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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

「理解」することの意味

2010/12/18 12:00:00  社会全般
コミュニティホーム仁伍が竣工しました。ロゴマークのある位置が、法人本部の事務所です。
 2006年5月6日の私の手記には、ある方から叱咤された様子が書かれています。表題は、「『理解』するということ」です。次のような要旨が綴られています。

 ――――最近の若い人は、言ったことをすぐに「理解」するね。簡単に「そうですか・・・。○○なんですね」と。しかし、真に「理解」しようと思えば、その様な反応にはならないはずだ。様々な考察を脳裏に張り巡らし、「うーん」と考え込むに違いない。物事は本来直ぐには「理解」に到達しない。

 これはある著名な方とお会いした際、その方に仕事のアドバイスをいただける機会がありました。その時に彼がおっしゃられた助言に対して、「なるほど、よく分かります」と反応した際に彼が述べた言葉です。最近の若者は直ぐに分かりましたというが、本当に分かっているのか?そんなに浅い話をしているつもりはないのだが…、という意図で話されているわけです。言われた折、しまったと思い、その後自宅に帰って色々と考え込んで手記を残しておりました。

 私は毎日の生活の中で、人と話した会話の中身や、新聞・雑誌・テレビの内容、様々な事象を観察する中で、気づいたことは手記を残しています。パソコンの「ワード」に入力し続け今や400頁に到達する勢いです。そして、時折ファイルを開いてパソコンの画面上で眺めるのです。今日はこの部分に目が留まった次第です。

 前回のブログでお示ししたように、理解したことを示すには、理論や実践を自分の言葉で言語化出来ることが一つの指標となるようです。それが出来なければ「分かった」とは言えないはずです。その為には、多忙を極める実践の中で原点を忘れたままでは非常にまずく、立ち止まり深慮する実践が強く求められます。

 「たとえば、学生から『分かっているんだけど、言葉では説明できないんです』と言われることがある。世の中には言語化しにくい理解ももちろんあるのだが、私の授業では言語化できることしか教えていないので、『それは分かっていないことだよ』と言う。学生は不満そうな顔をする。
 そこで、受講生全員に対して、私の授業では次のようなことができたときに『分かった』とみなすということを説明することにしている。
 ◇その定義を言えるようになる(丸暗記でもOK)。
 ◇その定義を自分の言葉で言い換えられるようになる。
 ◇その定義にあてはまる例と例外を区別できるようになる。
 ◇その定義の例を自分で考えられるようになる。
 『分かった』ことをここまで具体的に定義すると、『分かっているけど説明できない』と主張する学生はいなくなる」※。

 近ごろ、人前で話す機会や職員の指導・教育場面が増えています。学び手に「理解」をしてもらうことの責任と難しさを痛感している毎日です。その折に、改めて「理解」することの定義と意義を再確認したのが今日のブログです。

 学びは本来非常に奥深きものです。であるからこそ、学び手と同時に、教え手の責任は更に重大です。「分かる」ために、教え手は学び手に如上の観点で「理解」させる必要があるのですから。

 そして、その責任の帰すところは、学び手と共に教え手にあるのです。


※島宗 理氏『インストラクショナルデザイン 教師のためのルールブック』米田出版 P81-82 2007年6月



コミュニティホーム仁伍正面玄関

 グループホームでは、ユニットごとに玄関が設けられています。生活の中で最低限必要な段差は、敢えて残しているのが特徴かも知れません。

風致地区なので、緑がたくさんあり、癒される空間となっています。

ユニットの名前は、「楽♥楽」と「遊々」に決定です。

信頼の絆と便利さの関係

2010/12/04 12:00:00  社会全般
 最近ソーシャルキャピタルの著書をよく手にしています。東北大学の著名な先生のご講義を受けて以来、自身の実践に照らして鑑みると頭から離れぬ概念となっているからです。

