質的な議論を丁寧に堆積することの重要性を確認すべきです。

 以上のことから、今回の安保法制に対する対案や折衷案の提示は、全く意味がないばかりか、その事に捉われてしまうことで、却って、人間の基礎的権利を剥奪し、また極端に乖離した本法案に対する根源的な批判が稀釈され、現下の社会構造の本質的意味を私たち自身が自問自答する思考と想像の機会をも失してしまうことに連なると断言できます。

 つまり、人間の基礎的権利と社会の仕組みに対する共通理解の外にある主張に対しては、その意見が如何に、反人権的であり、反平和主義に依拠しているのかを厳然と解き明かしていけばよいのです。人間の基本的権利を理解している多くの人々にとっては、実に馬鹿らしくとても相手にできない法案であることを前提に…。



社会関係の臨界

2014/08/24 21:18:06  社会全般

「論争」に投稿させて頂きました。



 「9条の臨界」と題したコラム(「風速計」本誌1001号2014年7月25日)で、中島岳志氏が以下の様に述べている。「私は憲法9条に『他国防衛を旨とする集団的自衛権は行使しない』と明記すべきだと考えている。憲法に自衛隊の存在を記載し、国民の側から軍事力に縛りをかけるべきだ」。本文の全体を通じての氏のあるべき社会像や思想の本質には当然に共感している。しかし、如上の記載に対しては、やはり若干の違和感を抱かざるを得ない。議論を深めるために、筆を執ることにした。

 たとえば、私は社会福祉実践家である。実践家が実践をなすには、その思想的な拠り所が必要である。また、その実践家が組織に所属している場合は、組織の共通理解(common sense)としての組織理念が最も重要であると日々考えている。なぜならば、実践家は日々現場の中で、その時々に起きている目の前の困難を克服すべく現実的な判断を迫られることが多く、その現実的な判断は、社会福祉実践家が拠り所とすべき価値・道徳的な判断とは齟齬が生じていることが往々にしてあるからだ。現場には、最低限定型化してやらざるを得ない業務があり、また現実的な関係や環境におけるしがらみがある。であればこそ、原理原則論や共通理解の確認が実践家には絶えず求められているのだと思う。

 以上の様に、市井には、自らが置かれている現状・現実の中で、可能な実践を模索する経験的判断と、目的・未来に向けて私たちは何をすべきか・どうあるべきかを模索する価値・道徳的判断がある。特に実践家においてはその双方共に重要であるが、上記の如く、現場は、様々なしがらみに流されやすいので、時折立ち止まって価値・道徳的判断で自らの立ち位置を確認する作業が必要となる。

 さて、憲法についてであるが、この2つの判断の内、経験的判断というよりは、価値・道徳的判断に依拠している様に思われる。社会福祉実践家が重要視すべき13条と25条はいまや瀕死の状態である。条文と現実のあいだには、かつて経験して事の無い大きな乖離が生じようとしている。であるならば、これらを現状に即して、実現可能なものに変えた方が良いのだろうか。そうはならないはずだ。

 人々は今、画一化と多様性の喪失を基盤としながら、他者に対する関わりを忌避し、他者に対する慮りを喪失している。そこから、他者に対する無理解・不安・恐怖・軋轢・対立が生じ、加速度的に、他者に対する関わりに煩わしさを強めている。この負の循環の下にある現在の社会に求められていることは、人々の信頼の関係を再構築することであり、そのためには、あるべき社会に対する議論と模索が必要であると考える。あるべき社会とは何か。人々にその共通理解を促進する為に憲法は重要な役割を果たし得るはずだ。

 9条に臨界が来ているのではない。人々の信頼の関係にこそ、臨界が生じているのである。その信頼の絆を取り戻すために、この社会の臨界を乗り越えるために、むしろ9条は有効な手段となり得ると私は認識している。




社会福祉実践家こそが、集団的自衛権行使に抗議せよ!

2014/06/28 01:41:41  社会全般
 社会福祉実践は政治運動ではない。しかし、社会福祉実践家が、その専門的価値に基づいて政治活動をすることは忌避されるべきではありません。ましてや、人々の暮らしと人権が軽視されている今の世にあって、その人々の暮らしを守るべき立場にある私たちが、あるべき社会への接近のために、その手段としての政治に関与することはむしろ避けては通れないものと考えます。

 特定秘密保護法も然る事ながら、政府による集団的自衛権の行使は、社会福祉実践家にとって、人々の暮らしを最も悪化させる私たちの実践理念の対極にある行動であることを自覚せねばなりますまい。であるならば、社会福祉実践家こそが、この政府の体たらくに対して強く異議を申し立てるべきだと私は思います。以下、社会福祉実践家の立場から、この集団的自衛権についての問題提起を試みておきたいと思います。

