あの事故が起こって早6年が経つのですね。
「尼崎JR脱線事故6年に合わせ、一部の遺族会でつくる『4・25ネットワーク』とJR西日本は25日、事故の真相解明と安全の再構築を目的に共同で議論した「課題検討会」の成果を報告した。(中略)大規模事故をめぐり当事者企業と遺族が直接向き合う異例の取り組み」※1。
事故の責任を真摯に受け止め、対応策を検討する企業の姿勢は評価に値しますし、大切な親族を失った遺族の前向きな姿勢にも胸を打たれます。
本報告では事故の要因として、「ミスを報告する環境の欠如や、表に出ていない危険を事前に洗い出す仕組みの不備、人的要因の理解不足などを挙げ」、「さらにペナルティ的な日勤教育、過密な運航ダイヤ、自動列車停止装置(ATS)の未設置にも言及している」※2ようです。再発防止に向けた企業の体質改善は第一義的に取り組まなければならない事項であると自身も賛同できるところです。
しかし、要因はそれだけでしょうか?この事故に関する要因は、また違った視点でも説明できるのではないかと自身は感じています。もちろん、企業が売り上げ至上主義に陥ってしまうのは、資本主義社会における力学的必然であるとしても、企業の独自体質に大きな問題があることは否めません。資本主義社会においても、経済至上主義の社会においても、社会的責任を全うしている企業は枚挙にいとまがないからです。それでも、私は次の部分に引っかかるのです。「(本報告書では、)運行時間に余裕のないダイヤについては『運転士にあせりや動揺をもたらす可能性は否定できない』との見解を示した」※1。この運行時間に余裕のないダイヤを生み出したのは何処の誰かと。
永らく北欧で生活をされていた研究職のお話を数年前に伺いました。日本でおよそ30分かけて運行するであろう距離を、北欧では1時間かけてバスを運行させるのだとか。理由は明白です。障害を持たれた方がバスの乗り降りをする際、“ロスタイム”が生じます。認知症の方で、お金の計算や乗車手続きの不明な方も、乗降車の際時間を要しますよね。それを時刻表の中に組み込んで運行をしているのだそうです。
もう一度問題提起へ。さて、運行時間に余裕のないダイヤを生み出しているのは誰でしょう。鉄道会社の一存でしょうか。最終的に決断を下したのはその通りですが、私はそれだけではないと考えるのです。経済至上主義の中、効率化と合理化を優先するあまり、社会全体が何か大切なものを見失ってしまったことにこの事故が起きているのではないかと認識しています。
北欧では、障害を持たれた方がバスの乗り降りをする際、20分バスが止まります。その際、乗客は何も文句を言わずに、窓の外を眺めて待っているのだそうです。日本の場合はどうでしょうか。5分バスが遅れたら、文句を言い始める乗客が沢山いるのではないでしょうか。電車が5分遅れれば大問題です。その様な社会全体からかかるプレッシャーが、会社の社員教育・指導を通して、二十代後半の運転士にかかったことがこの事故のもう一つの要因なのではないでしょうか。
予てより私は、加害者の被害者性に着目できない福祉専門職は失格であると認識してきました。つまり、ソーシャルワークの「ソーシャル」、社会福祉の「社会」の構造を理解しない対人援助は、ソーシャルワークでも社会福祉活動でもないと認識しているのです。事故を起こした運転士の、また一企業の社会的背景にまで目を向けて要因分析しなければ、真の問題解決策を見出すことは不可能です。これはジャーナリズムにおいても同様のことが言え、東日本大震災を受け社会的価値が変遷し始めているこの時期だからこそ、強く社会構造を捉えた分析が求められているのでしょう。
※1『中国新聞』2011年4月26日
※2「社説」『中国新聞』2011年4月26日
お世話になった方々のご逝去の続く昨今です。時間の許す限りご葬儀に参列させて頂いておりますこんな折に、少し不謹慎な発言となるかも知れませんが、この様な葬儀の場が人と人との絆を紡いでいるように見受けられました。葬儀を通して、久しぶりに再会した人々が故人を偲んで会話を交わす。組内の住民が通夜・葬儀のお手伝いを行う。会話は交わせずとも、お焼香の際に面々を互いに確認し合うことができる。特に近頃体調を崩されていると噂されている方をお見かけし、ホッとする場面もありました。
今や自宅での葬儀が激減しており、専ら民間企業の葬儀会社が会場やお食事から、香典返し、案内文書に至るまで執り行うことが普遍化しつつあります。確かに、家で葬儀を開催するのは大変です。家族・親戚総出でも対応は難しく、否が応でも地域住民やお勤め先の方々の協力が不可欠となりましょう。その点、多少の金銭的支出があろうとも、現在では葬儀会社が全ての手配をして下さるので、便利な世の中になりました。
