大学の恩師より、先輩から新入生に向けての原稿依頼を頂戴し、草稿を過日お送りした所です。大学に入ったばかりの新入生に何を伝えるべきか、自身の経験をもとに助言をしてやって欲しいとのご依頼です。約2400字程度の原稿でしたが、言いたいことを一言で言い表すならば、「読書は馬鹿者をつくり、作文は正確なる者をつくる」(フランシス=ベーコン)となります。
受験勉強に偏重した今の教育、少なくとも私の経験では、試験の問題となっている文章や、教科書に書かれた文書の意味を的確に読解し、要約する能力が強く求められていたように感じています。国語や社会に関わらず、的確に読解・要約することが評価の対象になっていたかと記憶します。私などは、自分の意見がとめどなく溢流し、それを思いとどめることができず、その考えを解答用紙に書ききれず苦慮したものでした。無論、専ら良い点数を頂いた記憶はありません。
そのことを僻んで申し上げるのではありませんが、社会人として、もしくは、もう少しマクロの視点で国際競争に「負けない」強靭な社会人を育成するには、読解力を研ぎ澄ますよりは、自分の意見を他者に説得力を持って伝える力、説明力を向上させる必要性を感じています。如上の教育カリキュラムの「成果」もあってか、読解力はあるが、説明力に欠けている人が日本人には多いようです。特に、自分の思いや、考えを、自分の言葉で他者に伝えることが不得手な人が多いのではないでしょうか?
であるからこそ、読書をするという受け身の勉強よりも、作文をする能動的な取り組みの重要性を、フランシス=ベーコン氏は言われていたのだと推察しています。もちろん、読書は自身の人格形成には欠かせない営みですが、それは、何を学びたいのか?どのような人間になりたいのか?自身の問題意識が確立していることで、更に大きな学びが得られることが前提ですから、やはり、その基礎には、自身の考えや思いが確立しておらねばなりません。であればこそ、読書より、作文を・・・。となります。
そして、勉強や、学問とは、次のことをもって理解するように、説明しました。他愛のない、センパイの戯言かも知れません。
「大学は、『自分の考えを確立する場』であると考えています。他者の考えを参考に、自分はどう考えているのか、自分の声に耳を傾ける勉強です。
それは、高校まで学んできた偽勉強ではなく、真なる勉強です。なぜなら、勉強は全ての人が幸せになるためにするものです。勝ち負けを競い、誰かを蹴落としたり、蹴落とされたりするものでは断じてありません。全ての人が幸せになることは、非常に困難な課題ですが、それを成すために考えるのが勉強であり、学問であると私は考えています。多少の犠牲はやむを得ないのではなく、多少の犠牲も許さない、そんな生き方をするための勉強です」。
「スピードアップには、乗降時間と信号待ち時間の短縮が欠かせない」。「広島の路面電車を考える」(朝日新聞2009年10月17日)の記事から。
都市における地下鉄化が進む中、広島市内では、依然として路面電車が主流であります。私は以前より、路面電車は地下鉄よりも、高齢者や、子ども、障害者に優しい乗り物であると認識しておりました。上下運動が極めて少なくて済むからです。であるにもかかわらず、地下鉄化が進んでいるのは、車優先・健常者優先のまちづくりが行われてきた帰結であるからだと。
その意味において、最後まで路面電車を維持してきた広島を、少し誇らしげに思ってもおりました。しかし、この記事では、その運用方針は地下鉄化と大差ないことが露呈されました。速力化・効率化が第一義とされていることが明白です。
高齢者や、子ども、障害者にとって、電車の乗降は本来時間がかかるものです。杖や、押し車、車椅子等での移動の方や、認知機能が低下し乗降の仕方が分からない方でも、安心して乗降ができるようにするためには、速力化と効率化以外の方針を打ち出す必要性を感じます。
あらゆる生活場面において、速力化と効率化以外の、私たちが安心して暮らせる方針を打ち出す時代に来ていると私は考えます。特に、「社会的弱者」と言われる方たちが、安心してまちづくりに関わって行くことが出来る社会の構築が望まれているはずです。そのような方々が、路面電車を利用する際、当たり前のように、他者の力を借りながら乗降できる。そのことで、多少の電車の遅れが乗じたとしても、乗客は誰一人として不快な顔をしていない。そのような、路面電車の運営を切望します。
そんな路面電車が往来する広島市、素敵だと思いませんか。
自身の行動規範の一つとして「熟慮断行」を掲げていますが、私が苦手とするのは「熟慮」の方であると自覚があります。最近拝読した『リーダーは半歩前を歩け―金大中というヒント』(姜尚中氏、集英社新書)において、対談で金大中氏は「何かしようとするときは、三度考えろ」とおっしゃられ、「もちろん、考えても答がでないことは多いです。熟考を重ねれば、誤りはずっと少なくなると思います。そして、熟考すれば、決断した後まよわないですみます。信ずるところに向かって突き進めます」と説明を付言されています。
なぜこのことを今思い起こしているのかと言いますと、速力感のある情報化社会において、私たちは立ち止まって熟考することをしなくなったのではないかと憂慮しているからです。例えば、今日放映されていた「ワイドスクランブル」(2009/12/14 11:25〜13:05 テレビ朝日)で、アメリカのタイガーウッズ選手のスキャンダルに対し、コメンテーターのなかにし礼氏は下記の要旨を話されていました。―――内容としてはここまで大きく取り沙汰されることではないにも拘らず、アメリカ社会の中でここまで反響があるのは、黒人であるウッズ氏が、関係を持ったとされる複数の女性全てが白人である事実が関係しているのではないか―――というものでした。最近の様々な報道を見ていても、あまりにも皮相的で核心をついたものが少ないように見受けられます。その意味で、なかにし礼氏の如上の発言は、最近の報道では珍しい核心をついたものであると受け止めています。
時勢に急かされることなく、自分のペースで立ち止まり、熟考することが、今私たちに求められているような気がします。人には必ず立ち止まって、自分と向き合う時間が必要だと思います。速力感のある時代だからこそ、その時間を意図的につくっていくことがひとり一人に求められているのでしょう。
そして、熟慮の後は、断行するのみです!
