「菅内閣は左翼政権」と安倍・麻生両元首相が批判をされているそうです(『朝日新聞』2010年6月8日)。私は政治学者でも専門家でもありませんので、その辺りのことはよく分かりません。政治に関しては、左翼・右翼の定義も理解していないずぶの素人です。
しかしながら、社会福祉の仕事は、公の責任の下実践される要素が強くその意味において、政治と社会福祉実践は密接な関係にあるようです。その観点から以下叙述します。
菅直人首相は、8日午後の就任会見で下記のように述べたと聞きます。
「私は政治の役割とは、国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか。最小不幸の社会を作ることにあると考えております。(中略)貧困、あるいは戦争、そういったことをなくすことこそ政治が力を尽くすべきだと、このように考えているからであります」。
「社会保障についても、従来は社会保障というと何か負担という形で、経済の成長の足を引っ張るんではないかという考えが主流でありました。しかしそうでしょうか。スウェーデンなど多くの国では、社会保障を充実させることのなかに雇用を生み出し、そして若い人たちも安心して勉強や研究に励むことができる。まさに社会保障の多くの分野は経済を成長させる分野でもある、こういう観点に立てば、この三つの経済成長と財政と、そして社会保障を一体として強くしていくという道は必ず開けるものと考えております」(『朝日新聞』2010年6月9日)。
国民が不幸になる要素を最小限に減らす社会。これは一言でいえば、格差是正社会を指すのだと認識しています。一部の人々のみが「幸福」と感じる社会ではなく、全ての人々が「幸福」と感じる(少なくとも「不幸」と感じない)社会の構築。不可能であると断じるのは容易いのですが、それを決して諦めないのが学問であり、政治であると私は認識しております。少なくとも、多少の犠牲はやむを得ないと突き進んできた経済成長戦略一辺倒の社会は、変換の時期に来ているのではないでしょうか?
多少の犠牲も許さない。そんな社会を目指すのが政治であり、学問であると信じたい。素人ながらそのように思うのです。また、「世界の人々」をも対象にした「最少不幸社会」は、日本国民の幸福のみならず、人類における普遍的幸福を想定している点において、より福祉的であると言えます。その意味において、如上の発言は福祉専門職としては大いに期待できる内容でしょう。是非とも有言実行を切望したいと思います。
しかし、それを実行するのも結局は国民の意識でしょう。スウェーデンでは、高齢者や子どもに対する質の高い支援に多くの国民が賛同しており、それが政策に繋がっています。わが国の民度はどうでしょう。所詮、その国の国民は、自分たちの民度に応じた政府しか持てないのが定説です。私たちひとり一人が、どの様な社会構築を目指すのかが今強く問われているのではないでしょうか。
無関心は、生活課題を抱えていらっしゃる目の前の利用者をより不幸に導きます。「愛の反対は憎しみではなく無関心」(マザー=テレサ)だからです。
2009年10月の所信表明演説では「地域の絆」の再構築を強く訴え、「コンクリートから人へ」という名言を残し、「いのちを守りたい」と恥ずかしげもなく言い切れるその人柄を持つ鳩山由紀夫総理大臣が2日辞意を表明しました。辞任からたった2日後の本日、菅直人氏が第94代、61人目の首相に選出されました。福祉と政治は密接な関係性があるにもかかわらず、福祉専門職は政治に無関心であり過ぎると予々思っておりました。新政権に対する期待云々を述べる前に、ここで、福祉専門職の立場から鳩山政権を総括しておく必要性があると私は思っています。それは、利用者にとって、福祉専門職にとって鳩山政権はどうであったのかという観点からなされるべきものです。
6月より子ども手当の支給が開始されています。本ブログでも叙述しましたが、手当の支給は現物支給であるべきでした。事実、各自治体は給食費や保育料を滞納している家族に対して、未納分を当該手当から納付することについて承諾書を配布したり、手当の支給口座と、給食費・保育料の振替口座を同一口座にするよう勧めているようです(『朝日新聞』2010.6.3.)。バラマキだとの批判がありますが、確かにその通りであると認識しています。ただし、国立社会保障・人口問題研究所が示す通り、経済協力開発機構(OECD)が国際比較に用いる「相対的貧困率」の内、18歳未満の子どものいる家庭に絞った「子ども貧困率」は、13.7%(03年)で、OECD加盟30カ国の平均12.4%を上回り、12番目に高いと言われています。かつ、OECD加盟国は再分配後に軒並み貧困率が改善するにもかかわらず、日本だけは悪化すると言われています(『中国新聞』2009.11.6.)。つまり、子どもや高齢者、貧困世帯等、社会的に弱い立場にある方々に対して利益の再分配が機能していないことを指しています。これをこのまま放置しておくと、格差は広がり、治安は悪化し、どれだけ福祉専門職が情熱を持って対応を試みても焼け石に水となるでしょう。その意味において、子ども手当は、支給の方法に問題はあるものの、富の再分配という視点において正しい行動であると言わざるを得ません。
