2011年3月11日14時46分頃、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生しました。震災で亡くなられた方は数万人に及ぶ可能性があると報道されています。
ソーシャルキャピタルの概念には、限られた地域の中での連携(結合型【bonding】)と平素の活動地域を越えた広域な連携(橋渡し型【bridging】)があると教わりました。双方の連携があってこそ、平素の活動地域の地域力も高まるのだと。
私はここ数年、市や県を越えた広域な範囲の方々との連携を模索して参りました。この度震災に遭われた地域は、私にとって非常になじみ深い地域といえます。そしてそこにお住まいでいらっしゃるお一人お一人のお顔が頭に浮かんできます。無事でいて欲しい。
テレビをつけると気になって、画面から目が離せなくなります。そんなこともあって、今日は自宅作業をしようと思っていたのですが、法人本部に出勤しています。
今こそ、平素よりお世話になっている方々に何らかのご支援をさせて頂きたい。そう思ってはいるのですが、今は何もできないのがもどかしい。いみじくも、ソーシャルキャピタルについてご指導・ご鞭撻いただいている先生も仙台にお住まいです。
皆さんのご無事を心よりお祈り申し上げます。そして祈るしかできない現状に、焦燥感を抱いています。被災地に知人のある方は、皆さん、同じ思いではないですか。
同志社・早稲田・立教・京都大学の入試問題を試験中に「質問サイト」に投稿した問題で、19歳の予備校生が偽計業務妨害容疑という聞き慣れない罪名で逮捕されました。若輩もちょうど忙しい最中ですが、連日連夜の報道番組で否応無くその要旨は理解しているところです。福祉専門職として、社会学を若干かじった者として、思うところが少しあって今これを打っています。
「偽計業務妨害が法律論的に成立するのは分かるが、大学側の落ち度が問われないのは違和感がある。逮捕された男子予備校生が言うように本当に1人でやったのであれば、入試の監督者は相当怠慢で、気付かないのが異様だ。京都大もほかの大学も、全面的に自分たちが被害者という意識で警察に相談しているが、監督責任者らの処分がないのはバランスを極めて欠いている」※1や、「(石原慎太郎知事は4日の定例会見で)『世の中はものごとがすすんだ。携帯の持ち込みを制限するなどの措置を講じなかった大学当事者の方が時代に遅れている』と試験監督のあり方に対する大学側の認識の低さを批判した」※2といったものは尤もな言い分であると認識しています。つまり著しくバランスを欠いていると。端的に申しますと、19歳の未成年者に対して少し懐が狭すぎやしないかと認識しているのです。少し特異なものを見つけると、それを際立たせて取り上げるマスコミの陋習の様なものも感じてしまいます。以前私と同世代のIT企業家が、時代の寵児と扱われていたのが、一変手のひらを返したように集中攻撃を受けていた光景と相通ずるものを感じてしまうのです。私としましては、19歳の若者にもう一度チャンスを与えることのできる懐の広い社会のあり方を切望します。
そして、もう一つ感慨深く思う点は、私たちは一体何のために勉強をしているのかという問題意識にあります。今回の不正によって、真摯に入試に臨んだ受験生からは激しい憤りのメッセージも寄せられています。それも尤もな感情だと認識しています。しかしながら、誰かを蹴落とし、蹴落とされる為に勉強があるとすれば、それは何か違うのではないかと私は思うのです。
なぜなら、本来の勉強とは、人々を幸せにするための叡智を培うものだと認識しているからです。人々とはあらゆる全ての人々を指すと私は理解しています。あらゆる人々が幸せになるための叡智を培い、その実践を通してあらゆる人々を幸せへと導くものが勉強であるはずです。その実践は絵空事の様で難しい。しかし、それを勇気を持って諦めずに探し求めるのが勉強であり、学問であると私は強く思います。
そう考えると、大学受験に至るまでの勉強は、本来の勉強とは一線を画したものとなっているのではないかと心配になってしまいます。記憶を頼りに、知識を詰め込むだけの“勉強”になっているのではないでしょうか。その様な“勉強”の果てに真の知識人が創造されないことは自明の理と言えます。
