昨日「ディープピープル」※というNHKの番組を拝見しました。気が付けば、NHKの番組はよく見ています。ニュースは別として、ドキュメントや企画物ではジャーナリズムの視点が存分に盛り込まれた優れたものが多い様です。
人型ロボット開発者の第一人者のお三方の議論をお伺いし、人文無き科学の不毛さを痛感致しました。高西氏はロボット技術の発展とともに、人類がそれに依存することの危険性を指摘しましたが、他のお二人はあまりその脅威に思いを馳せることは無い様相でした。
お掃除ロボットがあれば、掃除をする必要はありません。介護ロボットが普及すれば、高齢者の介護は人間が行わなくても良いのかも知れません。“臭い”ものに蓋をし、“無駄”な営みを省くことが出来るのでしょう。しかし、そのことを通して、人類が成熟するとは到底私には思えません。人が生きるということ、社会生活を送るということは、非効率で、一見無駄な活動の繰り返しであり、そこに人生の尊さがあると私は考えています。
お一人の研究者は、(我々の)技術革新を社会がどのように捉えるかは、社会に任せればよい旨の発言がありました。本当にそうなのでしょうか?科学者は黙々と技術革新を図り、それを社会に提示すればそれだけで良いのでしょうか?
我が国、我が郷土の広島と、長崎に投下された原子力爆弾を開発した研究者は、この結果に対して無責任でいられるのでしょうか?ただ単に私は技術開発をしたに過ぎないと…。私はそうは思いません。
科学者は、その科学技術が社会の中でどのように用いられるのか、その功罪を想像した上で、技術開発を行う責務があるのではないでしょうか?その様な使命感を鑑みず、単なる目先の技術革新を無責任に実践するだけであれば、科学者としては存在し得るのかも知れませんが、少なくとも知識人としては失格であると私は認識しています。
真の知識人とは、社会構造を捉えた上で、全ての人々が幸せになる行動を、勇気をもって行動することのできる人間であると私は理解しています。つまり、無用な犠牲を人類に生じさせない勇気ある行動を取ることが出来るのが知識人であり、その実践によって自身の生活に困難が及ぼうともそれを克服する勇気を持つ人がそれであると私は認識しています。
社会的使命や責任を全うすることに依拠した実践を成すことが出来ることが、知識人の必要条件となると思うのです。
※石黒 浩氏・高西 淳夫氏・小菅 一弘氏「ディープピープル」NHK総合 2011年6月13日(月)22:00〜
本日はNHKの収録に参加させて頂きました。6月3日は広島ホームテレビ『Jステーション』で、地域の絆の実践を取り上げて頂きましたし、取材を受ける形では幾度とテレビには出演させて頂いたことはあるのですが、スタジオ収録は生まれて初めての試みでした。
エネルギーに関する討論番組でしたが、多くの参加者がいらっしゃる中、毎回挙手をしても発言の機会は中々回って来ませんでした。仕方がないですね。
それでも、以下の考えを吐露することが出来ました。
�仝胸厠枠�電の推進には、反対である。なぜなら、一部の犠牲の中で“発展”する社会構造に依拠したものだからである。東京という大都市の電力の供給を行うために、福島の住民の危険を冒し、現在事故の収束作業を最前線で行っている労働者の犠牲の上に、福島原発は何とか安定している。この様に、多少の犠牲はやむを得ない社会から、多少の犠牲も許さない社会構築へと舵を切るべきである。
��研究職によって、非常に大きく見解が分かれている。今日の両先生も同様に。研究職によっては、今すぐに原発を停止しても国民の生活基盤に影響を与えない電力量の確保が出来るという方もいらっしゃる。つまり、計画停電そのものが不要だったのではないかとも言われている。政府や電力会社に取って都合の良い情報が流れ、情報操作を受けていることも十分に考えられるので、我々は猜疑心をもって情報を吟味する必要がある。
�B斥杆�発電はなぜ普及しないのか?原子力推進ありきの政策の中で、売電料が低く設定されているのではないか?だから設備投資費用が容易に回収できない構造になっている。政策的に太陽光発電を促進するのであれば、売電価格を高く設定する必要がある。
�ち�択肢としては、自然エネルギーの技術開発を促進して脱原発を図るのか、自然エネルギーの開発が促進される政策に切り替えることで脱原発を目指すのかにある。私はもちろん後者に依拠する。現在、電力の開発費用の9割以上が原子力発電に費やされており、自然エネルギーの開発には数%の費用しか投入されていない。普通に競争すれば、原子力の推進力の方が強いに決まっている。そのバランスをまずは、政策的に変革するべきではないだろうか。その意味において、原子力政策と自然エネルギー促進の関係は表裏一体の関係と見るべきである。