 ソーシャルキャピタルはよく、社会関係資本と訳されていますが、人と人との絆や関係を資本と見立ててそれを増強することを目的として使われているようです。

 人間生活における豊かさは、経済的指標のみでは測れません。懐が温まれば、人の生活が豊かになるわけではありません。人の生活が豊かになるためには、経済的自立のみならず、健康・文化・社会関係・生活技術・信教・政治等の分野における自立が不可欠であることは自明の理です。つまり、経済的な豊かさは、人を幸せにする一つの手段に過ぎないのです。おそらくは、人の豊かさを図るもう一つの全く違った指標としてソーシャルキャピタルは存在するのでしょう。だからこそ、私はその魅力に取り憑かれているのかも知れません。

 写真は、法人本部の所属する仁伍町内会のあるゴミステーションで思わず撮影したものです。いわゆるゴミ捨て場に、ゴミ出しにやってくる住民の心を少しでも安らげて差し上げたいとの思いからお花を植えておられます。お花を植えるのみならず、その前に掃除をし雑草を刈っているのです。これは誰に頼まれたわけでも、決まり事でもありません。住民が自らのご意志で、行動されているのです。素晴らしい取り組みだと思いませんか。心が温まりませんか。豊かな気持ちにならないでしょうか。この様な素敵な取り組みが皆様の地域の中にも沢山あるはずです。しかし、私たちは忙しさの中で、その豊かさを感じることなく生活しているのかも知れません。このような豊かさに目も触れず、また重要視せずに私たちの生活は成り立ってはいないでしょうか。このような行動はお金にならぬ取り組みかも知れません。が、このような豊かさを大切にせずして、私たちは本当に幸せになれるのでしょうか。私たちが生きていく上での豊かさは、実は身近なところに沢山あるのです。そのことを把握し、理解する。そしてそれを増強していく取り組みがソーシャルキャピタルなのだと若輩ながら理解しているところです。

 12月1日にコミュニティホーム仁伍が開設しました。近頃は便利なもので、入り口とトイレの照明はセンサー式になっています。ご存知の通り、来客があればセンサーで明かりがついてくれます。私も夜間出退社する際に助かっています。一方で、隣の地域福祉センター仁伍の玄関にはセンサーが付いていません。向永谷も宮浦西もそうですね。

 センサーが付いていないセンターでは、来客時職員さんが気を利かせて電気をつけて下さいます。センサーが付いていないからこそ、そのような気配りを図ろうと思い行動するのでしょう。では、センサーが付いてしまったらどうでしょうか。ひょっとするとそのような配慮は埋もれてしまうかもしれません。そのようなことの無いようコミュニティホーム仁伍の職員さんには期待を寄せたいと思っております。

 同じ原理で企業では、わざと自動ドアを設置していないところもあると聞きます。手動にして、従業員の方が絶えず気配りをして開閉するのだそうです。それが人間関係の信頼の絆を醸成するのでしょう。これはビジネスモデルの発想かも知れませんが、この取り組みはおそらく直接収入には結びつかない実践であると言えます。その点においては、ソーシャルキャピタルにおける実践のヒントにもなり得るかも知れません。

 如上のように私たちの生活は便利になりました。しかし、決して豊かにはなっていないように見受けられます。経済成長を成し遂げて便利になることのみをもって、私たちの生活が豊かになることはありません。それは手段であって目的ではないからです。

 地域の中で誰もが排他・排斥されない地域社会。困っている方をお互いに支え合える地域。上記事例のように地域住民が豊かな取り組みをしている際、それを認識し、感謝し、増強し合える地域。そのような地域の絆を紡いでいくことが真の豊かさに繋がるものと信じている若輩です。


実は、ごみステーションそのものが地域住民の手作りです。

 地域住民手作りのゴミステーションだからこそ、皆さんで大切にされているのではないかと私は考えています。補助金で業者に委託して作ったゴミステーションであれば、このように大切にされないのかもしれません。

 このゴミステーションは地域の誇りです。私はそう思います。住民の方にも是非そう感じていただきたく存じます。

このような些細なところに幸せは存在します。

 どなたが考え取り組みだしたのか・・・。私はこういったことに幸せを感じる人間です。皆さんはどうですか???

