「一般論として、多少の負担をしても安心できる社会を作っていくことを重視するのか、それとも、負担はできる限り少なくして、個人の自己責任に多くを任せるのか、大きく二つの道があるます。私は、多少の負担をお願いしても安心できる社会を実現することが望ましいと考えています」※1。10月1日の所信表明演説における社会保障について菅首相は声高に謳われました。ここで問題になってくるのは、国民が「安心できる社会」とはどのような社会なのかということです。そのことを明示せずして、「多少の負担をお願い」されても国民は納得できるものではありません。前回の所信表明演説で首相がおっしゃられた「最少不幸社会」が「安心できる社会」というのであれば、この国で、そして世界中で不幸な人を生み出さない社会構築が目指されるはずです。
「強者の論理ではなく、弱者に寄り添いこうした(孤立したお年寄りを守る、女性を乳癌・子宮頸癌から守る、子どもを貧困や虐待から守る、あらゆる人を自殺や災害から守る)課題にも応えなければなりません」※1首相は言います。「弱者に寄り添い」どころか弱者の視点に立って社会を立て直していくことこそが、全国民が「安心できる社会」構築に繋がるものと認識しております。いつどこで梯子を外され、排除されるかわからぬ社会構造の中では、誰もが常に不安を抱えながら生きざるを得ません。そうではなく、どのような状況に陥っても排他・排斥されない社会こそが、誰もが「安心できる社会」と言えます。是非とも、そのような社会構築を目指していただければと若輩は願っております。
そのための「多少の負担」はやむを得ないところですが、増税をする一方、減税論も表出しているようです。あくまで素人の視点ですが、例えばスウェーデン等の北欧をはじめ、欧州の法人における社会保険料の負担率は日本をはるかに凌ぐ負担をしていると聞きます。その点もすべて含有した上で、法人税の減税を議論すべきでしょう。法人税だけを取り上げて、先進諸国における日本のそれは高すぎるという議論はナンセンスです。各国が負担している法人税以外のあらゆる負担を総合的に比較対照して判断するべきです。私たちの「多少の負担」が、「弱者」やこれから「弱者」になる可能性を秘めている私たちに使われることが無いとすれば。それでは「安心できる社会」構築には繋がりません。
福祉専門職としては、そうならぬよう只々見守るばかりですが。
スウェーデンもそうでしたが、そもそもその「多少の負担」が一体何に使われているのかが明示され、それに国民の納得が得られれば「多少の負担」も僅かな負担に感じることが出来るのかも知れません。やはり、求められるべきは国造りや社会構築のデザイン・ビジョンであるようです。
「そもそも税負担感が大きいのは、支払った税金が自分たちの生活のために使われているという確信を持てないからである。逆に言えば、この確信を持つことができれば、人びとは一定の税負担を引き受けるだろう」※2。
※1 『中国新聞』2010年10月2日
※2 名古屋大学大学院准教授 田村 哲樹氏『中国新聞』「今を読む」2008年2月10日(日)
コミュニティホーム仁伍 12月1日開設
地域ケアの実践や、まちづくりの拠点として機能する「グループホーム」となるよう思いを寄せて、「コミュニティホーム仁伍」と命名しました。
地域の拠点となれるよう懸命に頑張ってまいる所存です。ご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。
菅政権が打ち出している「ペイアズユーゴー原則」。最近よく耳にしませんか。このように政府が新たなキーワードを掲げた際、ついつい猜疑心を持って見てしまうのは私の性格が捻くれている所為かも知れません。「歳出増等を伴う施策の導入・拡充では、それに見合う安定的な財源を確保しなければならない」※意味だそうです。
また同じく政府は、全省庁の政策的経費を概算要求段階で前年度より原則10%カットする方針を打ち出しています。
財政難の顕著な我が国において如上の視点は、必要不可欠な取り組みとして多くの方が肯定的な捉え方をされているものとお見受けしています。財源が限られている中、支出を抑え、やむを得ず新たな支出を行う際はその財源を確保した上で実施すること。子どもにも分かりやすい道理かも知れません。