「私は本来的には『物知り』『情報通』であることと、『知性』とは別物だと思います。『know』と『think』は違うのです。『information』と『intelligence』は同じではないのです。(中略)人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのでしょう」※3。
自身のことを振り返って考えます。中学校時私は歴史という教科が大好きでした。当時、多弁で、多動な私は、授業中に積極的に発言し、授業“妨害”を繰り返す常習犯でした。特に国語と歴史の授業にはいつも熱が入ってしまい、発言の多い私に対して、「お前、代わりに授業するか?」とよく先生からお叱りを受けたものでした。
その様な私も試験になると、中々思うように点数が取れません。歴史は年表を覚えるのが専ら嫌いでしたし、国語では、筆者はもっと異なることを私たちに伝えたいのではないかと彼此想像することで時間以内に解答をすることが殆ど出来ませんでした。先生もなぜ点数が取れないのか、不思議がっていたようです。
しかし今は、その理由を自分なりに説明することが出来ます。つまり、大学までの勉強は記憶をインプットしてアウトプットする能力が問われていたのだと。本来は、歴史の年表を覚える能力と、歴史の勉強に必要な能力は別なところにあるはずです。真なる歴史の能力とは、どの様な社会的背景をもとにどの様な人々がどの様な行動を起こしたのかを分析し、延いては、同じ過ちを現在・未来で起こさぬためにはどのような社会構築と行動選択が求められるのかを明示していく力を指すのだと認識しています。私はその様なことを想像することが大好きな学生でした。その折は、ワクワクして夜も眠れなくなるのです。しかし、歴史の年表を覚える能力は、如上の能力と別のところにあることは容易に理解されます。
以上を考えると、真なる勉強とは、自ら考え想像すること、そしてやがて創造することにあることが理解されます。適切な選択肢を選ぶ能力ではなく、新たな選択肢を自身で創り出す能力が求められているのだと認識しています。その能力を培うことでこそ、国際競争社会で対等に渡り合える強靭な社会人を創出することが出来るのではないでしょうか。
もちろん初期の勉強にはインプットとアウトプットが不可欠な側面があります。しかしそこに傾注していては、真に強靭な社会人を養成することは出来ないと考えます。であれば、大学受験の段階においては、逸早く記憶を試す問題と決別し、絶えず問い続けてきた自分の考えをまとめて話す面接の機会や、自身の考えを文章で表現する小論文の機会を多分に増加させるべきではないでしょうか。
若輩も非常勤ではありますが、大学生に試験問題を作成する機会を頂いております。私の問題は、全て論述であり、しかも自身の現時点での考えや思いを吐露させるものです。あくまで自身の言葉で表現させることに重きを置いています。ですので、カンニングのしようがありません。
真の勉強とは、本来カンニングの出来ないものです。なぜなら、正解の無い問題を解くのが勉強だからです。そこで大事になってくることは、自身の思いや考えを、他者に伝える能力ではないでしょうか。そのためには、画一化されつつある自身の思いや考えにしっかりと耳を傾けて聴いてやれる機会を教育過程の中で担保する必要があるのでしょう。数年に及ぶ非常勤講師活動の中にあって、学生の自身の考えや思いの表出力が減退傾向にあることを毎年実感しているところです。
真に強靭な社会人を養成するためにも、大学入試では、カンニングの出来ない問題の出題を願うところです。因みに私が入学した花園大学。当時は小論文が高配点の入試形態をとっていました。これがなければ、私は確実に大学には行けなかったと“自負”しております。
※1尾木直樹氏「識者談話」『中国新聞』2011年3月4日
※2『産経新聞』3月4日(金)
※3姜尚中氏『悩む力』集英社新書P67-69 2008年7月