 社会福祉実践家の使命は、人々の権利を擁護することであると言われて久しい。権利を擁護することにおいて一つ重要なことは、権利の侵害から人々を守るということにあります。もしくは、そのことを予防するということでしょうか。現代の戦争では、周知の通り、兵士よりも圧倒的に一般人がより多く命を落とす傾向にあります。集団的自衛権の行使は、自衛隊員に死を求めるということに帰結するが、その覚悟が政府にあるのか否か、という問いがよく巷で成されていますが、これはある意味間違った見解であると私は考えます。もちろん、自衛隊員が命を落とす確率は高まりますが、それと同時に、私たち自身が命を落とす可能性をより高めるものであることが明示されていないからです。

 戦争は、非人間的・反人権的な行為であり、暴力行為そのものであることは自明の理です。そのような状況に巻き込まれて、もっとも人権の蹂躙を受けるのは一体誰でしょうか。それは、女性と子ども、そして、自らの暮らしにおいて誰かの支援を必要としている人々、私たちのクライエントの生命と暮らしが最も侵害されることは言うまでもありません。だとすれば、戦争は、私たち社会福祉実践家の実践理念とはやはり真逆の位置にあることが理解されます。自らの暮らしに課題を有し、社会から排他・排斥されている人々の権利と暮らしを守る私たちの実践は、戦争と正反対の位置にあり、それは平和維持への貢献に繋がっていることに私たちはもっと誇りを有するべきだと思います。

 そもそも、戦争は権力の暴走に起因してなされます。丁度今の日本社会がそれに当てはまるのではないでしょうか。権力の暴走は、人々の人権が軽視され、あらゆる自由が喪失されていく中で起こり得るものです。言論・信教・表現・教育等のあらゆる自由が人々から簒奪されて初めて権力は暴走を果たします。これらは、特に、生存権と幸福追求権の侵害によって促進されて行くと言えるでしょう。よって、人々のこの生存権と幸福追求権を守っている私たち社会福祉実践家が各地で織り成す営みは、人々の権利を守ることに終始しているのではなく、その先にある権力の暴走への歯止めをかけていることになります。まさに、戦争を防ぎ、平和を維持しているのです。

 先の権利擁護の件に戻りましょう。権利擁護の実践は、人々を権利侵害から守り、それを防ぐことにあると述べました。今一つ重要なことは、人々の自己決定の尊重にあります。この度の集団的自衛権行使は、憲法解釈の変更という手続きを取ることによって、国民の意見を度外視した上で、政府が独善的な決定を行っていることになります。まさに、国民の自己決定を黙殺した手法であると言えるでしょう。よって、これも、社会福祉実践とは対極にある行動と言わざるを得ません。

 かてて加えて、とても重要な視点が抜け落ちていると思います。仮に、選挙で選出された国会議員がその帰結を経て、集団的自衛権の行使を画策している、よって、これはある種の国民の自己決定によるものだとの論理が成り立ったとしても、それだけでは済まされない問題があるのです。

 それは、例えばこの憲法解釈の変更がなされたとして、この変更を容認した国会議員が、その結果に責任を果たすことがあり得るのだろうかという問題です。つまり、このことによって将来、我が国が戦争に巻き込まれたとして、そこで命を落とす可能性が彼らにあるのかという問題提起です。恐らく、彼らの多くは、その頃、寿命を全うしているのではないでしょうか。つまり、この集団的自衛権の問題は、「私たち」がその責任を直接的に負う立場にはない問題なのです。

 言わずもがな、今の子どもたちがその災禍に巻き込まれる可能性がある。であればこそ、この決定は子どもたちの視点を代弁し、子どもたちを巻き込んだ議論を経て行うべきです。それ程までに、丁寧で慎慮な議論が求められている事柄であると言えます。現在の私たちの愚行に対する責任が、私たち自身に降りかかってくるのであれば百歩譲って文句は言いますまい。しかし、その責任と結果を、次の世代に押し付けることが本問題のもっとも愚劣で破廉恥な部分であり、これこそが、この度の政府の行動の本質であると私は捉えています。

 つまり、今の子どもたちが大人になり、今のオトナたちの選択の帰結として、戦争に巻き込まれそうな事態に見舞われた時、それに抗う方法がなければ、それは彼らの自己決定とは到底言えないのです。この事においても、人々の自己決定を尊重する社会福祉実践家としては、当然看過するわけにはいかないのです。

 権力は暴走すると述べました。その歯止めとなる憲法そのものを、権力の側が、その改正手続きを黙殺し、解釈の上で改めようとしています。そして、そこに異を唱える勢力が衰退の一途を辿っている現状を鑑みれば、これは戦後70年の歩みの中で今現在を迎えていると言えなくもありません。この現在の体たらくを70年の歳月をかけて堆積してきたのだとも言えるでしょう。つまり、過去70年の歩みは今現在のこの社会の様相に向かっていたということです。この理の中にこそ、今から70年未来の人々の暮らしに対する今現在の私たちの責任があることが、はっきりと見てとれるのではないでしょうか。個人の寿命に比べて、社会の寿命はとてつもなく長い。であればこそ、次世代・次々世代を担う彼らの“自己決定”を慮りながら、それを代弁しながら現在の決定を図って行っていく責任が私たちにはあるのです。