鳩山氏は、知的障害者を多数雇用しながら業績を上げるチョークメーカー・日本理化学工業(神奈川県川崎市)に見学に行かれたようですが、政権下では、利用者負担が重くなったなどの声を受け、障害者自立支援法を廃止し、障害者が自立支援法は違憲であると訴えた集団訴訟においては、2013年8月までに新法を制定することで基本合意しました。細やかなことは、全くと言ってよいほど詰められていない有様ですが、大きな方向性としては間違っていないと私は思います。
介護職の処遇のあり方について、民主党のマニフェストでは、月額4万円の賃金向上を謳っていましたが、この件に関しては、その後宙に浮いたままであるようです。この辺りは、新政権では是非とも実現していただきたいと切望します。
福祉専門職からみれば、然程悪いことばかりではなかったと私は総括します。それどころか、過去の政権にくらべれば格段に良かったとも言えそうですね。今政治に求められているのは、どんな立場の人であれ、誰であっても、国民ひとり一人の命を大切にする社会の構築であり、ひとり一人の生き方の多様性を尊重する国民意識の醸成であると私は考えています。目の前の高齢者や、子どもたちの人権をないがしろにして、この国が国際社会で成熟していくとは到底思えません。社会的に弱い立場の人や、少数派の人たちを切り捨てて経済が発展しても、今の時代、国際社会からは失笑を買うだけです。それは成熟した国家とは断じて言えません。また、それは豊かな国家でもありません。貨幣的な価値を指標にした豊かさを追求すること自体が、もはや大時代なのかも知れません。
その意味において、「生活が第一」と唱えたマニフェストは正しかったと言えます。そして、手法はどうであれ、疲弊した地方を再生させようとした小沢一郎氏の実践も悪いことばかりでは決してなかったと思っています。社会福祉分野においても、地域福祉の再生が喫緊の課題であるからです。「彼が06年の代表選の演説で『まず私自身が変わらなければなりません』と言ったのは、うそではなかったと思う。雇用を守れとか、地域社会の荒廃に立ち向かおうとする民主党の姿勢には、小沢氏なりのリアリズムがあったと思う」(山口二郎氏『朝日新聞』2010.6.3.)。
大企業の経営者からみれば、大きく評価は異なるのかも知れませんが、私たち福祉専門職からみれば概してこのような評価もできるのではないかと思うのです。
多くの詰めの甘さが指摘され、非難集中の最後でしたが、「地域の絆を再生しなければならない」「人のいのちを守りたい」と国民目線でおっしゃった総理は最初で最後かもしれません。福祉専門職としては、その発言にホッとしたのも事実です。であればこそ、誠に残念な結末でした。
「『新しい公共』づくりをめざした市民と民主党の政策形成プロジェクトIN広島」(【主催】民主党企業団体委員会)に少し遅れて参加しました。13時までは社団法人広島県社会福祉会の理事会に出席しておりましたので、ご宥恕いただきたく存じます。失礼致しました。
遅れて会場に入ると「パネルディスカッション」が展開されていました。席に着くと間もなく、�螢好錺鸞緝充萃�役社長 海津歩氏のご発言が耳に留まりました。急いでPCを開いて書き残したメモを、振り返り読むと―――「社会にインパクトを与えなければ、その実践は自己満足に過ぎない。インパクトを与えて、実効を上げることを重要視して(私たちは)実践をしてきた」というものでした。
もちろん口語表現ですから、「実効」は「実行」の意かも知れませんし、私の都合の良い解釈の仕方かも知れませんが、つまり、社会にインパクトを与える実践を通して、社会に実益を上げていくこと、もっと端的に言えば、実践を通して社会変革を遂げること、その事が出来ない実践は独り善がりの実践であるという意味に解釈しております。
NPO・社会的企業・コミュニティビジネスにおける実践には、社会に何かを訴える要素が不可欠です。社会の課題を認識し、放置しておってもその課題が一向に解決しない中、「無いものを嘆くなら、つくればいい」と、志を持った人々が起ち上がって起業するのが如上の実践だからです。