一方で、葬儀がシステマチックに効率化されているのも事実でしょう。そこでは、如上で感じた非効率の中にある“幸福感”が減退しているのではないでしょうか。効率化された社会の中では、非効率なものが忌避され軽視されて行くのですが、そこでは、他者に思いやる気持ちや、お互い様の思いが失われているのではないかと心配しております。
昨日「マイケル・サンデル 究極の選択」※1というテレビ番組を見ました。そこで、原子力発電についての可否を問う設問で多くの参加者が議論を展開しています。もちろん「究極の選択」ですね。
中でも心に留めたのは歌手の高橋ジョージ氏が言われた一言です。―――生活水準の高い低いの意味がよく分からない。東京では計画停電が行われていて確かに不便だが、夜はなるべく家族一緒で一つの部屋で固まって節電に努めている。しかし、それが返って豊かな生活だと自身は感じている…。
私自身の見解も、原子力反対の立場です。原爆資料館に訪れたオーストラリア人の驚きがノートに綴られていると昨日の『中国新聞』「天風録」に書かれています。「ヒロシマ・ナガサキの歴史がある日本にすら原発があったとは」※2。そうです、原子力の負の側面を嫌という程体験した我が国が、今度はまた原子力の恐怖に曝されているのです。温故知新がなされていないと私は感じます。
番組の議論の中にもあったように、危険な原発は地方に存在するが、その恩恵を受けているのは遠く離れた都市部であるとの不公平感にも大きな疑問を持っています。この様に、効率化された“便利な”世の中は、一部の人たちの犠牲によって成り立っているのではないかと私は考えます。
素人が把握している限りでは、原子力開発には多大な開発コスト(10年前は全体の90%以上と聞いていました今は勉強不足です)がかけられていますが、その割合の半分もしくは、三分の一でも、波力発電や、風力発電、太陽光発電に投じるべきでしょう。
それでも、停電に見舞われる生活が生じるというのであれば、私たちはそれを甘受すればよいのだと思っています。その様な、懐の広さが今社会には強く求められているのだと私は考えます。
昨今の葬式のあり方と、原発を推進してきた社会のあり方は恐らく何処かで繋がっているのだと考えます。何かが間違っている。そんなことを思うのは私だけでしょうか。
※1 「マイケル・サンデル 究極の選択 『大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜』」NHK総合2011年4月16日9:00〜10:15
※2 「天風録」『中国新聞』2011年4月16日
いま、西日本は平穏そのものです。しかし一方で数百�厠イ譴臣呂任蓮�大変な生活を強いられていらっしゃる方々が存在します。よく自粛ムードは良くない、西日本だけでも経済活動の活性化がなされなければ日本列島そのものが沈没してしまう旨のことが取り沙汰されます。だから、お金持ちはドンドン消費をした方が良いと、テレビのコメンテーターは嘯きます。
確かにそうなのか…。いや、何かが違うような気がしています。私にも東北地方に知人がおります。彼らとメールのやり取りもさせて頂いております。私たちの想像を絶する生活をされている方が現在進行形で“そこ”にいらっしゃるのです。そのことを否応なく感じている毎日です。私は、そのことに思いを馳せて生きようと心に決めました。その生活こそが非常に尊いものであると。
平素より一日二食の生活を行っている若輩ですが、被災者の多くは一日一食の生活をされています。だからといって、それを一日一食に合わせた行動を行おうとは思いません。忙しい折には、一食になってしまうこともありますが…。そうではなく、そういう人々がいらっしゃることを胸に馳せて、一日二食の生活をしております。夜、アルコールを飲みながら、被災地ではこの様な生活は中々できていないと思いを馳せます。と、思うと中々お酒も進みません。でもその行動が尊いと私は思うのです。
想像力、察する力を無くした人間ほど無力なものは無いと自身は考えます。一見同じ行動に見えても、その思いが異なれば、その行動からにじみ出る何かが違ってくるはずです。その何かの違いを若輩は大切にしています。
大学生の折、私はアルバイト三昧の毎日でした。深夜のバイトも厭わず行い、今思えば放蕩学生だったと記憶しています。好きな洋服と、食事と、勝手気ままな生活をしていた時期があります。しかし、周囲にたった一人だけ一カ月5,000円の小遣いで生活していた友人がいました。私はそのことがいつも頭から離れず、毎日を過ごしていました。放蕩しながらも、彼に思いを馳せることで、恐らく多くの陥穽に嵌ることを避けることが出来たのではないかと振り返ります。彼は、私にとっての「意味ある他者」だったのです。