サッカーアジア杯で2大会ぶり4度目の優勝を果たした日本代表。本日も朝からメディアはそれ一色です。久しぶりの平日休暇でテレビを見ていると、ザッケローニ監督の組織マネジメントを賞賛する声を多く耳にしました。中には、「これは程日本代表の監督に合った外国人監督はいない」「日本文化に合ったイタリア人」と評する声もあります。
スポーツ記事は時折しか読まない私ですが、この監督は大人しい監督だとの印象を持っていました。自身の色を前面に出さない方だと。事実、専門家も下記の様にコメントしています。
「チームとしてすり合わせをする時間の少なさから新しい戦術を植え付けるとか、新しい布陣を採用するとか、大きな変化をチームに持ち込むことをしなかったのも奏功した。
監督という人種は、自分の色をできるだけ早く出したがるものだ。代表チームなら選手を大幅に入れ替えたり、前任者との違いを強調したりするもの。イタリア人監督は就任してから半年近くたついま、まだ自分のスタイルをチームに当てはめるようなことはしてはいない。W杯でベスト16に入った流れを尊重して、その遺産をごく自然な形で受け入れている」※1。
現時点において彼の監督としての就任期間はわずか2年。その短い期間の中で結果を出すことが求められている状況下で、敢えて、彼は自分の色を出すことではなく、既存のチームの色を上手く活かすことを考えたのではないでしょうか。この任された組織づくりが20年30年と続くのであればそこにはまた、違った手法も有効視されなければならないかも知れませんが、短期間で結果を出さなければならない組織づくりにおいては、特に既存の組織構造やメンバーの個性をしっかりと踏まえた上で、その特徴を最大限生かした組織づくりが求められるはずです。だから、そのことを徹底した。
つまり、メディアのコメンテーターが述べているように、「日本に合っている」のではなく、徹底して「日本に合わせた」のではないかと考えるのです。これは、ソーシャルキャピタルで著名な先生よりご教示いただいた内容にも通じるものですが、開発途上国の経済成長や復興を目指すODAの活動などにおいても、その地域の文化や住民ニーズに即した援助が最も効果を発揮すると言われているそうです。ザッケローニ監督はこのことの重要性を意図した実践をされているように思えてなりません。
と言うのも、彼は監督就任時下記の様に述べたと言われています。
「今、一番興味があるのは日本人と日本文化。『これほどまでよく働くとは思わなかった。選手も全員チームのために動く。イタリアでは考えられないからね』と話す。またイタリア時代には画家のゴッホに傾倒。日本で行われていた展覧会にも出かけたが今はゴッホよりも『武士道を勉強したい』という。一番の好物はすしだ。『刺し身も大丈夫。和食の方が、断然に私の口にあう。刺し身はイタリアでも食べていた』と笑う。
また昨年末の協会幹部との忘年会では『掘りごたつに入ってみたい。それがある店を探してほしい』と協会スタッフにリクエストして驚かせていた」※2。
明らかに意図して、日本文化に多く触れ学ぼうとする姿勢が読み取れます。その中で、日本の文化構造に合った強いチームを構築することを狙っているのではないでしょうか。
また、チームの構成員ひとり一人に声をかけ、その個性を把握し、それを有効に活用する視点も見受けられます。であればこそ、控えの選手が本番で日の目を見るのでしょう。これは恐らく偶発的なものではありません。
「同監督はドーハ入り後毎朝、欠かせないことがある。朝食会場で、各テーブルを歩き回り、控え組の選手1人1人に必ず声を掛ける。『困ったことはないか? ベンチスタートが続くけど、必ず出番が来るから。困ったことがあったら、いつでも相談においで』。カタールとの準々決勝で初先発した伊野波、韓国戦で途中出場した細貝と、控えだった選手が、得点を決めて日本を救っている。日替わりヒーロー出現の裏には、細心なところまで気を配る指揮官がいた」※3。
チームやその背景にある社会構造をしっかりと捉えた上で、その個性や特性を踏まえながら、組織マネジメントを行った帰結として、どうやらこのアジア杯の優勝はあるようです。
※1潮智史氏WEBRONZA「まじめなイタリア人の英断、選手も一人前になった」2011年1月31日