優秀な指導者の下で優秀な人材は育つのか?

2010/11/19 12:00:00  社会全般
近頃はフェリーに乗ることが増えました。新たな機会に感謝・感謝。
 新規事業を展開する当法人では、今が新規採用面接のラッシュです。その際、応募して下さった方々から何度もお聞きした話の要旨に、経験豊富な指導者がおらず十分な指導を受けていない、ここでは自分が成長しない、と思ったので当法人の採用面接に応募したといったものが多く存在しました。

 その様にお話しをされた方には透かさずに次の様に質問しています。「そうですか、それは大変でしたね。ところで、ご自身はその間専門書を何冊手に取られて読まれましたか?独自にどのような研修を受けて来られましたか?」。残念ながらそれに対する多くの答えは、自己研鑽の実践が皆無であることが殆どでした。追い打ちをかける様に思わず嘯いてしまいます。「それでは、経験豊富で優秀な指導者の下にいても、その方の指導を十分に受け取ることはできませんよね」。

 学ぶことは、教え手の問題であると同時に、学び手の問題でもあります。インストラクショナルデザインの様に、教え手の専門性を高める視点に立てば、学び手が正しいという原則に立って実践することが求められる訳ですが、学び手が自らの動機を高めて強く学びたいと思い行動しなければそこには限界が生じるはずです。

 優秀な指導者が、優秀な実践者を生み出すのではなく、優秀な学び手が、優秀な指導者を上手く活用出来た際に、その才能を開花させているようにも思われます。指導者が凄いというのは間違いありませんが、その方について才能を開花させた学び手は更に凄いのだと私は認識しております。先生も凄いのだが、それに応える生徒はもっと凄いのだと。

 昨日たまたま見ていたNHKの番組を見ながらその様なことを思い出しました。競泳日本代表ヘッドコーチの平井伯昌氏は、専門外の体験や知識を選手に伝えるのだそうです。マネジメントの本を選手に読ませたり、美術館の絵画鑑賞に連れて出かけたり、大人の集まる会に連れて出る等。平井氏いわく、競泳選手なので競泳のことだけを考えていればそれで良いというわけではなく、様々な経験と競泳を繋ぎ合わせて考えることが出来る選手が強くなる。競泳と関係ないことは一切しないと言った選手は強くなれないのだそうです。

 学生から社会人になり、競泳に必要な体力や技術は向上するが、それだけでは結果が出せないと平井氏はおっしゃられていました。それとは違う分野の出来事を自ら分析して、それを競泳のヒントに繋ぐことが出来る、その様な選手が伸びるのだと。著名な北島選手も然りで、競泳以外の様々な分野の人たちと交流しながら、それをただ単にプライベートだと競泳と分けて考えているわけではなく、その経験を競泳に生かして結果を出しているとおっしゃられるのです。その様な応用力が彼にはあると。

 つまり、学び手に如上の応用力がなければ、どの様な指導者の下であっても多くを学びとることは出来ないでしょう。

 しかし、応用力はどの様に身につけるのか?その第一歩は、目標に向かって信念を持って歩んで行こうとする志の高さにあるような気がしています。今は出来ていない、しかしいつかは到達したい。だからこそ、今を懸命に自己研鑽している志。いつかきっとこうなりたい、だからこそ毎日を投げ出さずコツコツと積み上げている実践。その飽くなき向上心と、志が学び手に応用力を身につけさせるのかも知れません。