 そして、更に気になることがあります。それは、この様な多くの人々の生命と暮らしについて、それが大きな危険に晒される可能性を高める決定を政府が意図的に、そして、感情的に推し進めていることにあります。言うまでもなく、人の生き死にかかる重要な決断を決して感情論で行ってはなりません。

 予てから社会福祉実践家は、死刑廃止論者であるべきだと考えてきました。死刑についても、被害者側の感情論でその議論が成されている傾向がありますが、これは社会をより危険な状況に貶めることに繋がると私は考えます。被害者側の心境は、当然共感に値しますし、その暮らしに対する支援は怠るべきではありません。その事を前提として、この事を、加害者の死刑に結び付けることはやはり感情論であると私は認識するものです。

 人権や生命に例外を設けてはいけないと私は考えていますし、このこと自体には、多くの人々の賛同が得られるものと認識します。であるならば、重大な罪を犯した人々の人権と生命も同様に考えるべきだというのが、私の社会福祉実践家としての立ち位置であります。特に一時の感情によって、失われてよい人権や生命などこの世に存在しない。この原則こそが、社会福祉実践における権利擁護や社会正義、平等主義とも平仄の合う思想であると言えます。社会福祉実践家も、クライエントの人生の岐路に立つ支援を行う場面がありますが、そのような重要な分岐点でこそ、感情優位ではなく、冷静に覚めた頭でクライエントと向き合うことが求められているのです。

 以上の様に重要な政策ほど、感情論で推し進めてはなりません。ましてや、今議論の渦の中にあるのは、個人の生死のみならず、自国他国の如何を問わない多くの人々の生死に敷衍していく問題な訳ですからこれは当然の事です。

 また、人々の生命を守る哲学は、抑止力だけではありません。少し前に、拳銃を家庭で保持しないことを決めたアメリカ人の論文を読んだことがあります。拳銃を所持していると暴発して命を落としたり、他者に誤解を与えることで不要に家族の生命が危険に晒される可能性が高まると考え、この家庭では幾世代にわたって拳銃を保持していないといった内容でした。個人レベルであれば、拳銃でしょうが、国家レベルになればこれは大量破壊兵器を用いることになります。抑止力に頼る前に、他にやるべきことがあるその叡智を示唆する事例ではないでしょうか。

 我が国の武力行使の範疇を広げることで想定されるのは、可能性の極めて低い政府が示す事例において国益を守ることなどでは断じてなく、人々の殺し合いの負の連鎖に国民が巻き込まれることにあります。前者の在りもしない国益を守るために、後者の大変大きな危険を国民が請け負うことになるのです。しかも、それを実際に背負わされるのは、現在閣議決定に奔走している人たちではなく、現在選挙権すら持たない子どもたちであることを忘れてはなりません。

 かつて中東のイスラーム諸国で日本人がテロに合うことなどありませんでした。それを、小泉政権がイラクに自衛隊を派兵した帰結として、その信頼関係が悪化し、複数の日本人が生命の危機に晒され、そして、幾人かの方は実際に命を落としています(2004年4月〜2005年5月)。つまり、それは、アメリカの侵略を支持した我が国が、正式にはその政権が支持したのであっても、すべての国民が支持をしたわけではないのだが…そうであっても、反アメリカ勢力にとっては、アメリカと同じ“敵”と見なされた瞬間でもあったのです。

 そう考えれば、この度の集団的自衛権の行使は、この負の連鎖を周辺地域に創出し、周辺地域の不安定化に大いに“貢献する”こととなるでしょう。斯くして、我が国の危機はかつてない高まりを見せることになります。その結果、国民の暮らしは不安定極まりないものへと化して行くのでしょう。

 そもそもこの度の集団的自衛権にかかる政府の議論は感情論以前に理論的に破綻しています。個別的自衛権で対応できることを、わざわざ集団的自衛権を引合いに出し、それで対応しようとする点。自衛権の限定的行使と言いながらも、その中身が極めて曖昧模糊としており、時の政府の恣意性・裁量性の高いものとなっている事。斯様な支離滅裂な説明と論理的な不整合において、この重要な憲法解釈の変更を推し進めようとしているのです。

 言うまでもなく、組織におけるトップとは、その組織を守る最終責任者を言います。この場合、国民の生命と暮らしを守る最終責任者が内閣総理大臣でありましょう。であれば、トップには、あらゆる私信を捨てて、国民の生命と暮らしを守る責務があります。残念なことですが、今の彼に、その資質があるとは到底思えません。そして、その資質の無いトップが支離滅裂な議論を押し通す背景には、国民の暮らしと存在に対する軽視があります。彼らが思うほど、私たちが決して無能では無い事を示せるかどうか。今現在の私たちの資質も同時に問われているのです。

 最後に、国益とは、全ての国民の利益を指します。国民の利益とは、国民の生命を守り、暮らしの質を高めることにあるはずです。であればこそ、社会福祉実践家は、この真なる国益を意図した実践を行うことにその面目躍如があります。一方でこのトップの言う国益とは、真なるそれで無いばかりか、むしろ私たちのいう国益とは対極の位置にあることを改めて検証する必要があります。



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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