私は同じ意味において、社会に訴えるべき基軸を持たない芸術(アート)は、真の芸術(アート)ではないと認識しております。芸術に対してすらそのような視点を持っているものですから、NPOの活動は当然社会性の高いもので無ければならないという認識を持っております。海津氏のご発言は、自明のことではありますが、目の前の実践を積み上げる中で、次第に忘れやすい使命(ミッション)でもあります。その事を再認識させていただいたことに、深く感謝しております。
そして、あるべき姿を語ることも実は大切な行為なのですが、それよりもあるべき姿を実践して見せることが至上であることも、このご発言は指しています。実践して見せること、これほど社会に対してインパクトを与える事柄はありますまい。
これからのNPOや社会的企業には、社会の課題を変革する志と、その実践力が問われているのです。
2010年2月2日の本ブログにて、『プロフェッショナル仕事の流儀』(NHKアンコール2010年1月26日放送)で取り上げられた鮨職人・小野二郎氏について叙述しましたが、感銘を受けた残りの一つについても忘れぬうちに記しておきます。
修業についた当初、「生来不器用だった(小野)二郎は、何をやっても時間がかかり、どなられてばかりいた」のみならず、今でも、不器用さを自認した上で、お持ち帰りの折をきれいに包装できないと笑顔で話されていた逸話がありました。そして、―――不器用だからこそ、人の3倍練習し、人の3倍考える。人が考えない深いところまで、考える。だから、いいんじゃないかな?―――と話されたのです。
人のもつ才能とは、それ程単純には推し測れないものだと常日頃から私は認識しています。少し取り組んだ時点では、ひどく向いていないと思われる人が、その後努力を重ね、その世界で超一流の実績を残される事例などは全く珍しくもありません。しかしながら、何に焦っているのか?少し取り組んだ後、向いているか向いていないかを時期尚早に判断をされるケースが多いように見受けられます。少しやってみて、向いていないと分かれば、向いている他の何かに時間を費やしたほうが賢明であると思ってはいませんか?
習い事や、趣味等、少しの上達を最終目標においた活動であれば、如上の考えは的確な判断と言えるかも知れませんが、こと一生かけて極めたい専門性や仕事などにおいては不適切な判断と言わざるを得ません。物事を極めるためには、その構成を一旦ゼロまで解体し、自身の考えで再び構成し直し、新しい自分なりの方法を創出することが不可欠ではないかと若輩浅学ながら私は考えています。そのためには、躓きや苦悩が不可欠であると認識しています。この躓きや苦悩と面と向き合うことのできる人が、物事を極めることのできる人であると信じています。
そこでは、やはり大前提として、そこに遣り甲斐や楽しみを見出せなければ、苦悩と対峙し続けることが出来ないと思いますので、その活動は本人にとって何と言っても「好きなこと」でなければならないともいえます。つまり、大切なのは、早期の段階での向き不向きでは断じてなく、本人にとって、遣り甲斐や楽しさを見いだすことのできる活動であることだと私は考えています。
遣り甲斐を感じること、楽しめること、好きなこと、それらを簡単に諦める人が多い様な気がします。自分の声に耳を傾け、自分の信念を大切に貫くこと、この営みが、物事を極める第一歩であることは間違いありません。時には、周囲の雑音に耳を塞いで、自身の思いや考えに耳を傾けることをお勧めします。向き不向きの判断基準で人生の舵切りをすると、自身の中の隠された素晴らしい才能を開花させることなく生涯を閉じることになるやも知れないからです。
向いているか向いていないか、ではなく、自分は何をしたいのか、どのように生きたいのか、そこを大切にすることが要諦であると、小野氏はご示教して下さっているように思われます。
私の尊敬するジャーナリストの一人である故・筑紫哲也氏も下記のように仰られています。実は偉そうに叙述する私も、時折読み直しては、自身を鼓舞する毎日です。