人間の素晴らしさは、想像力だと自身は考えます。これを否定するのであれば、読書も、映画も、政治も全て不毛の象徴と化してしまうでしょう。人の気持ちを100%理解することなど、到底不可能な営みですが、そのうち60%、70%を理解することが出来るのも人間の素晴らしさと認識しています。被災者の皆様の60%でもいい、思いを馳せて消費をしましょう。経済活動の活性化を図りましょう。思いを馳せることにより、その営みは、幾分かは尊さを増すことでしょう。
全国の社会福祉協議会では、ボランティア志願者が殺到しているようです。同じ民族や国民としての意識、決して他人事ではない思い、何よりも現に生活に窮する人々の姿をメディア等で見るに見かねての行動かと存じます。
中国等のアジア諸国では、被災した日本人のその様な「冷静」な対応を称賛していると聞いています。東日本大震災は、私たちに甚大なダメージを与えていますが、一方でその中から僅かでも光を見い出すとすれば、この様な他人に対する思いやりや、助け合いの意識が、私たち国民の中に依然根強く残っている事実ではないでしょうか。
冒頭の行動は、お金や経済的価値に則ったものではありません。そこに私は大いなる価値を見い出しています。金銭的・経済的価値を至上とし、我が国は社会構築を行ってきました。そこで、如上の様な価値、共に生きるという価値であったり、助け助け合えるという価値、お互い様の価値、何人たりとも排除・排他・排斥をしない価値等が希薄化してきたことは否めない事実であります。
経済状況が良くなっても、自殺者は増え続けた現実に目を向けると、そこで失われてきた価値こそが、実は、持続・安定可能な社会構築に必要・不可欠なのかも知れません。その様に考えつつある人々が増えている昨今、冒頭の活動が促進されていると私は分析しているところです。
「僕らが手にしている 富は見えないよ」「何故なら価値は生命に従って付いている」※椎名林檎氏も歌います。
新たな価値が芽吹いている。今、私はそれを感じています。
※椎名林檎氏「あまりある富」
東日本大震災における福島第一原発の事故で情報が錯綜しています。住民の方々の心中をご察しすると、心痛に耐えないところです。人々の権利擁護を業とする専門職としては、住民の安全・安心を最優先した対応が不可欠であると切に思います。
しかしながら、政府や電力会社の対応からは、科学分野における「予防原則」に則った対応が見られません。今最も重要なことは、原子力発電の面子ではなく、住民の安全であるはずです。このようなことを書いてしまわなければならない程の体たらくではないでしょうか。
「三宅島の場合、結局、火山がいつ、どんな規模で爆発するのかわからず、科学的なリスクの予測には限界があるので、とりかえしがつかない被害を受ける前に、とりあえず島外避難する、すなわち『予防原則』が適用された。世界的に話題の遺伝子組み換え食品や携帯電話の電磁波の問題でも、欧州を中心に、この『予防原則』に基づいて、たとえば携帯電話をやめないまでも、賛否両論あるが、イヤホンで聞くなどの対応が始まっている」※。10年以上前の新聞記事からの抜粋ですが、『予防原則』とは安全が証明されていないモノは、危険である、もしくは危険の可能性を認識して行動することだと素人ながらに理解しております。
日本の科学の安全基準では、危険が証明されなければ安全であるとの価値が専らであったと認識しておりますし、現在進行形の福島原発での対応を見る限りその潮流の真っただ中にあると言えます。しかし欧州では既に、安全が証明されていなければそれは危険であるという「予防原則」が主流となっているのです。これは非常に大きな違いで、危険を証明することよりも、安全を証明することの方が非常に困難であることから、欧州の方がより安全基準が厳しいことが自明の如く理解されます。
今こそ「予防原則」に則って、住民の生命及び安全を第一義に、早め早めの対応をお願いしたいと思います。原子力開発には、政・官・財・学の日本の技術力におけるプライドがあるのかも知れません。素人にはよく分かりませんが、とにかく今は、住民の生命・安全を最優先にした行動を政府や電力会社に強く求めます。
福島には知人が数名住んでいます。しっかりと生きていらっしゃることだけは間接的な情報で確認が取れております。被災した方々をこれ以上傷つけないで欲しい。今心中は非常に苛立っています。
※ 黒田 洋一郎氏「科学をよむ」『朝日新聞』2000年9月13日