�タ篆頁匹犯紳佛匹領称�した第三者機関で今後の方向性を決めるのは良いことのように見えるが、バランスの良い配置であれば、結局は現状維持で終わってしまうのではないだろうか?現に原発を維持しているわけだから、原発を維持した状況のまま収まってしまうのではないか。つまり、この問題は原発をやるのか、やめるのかを明確にしなければ解決しないのだと思っている。それは、政治的リーダーシップの中で行うべきことである。
��私は学生の頃から反原発の立場であった。震災前までは、反原発を唱えるだけで村八分になりそうな社会情勢があったが、今ではNHKの番組でこの様な自由闊達な議論が出来るようになっている。正しい情報をもとに、この様な民主的な議論が担保されれば、この国は正しい方向に動いていくはずだ。期待を寄せている。
思い出すことが出来るのは如上の発言でした。収録番組ですから、状況に応じて発言はカットされることでしょう。さて、どれとどれがカットされるのやら。
放映は6月17日(金)19:30〜20:43に行われる予定です。
6月8日(水)の22時25分〜22時50分放送のNHK『仕事学のすすめ』(出演:川口淳一郎氏(「はやぶさ」プロジェクトマネージャー)・聞き手:勝間和代氏)を拝見しました。
ビールを片手にほろ酔い状態で、テレビのチャンネルをクルクル回していた際、終盤を拝見したのですが、そこではオリジナリティについての議論が展開されていました。
川口氏によれば、オリジナリティは文献等の他者からの情報からは生まれないのだそうです。オリジナリティを発揮させるためには、最低3ヵ月間他者の文献等に目を通さずに、他者の意見を聞かずに、自分の内にある思考を絞り出して構築する作業が必要なのだとか。入社したての若者にもそのことをまずは求めるのだそうです。
そこで一つの疑問が湧き上がってきました。では、文部科学省のカリキュラムに則った大学までの勉強は一体何だったのでしょうか?そもそも学びとは、社会をより良くするために、あらゆる人々が幸せになるために、そのための方策や理論を学ぶべきものでしょう。そこには一つの答えなどなく、創造性と独創性がその過程において、必要不可欠なのは自明の理です。つまり、創造性や独創性の無い学びなど、全く不毛なものだと私は認識しています。
であるにも拘らず、大学を卒業したての新卒者に創造性や独創性を改めて教育せねばならぬとは全く解せません。私が受けたニュアンスとしては、むしろ大学までに受けてきた教育の在り方を改めさせるため、そこから脱却させるために、川口氏はその様な指導を行っているのではないでしょうか。
であれば、文部科学省の教育下では、真に「有能」な人材は育成されないことになります。創造性や独創性こそが国際競争社会で生き残れる重要な指標であると私は考えています。ゼロから物事を生み出すことのできる力、既存の選択肢を時に全て却下し、新たな選択肢を構築する力、この様な力が組織や社会を動かすためには必要不可欠となるはずです。独創性や創造性とは、「普通」や「常識」、「公理」から脱却した新たな考えや理論を構築することだと私は認識しています。その為には、「普通」や「常識」に捉われない自身の考えや思いに真摯に耳を傾ける時間と機会が不可欠であることは言うまでもありません。少なくとも大学においては、そのような真なる勉強が行われるべきだと私は考えます。
もちろん偏差値教育下では、独創性や創造性が培われないことは常識的に言われていることだと認識しています。記憶をインプットし、アウトプットする能力を高める学習方法でしか、好成績を修めることができない代物ではないでしょうか。しかし、その似非勉強は大学入学時に終焉するものだと私は思っていました。
この度問題だと強く感じたことは、川口氏のお話をお伺いするに、その似非勉強がどうも大学のカリキュラムにまで浸透しているかも知れぬという事実でした。
自民族の誇りを持ち、国際社会での立ち位置を確立するべく人材は、記憶のインプットとアウトプットではまず育成出来ません。その意味において、今後現在の偏差値教育の在り方は変革を強く求められることになるでしょう。少なくとも、大学での教育は、自身の考えや思いに耳を傾け、そのことを確立するためのものでなければなりませんし、自分の考えや思いを他者に吐露し、その理論に一定の責任を持つことまで出来て始めて最低限の学びが成されたことになります。
今になって菅直人首相の退陣論が激しく表出している世論。東日本大震災への対応の不備や、政治的リーダシップの不足において、マスコミからも退陣論一色の報道がなされています。この重要な局面で、またもやトップの交代、そして、ここ数年短期間でコロコロとトップが交代する国際的信用度の凋落。官僚が悪い。政治家が悪い。そして、政府が、首相の能力が不足している。全く好き勝手な議論が取り沙汰されています。
政治家、官僚、政府の要職についている人間と私たち一般市民の人権は異なります。これは民主主義の基本的な考え方に則れば、彼らに人権は狭く私たちに広いのは「常識」的な見解でしょう。つまり、現在の社会における閉塞感を生み出した直接の張本人は彼らであることは間違いありません。