 優秀な指導者が、優秀な実践家を生み出すのではなく、優秀な指導者のもとには、志の高い実践家が集まるのです。


※『仕事学のすすめ』「『人間力を高めるコーチング」第3回 ほめずに育てるコミュニケーション術」トランスレーター:勝間和代氏 語り手:平井伯昌(ひらいのりまさ)(競泳日本代表ヘッドコーチ)
本放送 11月18日  PM10時25分〜PM10時50分(教育テレビ)



言葉の重みと発言の難しさ

2010/11/17 12:00:00  社会全般
江田島市沖美町にあるサンビーチ沖美。空も海も澄んでおり、心癒される風景です。
 ある大臣の発言をめぐって、野党より猛烈な批判が巻き起こっている今日この頃です。実はあの発言の場に自身は立ち合っておりましたので、色々と感慨深く勉強になる側面もありました。

 発言の内容自体は、国民感覚からして許し難いものでしたし、こんなこと言ってもいいのかな?、と不安感を持ちながら話を伺ってもおりました。発言内容が不適切であることは自明の理です。

 私が勉強になったと感じる側面は、それが例えどのような状況であったとしても、その発言は独り歩きし、取り上げられるといった事実にあります。そもそも発言とは、一方的なものではなく、受け手との相互作用によって成立するものです。受けて度外視の一方的な発言をする政治家はいないでしょう。よって、その場の受けての雰囲気によって発言者は発言を変えてしまう傾向があるわけです。久しぶりの地元に帰られて、多くの支援者を目の前にした際、それが“冗談”として許される空気があり、その場で発した言葉であっても、その言葉は独り歩きし、別の場所で取り上げられます。それが言葉の重みであり、発言に対する責任なのでしょう。

 特に人前で話すことの多い講師業に従事する者は、自戒の念を持って如上の問題に触れる必要があります。かつて、前職における大恩人より、「お前は人前で話すことの重要性を理解していない!」と叱咤されたことがありましたが、まさにそのことを自覚せずして人前での発言は許されないのでしょう。

 福祉教育や啓発活動を担うことのあるソーシャルワーカーの実践においても、そのプレゼンテーション能力が不可欠であると言われています。人前で話すことの多い私たちも、自分の発言に責任を持たねばなりません。

 自分の発言に責任を持つとは、その発言が独り歩きしても、別の場で取り上げられたとしても、その正当性が説明できること、そのような発言をすることではないでしょうか。自身の信念に基づいて、自身が正当性のあると考える思いを吐露すること、そしてその結果に責任を負うことを決っして発言することが、言葉の重みに繋がるのです。


「普通」観と個別化の原則

2010/11/15 12:00:00  社会全般
私が好きな江田島市の景色��
 F=P=バイスッティクの「バイスティックの7つの原則」における第一の原則が「クライエントを個人として捉える」です。当法人の経営理念に掲げている憲法13条においても個人の幸福追求権が謳われていますし、ソーシャルワーカーのミッションとも言われている権利擁護における要諦は、個人の尊厳保持の支援であり、自己決定の尊重であると認識しています。

 その人なりの幸福を一体だれが判断するのかなどは自明のこととして本人が決定するべきものです。クライエントの問題はクライエントにしか解決することが出来ないものであり、私たちはそれを傍で支援・調整する役割を持つに過ぎません。

 このようなことを整理すれば、対人援助職にとって最も大事な視点は、クライエントの個別の価値や思いを大切にすることであると言えそうです。では個別化の対義語は何でしょう?おそらく画一化がこれに当るのではないでしょうか。しかしながら、私にはもう一つ注視したい言葉があります。「普通」や「常識」という言葉。

 私の中にある「普通」や「常識」の定義は、100人いれば100通り、1,000人いれば1,000通りのそれがあるとの認識です。理論的・科学的に1億2千万人の「普通」や「常識」などは存在しません。であるにも拘らず、なぜ人は必要以上にそれに捉われて生きているのか?また、それは誰にとっての「普通」や「常識」なのか?といったことを10代の頃より私は悩み考えてきました。この度は次の記事を読んだ際、そのようなことを思い出しました。