しかし、少し近視眼的過ぎやしないかと私は考えます。各省庁であったり、自治体の各部署内において、無駄を削減することは非常に重要な視点ではありますが、各省庁・部署を跨いだ総体的な理念・ビジョン・方針がなければ持続可能な社会構築には繋がりません。本来であれば、総体的な理念や方針の下、財政投入する部分と削減する部分を明確化し、効果的施策の下、総体的な無駄の削減が成されるべきでしょう。つまり、部署によっては赤字覚悟で財政投入すべきものがあるはずだと申し上げたいのです。費用対効果の高いものや、市民の生活基盤を支えるために必要不可欠なものはたとえ赤字になってでも財政投入すべきであるのは自明の理ではないでしょうか。極端な話、赤字になるからと言って、病院や消防署、警察署はいらないと言う人はいないはずです。費用対効果の高いものとしては、まちづくり活動を行う市民団体への助成や、コミュニティビジネス、社会的企業、NPOへの支援が考えられます。
国家レベルにおいてこの国をどの様な国にしていくのか。自治体レベルにおいてこのまちをどの様なまちにしていくのか。その理念・方針・ビジョンを分かりやすく明示することなくして、部門毎に支出の削減を実践しても、長期的に更なる財政難を招き入れるだけです。
ペイアズユーゴー原則は、よって総体的な視点で成されるべきですが、それより以前に、まずは総体的ビジョンを誰にでも分かりやすく明示することが求められているのです。
※『介護ビジョン』2010年10月号 日本医療企画 P19
日本福祉図書文献学会 弟13回 全国大会
京都ノートルダム女子大学で開催されました。第7回日本高齢者虐待防止学会広島大会の分科会でお世話になった三好明夫先生にお誘いいただき参加することが出来ました。また、二日前広島市内でお会いした学会代表理事の中川るみ先生とも再会を果たし貴重な時間を頂戴しました。
現在NPOを立ち上げて、これから共生ケアの実践に取り組もうとされている非常に志の高い実践家・研究職の方とも交流が果たせ、今後に繋がるネットワークをつくれたようです。嬉しい限りです。
閉鎖された各地域内の実践も重要なのですが、その枠を超えて地域間の連携を取ることで、各地域の実践は更に発展していくことはソーシャルキャピタルの概念で説明されているところです。
この様に、地域の枠を超えたネットワークづくりが今年度の私の目標です。
1998年度より10年以上に渡り、年間3万人以上の自殺者を生み出す我が国は、世界より、「自殺大国」という汚名を着せられています。大体一本のブログを書くのに私は20分程度要していますから、この本文を書き出して書き終えるまでの間に、わが国では一人の方が自殺をされている計算になります。果たして、そんなことがあっても良いのか。許されることなのか。福祉専門職として、よく自問自答する事柄です。
発生率の高さと、その数の多さから鑑みると、これは明白な社会問題です。社会構造が人々をそのような悲劇へと導いていると言えます。その構造のあり方を変革しなければ改善し得ない問題であるとも言えるでしょう。「求職者向けにハローワークで心の健康相談に応じられる体制を整備」※1するなどは、無効だとは申し上げませんが、対処療法にすぎぬ施策であると認識しております。自殺をされた方や、精神疾患の方々の対処能力・ストレス耐性・コミュニケーション力に問題があるのではなく、むしろ社会がそのような方々を生み出していると鑑み、その構造にメスを入れていくことがより本質的な問題解決へと繋がるような気がしています。
素人考えでは、格差社会や、地域力の低下、医療・社会福祉体制の不安定化、セーフティーネットや年金問題を含む社会保障制度の不備等が大きな要因となると分析していました。
ところがもう一つ、9月7日夕方〜8日にかけて報道された「自殺・うつ 経済損失 2.7兆円」※2の記事を読んで、実はある要因に気づくに至りました。各記事では「日本国内の自殺とうつ病による経済損失は年間2兆7千億円」※2とし、「具体的な数値を示すことで、自殺と精神疾患に関する対策を推進する狙い」※2と書かれています。また、「今後、自殺やうつ病がなくなった場合、2010年での国内総生産(GDP)の引き上げ効果は約1兆7千億円に上るとの推計も公表した」※1とのこと。本発表は、「長妻氏(厚生労働大臣)が指示し、推計は国立社会保障・人口問題研究所」※1が行ったものです。これら一連の調査や発表の意義深さは自明の如く感じるのですが、やはり私は腑に落ちません。