「人と会うのが苦手だった――と自分にとっての最新刊(『旅の途中』朝日新聞社刊)の冒頭に書いたら『信じられない』という反応が返ってきた。(中略)当人がそうやって人に会うことに興味を持ち、積極的にもなるまで、相当に時間も習練も必要としたことを断っておかないと、私がまるで外向的、社交的な人間に生まれついたような誤った印象を与えてしまう。引き合いに出すのが妥当かどうかはわからぬが、私が出会った偉大な俳優、そしてコメディアンすらが、本来の性格は内向的、シャイで、それを克服しようとすることがバネになって、名声を獲得していった場合が少なくない。根っから外向的、『根アカ』はそういう努力を要しない分、かえって表現に深みが欠ける、という関係があるのではないか」(『週刊金曜日』2005年11月18日 582号 「自我作古 フツーの子の暗黒」筑紫哲也氏)。
NHKの人気番組『プロフェッショナル仕事の流儀』(アンコール2010年1月26日放送「修業は、一生終わらない 鮨職人 小野二郎氏」)を視ました。自身の信念を持って、妥協を許さぬ実践をしている出演者達から、若輩浅学の私が学べることは多々ありますので、時間の許す限り好んで視ている番組です。仕事の内容や、立場、理念によっては、大いに参考になる方から、あまり参考にならない事例もありますが、大なり小なり学べるものが詰まっていると認識しています。
今回は、80代の鮨職人が、年を重ねるごとにその「専門性」を高めてきたその姿に強い感銘を受けました。高齢になっても高まる能力、若僧には無くて、高齢者にしかない優れた能力があることをどこかで信じている私にとっては、非常に思慮深いことです。
私が注視したのはこの点ばかりではなく、「無駄が極上を生む」と小野氏が認識していることでした。この番組では更にもう一点感慨深い点がありましたが、この事はまたの機会にお伝えできればと思います。
つまり、「『手当て』(仕込み)を施した魚のすべてが客に出されるわけではない。例えば、同じ手当てを施した締め鯖でも、二郎が味を見て、その舌にかなったものだけが、鮨として握られ、残りは賄いに回る。こうした『無駄』が、うまい鮨を握るために欠かせないという」(NHKのホームページより)。
「無駄」や、「回り道」を忌避したり、恐れていては良い仕事が出来ないと予ねてより私は考えています。よい仕事には、「無駄」があるということを覚悟しておらねばならぬ、ということなのでしょう。私たちの実践に置き替えて換言すれば、「無駄」というよりも、「試行錯誤」となるのでしょうか。多くの実践から「試行錯誤」したうち、そこから得られて実益に繋がるものは、僅かかも知れませんが、実益に繋がらず、陽の目を見なかった「取り組み」も自身の身となり骨と化すのではないでしょうか。自身の財産として、蓄えられ、いつかその経験が、自身の信念を具現化する際効力を発揮するのでしょう。飽くなき信念へのこだわりと矜持があればこそ、妥協は決して許されず、厳しい試行錯誤が欠かせない。厳しい試行錯誤の中で、取捨選択が繰り返され、本物が残る。そのことを毎日繰り返すことに、「上達」のヒントがあるように思われます。まさに、失敗は成功のもとなのかもしれませんね。
時期をずらして、『中国新聞』2009年12月27日の記事から(「今を読む」広島大大学院 総合科学研究科教授 吉村慎太郎氏)。
「近年、大学院生のなかにも資料を注意深く読まないだけでなく、文献収集さえ怠る者が増えているようだ。私は院生時代、1冊の本を借りるため、東京から大阪に行ったこともあるが、そうした経験は今の院生には『おとぎ話』かもしれない。
『省エネ』的発想からすれば、読むべき文献量を最小限に絞り込み、短期間に論文という成果を出すことが望ましい。しかし、そうすれば、すそ野の狭い、深みに欠けた内容になりかねない。何ごともスピードと生産量を求め、さらに『省エネ』が加わると、論文の『粗製乱造』になる。研究は研究以外に目的はなく、無駄な作業なつきものだ。(中略)
視覚に訴える教材がもてはやされる。漫画やTVゲーム『熱中症』の半面、熟読がすたれ、聞きかじりの言葉やレッテルに飛び付き、それぞれの妥当性の是非や奥深い背景を理解しようとさえしない。記憶と反復、流行のとらえ方をなぞるがごとき『模倣』が繰り返される。(中略)
『無駄なことはやらない』という『省エネ』的発想ではなく、人的エネルギーの『浪費』こそが、現状に突破口をもたらす教育研究の原点であるとの認識も必要だろう。(中略)
自らのエネルギーを積極的に『浪費』する姿勢は、『模倣』がもたらす以上の成果を、遠回りであれ、人間に残す『贅沢』なのだ」。
私は、19歳より、新聞・雑誌のスクラップを続けております。また、心の残った文章は全て、引用先を明らかにしたうえで、パソコンのフォルダーに蓄積しています。これらの作業には非常に手間がかかり、「こんなことを続けて意味があるのかな?」と思いながらも、早18年が経ちます。
この一見、何の役に立つのかわからぬ営みこそが、私にとっての「贅沢」なのかも知れません。