「(大学では)最近は友だちと一緒でないと食堂で昼食をとれない学生が増えている。ランチメートを確実につくるため、昼休み前後の授業科目が友だちと同じになるようにカリキュラムを組む学生も目につく。一人で食べるのがつらいのではない。一人で食べているところを知人に見られるのがつらいのである。
 一人でいる人間には価値がない―。
 若者たちの間にはそんな見方が広がっている。自らの生活の充実にとって、個人的な能力や経済力より人間関係の方がはるかに重要と考えている。個々人が内面に持ち合わせている知識や技能、道徳性や倫理といったものではなく、どれだけ豊かな人間関係を持っているかによって、人間としての価値が決まるという発想である。
 人間関係を偏重し、過剰と思えるほどの価値をそこに見いだすようになったのは、比喩的に言えば、人間関係の自由市場化(流動化)が進んだからである。人間関係上の制度的な拘束力が弱まり、自らの意思に反した関係に縛られることが減ってきたからである。(中略)制度的な枠組みがかつてのように関係を保証してくれなくなったということでもある。(中略)人間関係は、自己責任のもとに個々人がゼロから構築しなければならないものになっている。
 (中略)安定した物差しを見失った人々は、それに代わって他者から受ける肯定的な反応、すなわち自己承認によって、自らの価値判断や行為選択を正当化しようとする。しかし、他者の評価次第で自己が大きく揺らぐということは、その肯定感の基盤が不安定なっていることを意味する。常に内面に不安を抱え込み、それを打ち消そうとさらに人間関係に埋没せざるを得ない」※。


 如上の発想に加え、つまり、人間関係への過剰な偏重は、「普通」や「常識」への帰属意識もその要因であると認識しています。人から後ろ指を指されたくない、人間関係において孤立したくないという意識は、「普通」や「常識」からはみ出したくないという思いの表れであり、そのことに対する恐怖や不安に対する行動に整合性が見られます。

 「普通」や「常識」は誰のためのものでしょうか?障害者の「常識」ですか?認知症高齢者の「普通」でしょうか?子どもたちの考えがそこに反映されているのでしょうか?否、そうではないようです。

 例えば、先ほど私は「1,000通り」と表現した際、3桁でコンマを入れていますが、日本語を基調に考えればこれは4桁でコンマを入れた方が合理的と言えます。しかし、3桁コンマの表記が基盤となっているのはイギリス語を基調とした発想によるものでしかありません。このように社会の「常識」や「普通」は多数派のそれでしかなく、万人にとっての代物ではないことが至極当たり前のこととして理解ができそうです。

 であるならば、私たち対人援助職は、社会の「普通」や「常識」とは、猜疑心を持ち一定の距離を置いて実践することが求められるのでしょう。そして利用者の価値やその思いを第一義に援助活動を実践しなければなりません。それが、「個別化の原則」であり、パーソンセンタードケアであると私は認識しています。利用者の価値や思いを大切にするとは、生活や人生における様々な判断を利用者にしていただく支援をすること他なりません。

 この様に、「個別化の原則」や権利擁護の実践には、社会にある一般的な価値・意識と対峙することが求められているのです。しかし、その道のりは決して平坦なものではありません。


※筑波大学大学院教授 土井 隆義氏 中国新聞2010年10月24日
サンデーオピニオン「『ひとり』が怖い若者たち 人間関係の流動化重荷に」

朝6時の羽田空港 第二ターミナル

 過日は、東京に出張後の翌日、広島市内の研修に間に合うように、朝一番の飛行機で羽田から広島まで空の便を活用しました。

 驚いたのは、朝6時でもこの人の多さ。この人たちは毎日このような生活をされているのでしょうか?地方都市に長らく住んでいる人間にしてみれば非日常的な空間に感じてしまいました。

 この光景を見ながら色々と感慨深いものがありました。
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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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