人の命はお金では測れないという、大前提が稀薄化しているようにしか思えないのです。要するに、GDPが上がろうが下がろうが、人の命を大切にしなければならないという自明の理が崩れているように見受けられます。
厚労省が、経済的損出を発表することで、「自殺者と精神疾患に関する対策」※2を推進することを戦略化していることには理解が出来ます。問題なのは、そうでもしなければそれが「推進」できない社会の構造にあるような気がするわけです。まさに、経済至上主義の中、全ての指標を経済で推し量り「善悪」を判断することに限界が来ていることを示唆する事例です。
たとえ経済的な効果が見込めなくとも、人の命は守らなければならない。この至極当たり前の共通認識に、社会全体が立ち返る必要性を感じています。いみじくも、まちづくりのために読み漁っているソーシャルキャピタルの本には以下のように書かれていました。少し長くなりますが、引用しておきます。
「人間の価値観、つまり経済学でいう嗜好は相対的なものであり、時とともに変化する。(中略)内風呂があたりまえの世界では、風呂があったからといって効用が上昇することはない。つまり風呂を作ってGDPが上がっても人々の効用は改善しないのである。内風呂を車や住宅に置き換えてみても同じである。物質的豊かさは重要だが、ある水準を越えると相対的なものになり、必ずしも人々の満足度の改善をもたらさない。(中略)こうしてみると、逆に、本来満足度を高めるはずの消費も、他人と比較してしまいかえって不幸になることさえある。「誇示的消費」の競争が起これば、豪華な装飾品を購入しても友人がさらに豪華なものを購入すれば、かえって敗北感を味わうだけかもしれない。(中略)いずれにせよ、GDPは増えても、幸福度は増えないどころか減少するのかも知れない。つまり、幸福感や満足度は社会・経済の変化に応じて変化し、しかも相対的なものである。これは多くの庶民にとっては自明のことだが、経済学では自明ではない。内風呂や車、宝石などの財(goods)が増えれば人々の満足度は必ず増すというのが伝統的経済学の基本的な考え方である」※3。
※1『中国新聞』「自殺・うつ 損失2.7兆円」2010年9月8日
※2『日本経済新聞』「自殺・うつ 経済損失2.7兆円」2010年9月7日(夕刊)
※3稲葉 陽二氏『ソーシャル・キャピタル 〜「信頼の絆」で解く現代経済・社会の諸課題〜』生産性出版 P.20-21 2009年12月
先週7月26日〜30日までの間、認知症介護研究・研修仙台センターで開催された「2010年度 第1回認知症介護指導者フォローアップ研修」に参加していた関係上、自宅に帰ってから、約一週間分の新聞を一気に読み漁る羽目となりました。そんな中、以前から気に留めていたテーマが再び取り上げられていました。今日はそのことについて、思うところを述べておきます。
気になる記事は、「公用語化 大手企業で進む」といったもので、「『公用語を日本語から英語に変更している』。ネット販売、楽天の三木谷浩史社長は6月末の記者会見で、流ちょうな英語でこう切り出した。2012年末までに公用語化を完了するという。(中略)カジュアル衣料品店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリング(山口市)は11年度に入社する新卒採用者600人のうち半数が外国人。外国人社員が加わる会議などは原則として英語で行う」※という内容です。
私は言語学に精通しているわけではありませんが、ただし多国の言語を話せる人が言語の出来る人だと誤った認識を持つレベルの者でもありませんが、日本語の特徴を鑑みてもこれは明らかにコミュニケーションツールという以上の文化的重要度の高いものであることは自明の如く認識しております。多様な表現方法と、奥行きの深さを有している日本語は、私たち日本人が誇れる文化でもあるのです。無論、私たち日本人が日本語を誇るように、イギリス人がイギリス語を誇ることも同様に尊重する必要がありますし、日本の場合、アイヌ語のことを鑑みると、そのことに対する猛省は不可欠な視点となるでしょう。
しかし、真の国際人とは、自国の文化や、風土、言語に対する誇りを携えた上で、「グローバルスタンダード」に立ち向かう人のことを指すことは、古くから一般的に言われてきたことではないでしょうか?であるからこそ、私は腑に落ちないのです。自分の出所を誇りに思えない人間が、果たして、他者を尊重し、多様化した国際社会から評価を受けることができるのか、疑問に思えてなりません。日本人として、日本文化としての日本語を尊重する姿勢こそが、他文化への尊重心を醸成し、延いては、国際社会への貢献に繋がって行くようにしか思えないのは、私の見識の薄っぺらさやも知れませんが。