※2『夕刊フジ』2011年1月26日
※3『日刊スポーツ』2011年1月30日
限られた時間の中で、熊本市内を昼夜散策させてもらっての些細な気づきを書き留めておきます。
熊本市の人口は725,466人(2010年12月1日現在)ですが、その割にお店や、道路・アーケードの幅が広く取られており、人口以上の賑わいを感じました。地元の方に伺えば、多くの方は車で30分〜40分圏内の市外に住んでいて、週に3回も4回も市内に出られるそうです。だから、人口の割に店舗数が多くても賑わいを見せているのかも知れません。
熊本城は圧巻でした。市街地のすぐ隣に広大な敷地を有しています。市民がこの城を大切にされていることを痛感しました。他の都市では、市街地活性化を優先し、城内の敷地を開発しているところも多く見受けられます。長期の視点に立てば、どちらが住民のため、まちのためになるのか、熊本市民の取った行動は正しかったと言えそうです。
広島市内と同様に、熊本でも路面電車が走っていました。タクシーの運転手さんは、「路面電車のおかげで、走りにくい」と言われる方もいらっしゃいましたが、まちづくりにはとっても最適な交通手段であると認識しております。地下鉄と比べると、上下移動が無いことから高齢者にも優しい乗り物と言えます。
滞在中のホテルでは、水道水を飲んで過ごしました。熊本県内は、水道水の殆どが地下水であり、ミネラルウォーターとして美味しく飲む事が出来るとのことでした。その土地土地に行ってみなければ、その土地の財産は認識できないものです。熊本県民にとっては当たり前のことであっても、よそ者から見れば、そこに重大な財産があることが分かります。これこそが、地域の持つ力なのでしょう。
食事や街並みを取っても、福岡や佐賀とは異なった独自の文化があることを認識し、感化されながら福山に帰ってきたところです。
開発中の熊本駅。高層マンションが建設中でした。福山と同じですね。
高齢者にも優しい路面電車が走る熊本市内。
賑わうアーケード。
店舗数はかなり多いと感じました。
皆様、新年明けましておめでとうございます!!
ところで、物心付いた時より私は、なぜ年の始まりは1月1日なんだろう?なぜ1月1日は芽出度いのだろう?と考えていた人間です。そう思って色々と若輩ながら勉強をしてみると、これは国や民族、文化や個人によって多様な見解があることが分かりました。それ以来、価値の多様性を尊重する福祉専門職としては、何か複雑な心境で新年の挨拶をしている節があります。まあ、そんなことを思いながら今これを書いております。
本年はまた新たな挑戦の年となりそうです。一つは、3月に江田島市内において地域福祉センター鹿川が開設されます。そして、法人本部に研修・研究センターが稼働することも大いなる挑戦です。地域福祉センター鹿川では、島嶼部における地域ケアの実践を、そして研修・研究センターでは、法人職員皆様の人材育成を法人としてしっかりと後方支援していく体制づくりを担ってまいる所存です。
当法人には、経営理念に共感し、志の高い多くの人材が揃っております。非常にありがたいことだと切に思う毎日です。本年からは特に、職員個人の自己実現と、法人としてのそれを擦り合わせながら組織の団結力を高めていき、経営理念に勇往邁進できる組織形成のあり方を模索し、その実践に取り組んで参りたいと考えています。そのためにも、チームマネージメントの理論と方法について、私自身が率先垂範の姿勢で研鑽していくつもりです。
以上が誠に簡潔ならが、本年におきます私の決意と挨拶でございます。
本年におきましても、当法人に関わって頂いた多くの方々のご多幸と、そして何よりもその自己実現をお祈りし、新年のご挨拶とさせていただきます。今年もご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。
2011年1月1日
特定非営利活動法人 地域の絆
代表理事 中島 康晴
年末12月29日 法人事務所から見た虹です。
今年も良い年になるそんな予感がしています。
今年から平素は、コミュニティホーム仁伍の3階におります。お気軽にお越しいただきたく存じます。