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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

終末期にさしかかった信頼の絆

2014/09/21 17:40:17  社会福祉
 成長戦略のために、女性の社会進出と少子化対策を図ることが、第2次政権に改造しても、変わらぬ現政権の一丁目一番地であるようです。そんなさなか、地域住民と対立関係にあり、その開設や運営に支障を来している保育園の苦悩を報じる新聞紙面に目が留まりました。報道によれば、「子どもの声がうるさい」などとして、地域住民が近隣保育園を相手取り訴訟を起こしている事例や、住宅地に保育園を新設する際に、騒音や渋滞を理由に地域住民から反対運動に遭い計画が頓挫した出来事が描かれていました※1。

 また、同様の報道は、6月にも同紙で報じられており、これらの事象は全国津々浦々の普遍的な現象であると受け止めることができます※2。報じられた幾つかの事例で共通してみられることに、子どもたちの声を「騒音」に見立てた地域住民の訴えがあります。特にこの度の報道では、工場などを対象にした市の騒音規制基準を保育園にも適応すべきとの訴えが成されているようです。なるほど。確かに機械で測定した数値によって、それを「騒音」だと断じることは可能です。しかし、工場の騒音と、ここで言う子どもの声たる「騒音」には本質的な違いがあることを度外視するわけにはいきますまい。

 私は、工場や空港などにおける騒音と、保育園における子どもたちのそれは、本質的に異なるものであると認識しています。その理由は、保育園の「騒音」の発生源は、言わずもがな人であって、ましてや、子どもたちの発する言動は、その子どもたちの発達のために不可欠なものであり、それが認められなければ個人の権利としての発達が満たされなくなるという所にあります。つまり、この「騒音」が認められなければ、子どもたちにとっては、それは、尊厳と権利の侵害に直結すべきものであると言えるのです。また、市街地や住宅街での地域住民に対する「騒音」に気遣うあまり、郊外や過疎地域への保育園“移転”を考えた場合、保育園関係者以外の地域住民などの多様な人々との接点を子どもたちは奪われることになりますし、送迎にかかる負担を家族や保育園が強いられることにもなります。

 また、周囲の大人たちに気を遣いながら、その顔色ばかりを窺いながら育った子どもたちは、将来どのような大人へと成長を遂げるのでしょうか。こう考えれば、上記の大人たちのやり取りは、私たちの未来の社会に対する弊害を堆積しているとも断定できます。一方、工場や空港などにおける騒音はその発生源が、モノである以上、技術的な創意工夫や、場所の移転によって解決を図ればよいものと言えます。

 これらの本質的な問題を顧みず、両者を錯綜させた議論をしようという風潮に私は戸惑いを禁じ得ません。まるで、人間の権利や尊厳が、モノと同様に扱われているように感じてならないからです。このようなことに思い巡らせながら、私は一つの問題意識を抱くようになりました。人々の暮らしや生命、尊厳や権利の「モノ化」が著しく進んでいるのが、現下の社会ではあるまいかと。この様な「モノ化」が、人々の尊厳の対極にあるということは言うまでもありません。また、モノであるならば、市場による取引も可能となり得るのです。人々の尊厳と権利が、モノと同様に扱われてしまう斯様な社会が豊かであるとは誰も思わないでしょう。しかし、まさに、この社会はいまそういう秋(とき)を迎えているのです。

 今回取り上げた報道は専ら児童分野にかかるものですが、実は、高齢者分野においても酷似した事例は数多あると認識しています。例えば、私たちの法人が昨今開設した介護保険事業所の実に殆どが、近隣住民から“目隠し”の設置を求められています。どういうことかと言いますと、住民によれば、認知症の人から覗き見されたり、認知症の人と目が合うことや、こちらの姿を見られることが不安であり、苦痛であるというのです。私たちは、すぐにこの訴えを受け入れるのではなく、経営理念を説明し、地域にひらかれた実践を行いたいこと、そして、思われているような迷惑をかける可能性は然程ないこと、何かあった際は速やかに対応させてもらうことなどを説明するのですが、開設準備の僅かな期間では十分な信頼関係の構築が出来ていないことも相まって、結局は、“目隠し”のためのフェンスを設けなければならなくなることが幾度もありました。

 いま多くの人々は、他者への関わりに強い煩わしさを感じているように見受けられます。他者への関わりに、忌避感が募り、他者との関わりを避けているように思うのです。道端で倒れている人に誰も声をかけない光景に出会ったり、地域で挨拶をしても返事が返ってこない体験を通じて私はこのことを痛切に感じるのです。また、他者への関わりに対する忌避感は世代を超えても循環が見られます。例えば、関東の大学の学食では、カウンター式の“お一人様席”が流行し、学生が一人で食事をとることを好むようになっていることや、地域の子どもたちに挨拶をしても返事がないといった経験を重ねながら、これら他者に対する煩わしさは、子どもたちにも蔓延していることを知りました。

 他者に対する忌避感から、他者への関わりを避けることによって、人々は、他者に対する慮りを喪失していきます。そして、それが深化すれば、他者に対する無関心化が起こります。この無関心化のところで留まっておればまだ良いのですが、その先に、他者に対する不安と恐怖が蔓延していきます。障害のある方とどのように接してよいか分からないといったことや、如上の、認知症の人が何を仕出すか分からないといった不安もこれに当たります。そして、不安と恐怖の先には、他者との軋轢と対立の関係が待っています。冒頭の保育園の新設反対運動であったり、「騒音」に対して訴訟を起こすことなどはこの代表例と言えるでしょう。加えて、この様なもめごとに巻き込まれることを忌避するかのように、人々は他者との関わりを更に避けるようになっているのです。現下の社会は、この様な負の循環の中にあると私は日々感じています※図。