「トヨタ自動車やソニーなどは『必要に応じて英語を使う』とはしているが、公用語化には消極的だ。ホンダの伊東孝紳社長は20日の記者会見で『日本人が集まる日本で英語を使うなんて、そんなばかな話はない。日本では日本語でやればいい』と否定的な考えを強調した」※。無論、総ての日本企業が、誇りを失おうとしているわけではないようです。
自身を尊重できない人は、他者を尊重できないという原則から見た如上の見解ですが、若輩はこの年になってようやくイギリス語の勉強を始めることにしました。日本における自身の実践をより深めるためには、自身の見識の幅を広げなければなりません。その抜き差しならない状況に追い込まれての判断です。つまり、人は、必要とあれば、自ら学び始めるということです。
※『中国新聞』2010年7月27日
昨日のパラグアイ戦をもって日本のワールドカップは終わりを告げました。「日本サッカーの底力を世界に示してくれた。健闘を心からたたえたい」昨日未明に菅直人首相が談話を発表したように※1、国民の大多数の反応は「よくやった!」と称賛するものであり、それは真っ当な反応であると認識しています。その評価に立った上で、予てから日本サッカー対して思うところを綴ってみたいと思います。
スポーツは勝ち負けが全てではないと言った考え方があり、そのことは尊重した上で、日本サッカーが今後世界で勝ち上がっていくためには、その得点力・決定力が不可欠です。これは報道においても自明の如く取り上げられていることで異論の無い所かと存じます。ではなぜ得点できないのか?スポーツの専門家でもない私が思うに、日本人の意識や価値にも要因があると考えています。
1998年〜2002年まで日本代表の監督を務めたフィリップ=トルシエ氏は、来日当初以下のように語っています。「秩序を重んじる日本社会では、個人による露骨な感情表現をよしとしない。日本の教育が、日本人が自己表現や判断力に欠けることに影響しているのではないか。それがサッカーにも出ているように思う」。であればこそ、「チームづくりよりも人間づくり」を基調とした指導方法をとり、「世界ユース選手権で準優勝した選手を遠征先でディスコを借り切って踊らせたり、孤児院に連れていった」こともあったと言います。「いいチームを作るにはコミュニケーションが大切。そのためには、もっと感情を素直に表現する必要がある」トルシエ氏は言います。※2
この日本社会特有の呪縛から、今の日本代表は果たして解き放たれたのでしょうか?本田圭佑氏の加入により、幾分雰囲気が変わったものの未だその呪縛の中にいると私は認識しています。自己表現と判断能力の優れた本田圭佑氏に対し、日本のメディアが当初非難を浴びせたように、日本人特有の意識や価値は根深く社会に浸透し、サッカー界にも多分な影響を与えているものと察しています。基本的に、人間の価値や意識は、社会の価値規範から影響を受け作られていることから、そこから完全に影響を受けずに個の価値や意識が形成されることはありません。よって、これは至極「常識」的な話ですね。
私のスクラップファイルからは、色んな情報が出てきまして、いみじくも次のような文書を見つけました。元日本代表ストライカーの福田 正博氏の言葉です。
―――FWは失敗が一番多いポジションだが、失敗しないと得られないことが多いポジションだ。日本社会は失敗を許さない所がある。勝てなければあの監督が駄目だ!と言われだしたら、もう誰も認めてくれなくなる。選手も同じで、失敗したら、もう使ってもらえないんじゃないのか?と思う。失敗を恐れて、シュートを選択しない。責任を取りたくない考えがどこかにある。だからシュートではなく、パスを選択する場面が多くなる。失敗は人間が成長するには必要。失敗に寛容になる必要がある。そのためには、大人や日本社会の環境づくりが必要になってくる―――。
日本サッカーと共に、国際社会に通じる日本社会のあり方が今問われています。
※1日本経済新聞2010年6月30日
※2朝日新聞2000年9月24日
※3福田 正博氏2008年1月30日 報道ステーション「日本がW杯で勝つために FWはチャレンジせよ!」