そのことを大前提としながら、私は思うのです。この社会を構成しているのは彼らだけであって、私たちは全くそこに参画していないのか、と。官僚がいけない。政治家がいけない。政府がいけない。それは誰もが共感する事かも知れません。しかし、その社会を私たちひとり一人が構築していることを考えると、市民の責任も皆無では断じてないはずです。ましてや、政治家は選挙によって私たちが選択することができるのです。誰がこの政治家を選択したのでしょう。そして、非常に低い投票率の中、組織票で出来レースのように決まってしまう選挙に誰がしたのか。民主主義社会において、選挙に行かないことはその否定に繋がることは明らかですが、多くの国民は投票活動を拒否しています。
マザーテレサは言います。愛の反対は憎しみではなく無関心であると。そう鑑みれば、市民の無関心が、この国のトップの無能さを誘発しているとも言えるのではないでしょうか。
菅総理を挿げ替えれば、多くが上手くいくとは到底思えません。なぜなら、本質的な課題は、私たち市民自身が背負っていると私は考えるからです。その国の国民は、自らの民度を超える政府を持てないことは、もはや自明の理なのです。
4月17日のブログで、原子力の研究開発に傾注してきた日本のエネルギー政策について以下のように触れました。
「素人が把握している限りでは、原子力開発には多大な開発コスト(10年前は全体の90%以上と聞いていました今は勉強不足です)がかけられていますが、その割合の半分もしくは、三分の一でも、波力発電や、風力発電、太陽光発電に投じるべきでしょう」。
本日目に留まった新聞では、米環境シンクタンク・アースポリシー研究所代表のレスター=ブラウン博士のコメントとして、「日本政府は原子力の研究開発には年間23億ドルの投資をしているのに風力には同1千万ドル、地熱の研究開発への投資はほとんどゼロだ。原子力のための資金を再生可能エネルギーに回せば、多くのことができる」※と掲載されています。風力発電の研究開発費は、原子力のそれの0.43%に過ぎないという指摘です。ジャーナリストを志していた十数年前と比べて、殆ど代わり映えの無い偏向した状況に今もあるようですね。
そのことが理解されたのと同時に、自然・再生可能エネルギーの開発において我が国が大きな後れをとっていることを本紙は示しています。太陽光発電の設備容量は、ドイツが全世界の47%を占めており、次がスペインの16%、第3位に我が国が13%を占めています。第3位を喜んでいてはいけません。かつて我が国は世界第1位の座にありました。風力発電においては、設備容量の日本のシェアは1.2%なのだそうです。
私の記憶の範疇において、20年ほど前から自然エネルギーが全世界的に着目を集めその開発が熱心に進められてきたのだと認識しております。その折から、二酸化炭素を発生させない、石油や天然ガスに依存しないエネルギー開発の在り方は求められており、日本のエネルギー政策は原子力開発一辺倒に傾注してきたのでしょう。
私も組織の経営者ですから、問題が生じた際は、その要因を多面的に分析し、その対応策を講じることが第一義であることは身に染みて実践している身です。これは国家レベルにおいても同様の検証が求められているのでしょう。なぜこのような事態が生じたのか。是非とも多面的な要因分析を行い、未来のエネルギー政策の在り方に活かせて頂きたいと考えます。でなければ、今福島県内で、原発の脅威にさらされている住民の思いは間違いなく反故にされることでしょう。
もう一つ注視する点があります。この度の震災で、風力発電装置の多くは無傷で、原発付近で放射線汚染の恐れのある地域にある発電所以外は、現在もフル稼働しているとのことです。自然・再生可能エネルギーの装置は、災害にも強いことが証明されているようです。
「地震と津波で原発や大型の火力発電所が大きな被害を受けたのに対し、風力発電装置は地震の被害をほとんど受けず、多くの風車が、直後から発電を再開した。
風力発電最大手のユーラスエナジー(東京)は、大きな揺れに見舞われた青森、秋田、岩手、福島の東北4県に10カ所の風力発電基地を持つ。
地震直後にはすべてが停止したが、発電装置への損傷はなかった。
(中略)電源開発(Jパワー)が青森、秋田、福島の3県に持つ4カ所の風力発電所でも発電設備への影響はなし。
(中略)福井市の三谷商事が昨年、茨城県神栖市に建設した日本初の本格的な外洋洋上風力発電所も地震や津波の影響が心配されたが、被害はなく、フル稼働中(中略)。
また、太陽光発電協会によると、屋根に置く太陽光パネルなどは、送電線などが壊れても、装置自体に異常がなければ、ほとんどの機種で『自立運転』という形での利用が可能。自立運転用のコンセントを使って、停電や災害の時に、携帯電話の充電、冷蔵庫やテレビなど家電製品の利用が可能だ」※。
この様に社会構造の大局を見ながら、一つの事象を捉えなければ物事の本質は見えてきません。ソーシャルワーカーに今最も必要な視点の一つではないでしょうか。
※『京都新聞』2011年5月4日