 しかし、人々が他者に対する忌避感を醸成するに至るには、そこには何らかの理由があったはずです。そうです。人々のこの行動の背景には、社会的要因が根底にあると私は考えています。その一つとして、如上で叙述した人々の生命や、暮らし、権利・尊厳の「モノ化」があり、今一つは、人々の暮らしの質が高まっていないばかりか、むしろ減退していることにこそこの要因があると捉えています。株価やGDPの数値は確かに高まってはいるものの、大多数の人々の暮らしの質はむしろ低下の一途を辿っている。私はこの様に現下の社会をとらまえています。であればこそ、人々は自らの暮らしを守ることに傾注し、その結果、他者への関わりや慮りを行う余裕が、精神的にも経済的にも低減しているのではないかと考えるのです。

 かてて加えて、経済至上主義のもと社会に競争原理が蔓延し、人々に大きな経済格差を生み出しています。そして、格差が更なる競争原理を生み出すというこちらも悪循環の中にあるように思います。この格差は、人々の健康や防犯等の安全にいたる暮らしの質を退廃させ、連帯や信頼の関係を稀釈することに作用しています。この経済格差も、間違いなく人々の信頼の絆を壊していると言えるでしょう。

 再び、先の紙面から引用しよう。「この地域で子育て中の主婦は『確かに幼児は騒々しい時もある。電車に乗ると周囲に嫌な顔をされることもある。息苦しさを感じるが、時代の流れなのでしょうか…』と漏らす」※1。人々の信頼の絆を喪失した終末期においては、子どもの尊厳や権利は侵されやすく、それを守るべき家庭の負担と不安は増大します。結果、大人たちは子育てに負担と不安を感じるようになり、これから生まれてくる子ども自身のためにも、子どもを産まない・育てない選択をするようになるのでしょう。斯くして、現政権の狙う成長戦略も成就せず、人々の信頼の絆は再生不可能なまでに漸次凋落していくことになります。

 しかし、この負の連鎖から脱却する方法は必ずあるはずです。一つの方法は上記で論じてきた通り、成長戦略ではない別の戦略をもって、経済格差と不平等を改め、人々の暮らしの質を高め、市場原理の対象範囲たる概念を整理し、市場化すべき領域とそうではない領域の峻別をはかることにあります。

 そして、今一つは、私たち実践家にも出来ることがあります。奥田知志は、「絆には『傷』が含まれている」といい、「絆とは傷つくという恵み」であるとまで開陳しています※3。この様に立場や思想の異なる人々同士が、お互いを理解し尊重するために必要なことは、関わりと対話の機会とその体験であり、この場合によっては「傷つけあう」体験を通じることにより、はじめて相互理解への接近が可能となるのです。この関わりの体験と過程を経由して、信頼の絆は少しずつ構成されて行くのです。そして、この貴重な体験ができる圏域は、まさに地域であり、地域こそが、他者との関わりと対話の体験を通して、立場や思想の異なる者同士の相互理解を促進していく豊潤な場所であると私は考えています。

 人々の体験の堆積が社会を構成し、この体験の如何がその時代をつくるのだと私は考えています。戦争を知らない世代が、つくっている今の時代は、まさにこの事を如実に現わしているのではないでしょうか。この重要な体験のできる豊かな場所たる地域において、多様な人々同士を繋ぎ、関わりの機会と体験の場を数多創出していくことが私たち社会福祉実践家の一つの仕事であると私は考えています。特に、地域から排他・排斥される傾向にある誰かの支援を必要としている人々を、地域に包摂していくことは、地域住民に対して非常に有用な体験を与えることが出来る実践となると思っています。この有用な体験を地域で数多創造し、負の循環を正の循環に変換させていくこと。地域の絆の実践は、まさに、このことを推し進めるための挑戦であり、多くの人々との連携のもと、この挑戦を更に増進していきたいと思いを新たにする昨今です。


※1 『朝日新聞』2014年9月17日
※2 『朝日新聞』2014年6月3日
※3 奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社P.209-211 2011年7月
「自己責任社会は、自分たちの『安心・安全』を最優先することで、リスクを回避した。そのために『自己責任』という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には『傷』が含まれているという事実だ。ランドセルを贈ることは容易ではない。費用がかかるし、何よりも勇気がいったと思う。本当にありがたく、温かい。ただ私は『タイガーマスクじゃあ、もったいないなあ』と思っている。タイガーマスクに申し上げたい。できるならば、あともう一歩踏み込んで、あと一つ傷を増やしてみませんかと。(中略)傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら『出会った責任』が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感や自己尊重意識にとって、他者性と『きず』はかくべからざるものなのだ。(中略)絆とは傷つくという恵みである」。



コメント

該当 2件

コメント有難うございます。

NO:10000091 NAME:中島 康晴 UPDATE:2016/07/15 13:28
ご披瀝の様な実態があり得ること理解致しました。そして、何よりも、対話が構築されない事態に問題を感じます。

現実を知れ

NO:10000090 NAME:地獄の住人 UPDATE:2016/07/15 12:39
保育園が設置されてしまえば、おしまいです。苦情を言おうと無視され、難癖をつけてくる迷惑住民とされ、市役所も誰も相手にはしてくれません。私の家の正面に保育園があり、家の裏には保育園の駐車場。もう、地獄です。でも、一度設置されたら、許可したら、終わりです。
待機児童問題だ、何だと言われ無視されます。
中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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