本日の新聞の見出し「定額給付金、130万世帯申請せず 190億円が国庫へ」(朝日新聞2009.12.6.)に目が留まりました。
「景気対策として打ち出された総額約2兆円の定額給付金の対象約5500万世帯のうち、約130万世帯分の申請がなく、金額にして予算の約1%、190億円強が国庫に戻ることが、総務省のまとめでわかった。(中略)申請がなかった約130万世帯は、給付金の趣旨に反対で申請しなかったか、自治体が転居先をつかめず申請書が届かなかったなどの理由が考えられるという。(中略)一方、朝日新聞の調べでは、政令指定市と県庁所在地計50市のうち13市が『使い道が決まっていないなら』『受け取る意思がないなら』などと住民に寄付を呼びかけたが、全体としてはうまく寄付が集まらず低調だった」。
ちなみに、私はこの約1%の市民でした。お金に困っていない訳では毛頭ございませんが、「政策の趣旨に賛成できないから」と備考欄に記載し、受け取りを拒否した次第です。国を挙げての財政難の時代に、2兆円もの資金がいかに使われたのか、そのことに対する検証を是非ともお願いしたいものです。
2兆円あれば何ができたでしょうか?特別養護老人ホームや、グループホーム等の整備不足が声高に叫ばれている中、それらを幾つ整備することが出来たのか?劣悪な耐震構造の小中学校の改築等の整備がどれ程すすんだのか?また、このような投資は、未来に繋がるものであり、一時的・機会的なものではありますまい。
それにひきかえ、今回の定額給付金は、「焼け石に水」と化してしまったのではないでしょうか?だとすれば、2兆円の「水」は、あまりにも大時代な浪費であり、かつ、そのつけは私たちへと還元されることとなります。
一人当たりにとっては、少額であっても、それを束ねると2兆円もの超大金となります。それを、有効に運用することが政治の務めです。その2兆円を、社会的ニーズの高い分野に有効に投資することが、政治の役割かと存じます。それを、拒否した今回の政策には、やはり、賛同はできません。
この機会に、是非とも振り返りの検証をお願いしたいものです。2兆円の「水」が蒸発する光景など、2度と目にしたくはありません。
なぜ、今地域の絆が求められているのでしょうか?それは、持続可能な循環型社会が求められ始めている現状と、大いに整合性があるようです。
本ブログでもお話してきた様に、社会の構造や関係性の中で生きている私たちにとって、「私益」と「公益」は本来相互作用の関係にあるのですが、現代社会においてそれは潜在化され、そうでは無いかの如く「操作」されてきたように見受けられます。なぜ、「操作」する必要があるのかは、然程深い考察を必要とせずとも、察しがつきます。経済至上主義・競争原理主義社会においては、「私益」と「公益」を分別することがその礎となるからでしょう。いわゆる、勝ち組と負け組を作る必要性があったからではないでしょうか。
しかし、近頃、社会に格差があることは実は、全国民にとって良くないことではないかと、理解され始めております。そこで、注目を集めているのが、持続可能な循環型社会です。
そもそも、真に「豊かな」社会とは、循環型の社会そのものの事を言うようです。循環とは、自分たちの行いが、巡り巡って、いずれ、子や孫の代に「返ってくる」ことを意味します。自明の理として、「私益」と「公益」は循環しているのです。その「返ってくる」時間差に、利益を掠め取ることができた人を勝ち組と捉えても差し支えないのかも知れませんね。
「公益」と「私益」を循環させるそんな絆をつくっていきたい!それこそが、誰もが自分らしく安心して暮らせる社会構築への一里塚となるのかも知れません。地域の絆は、持続可能な循環型社会を構築する推進器となるのでしょうか?そうあって欲しいものです。
若輩浅学の私のコメントでは物足りませんので、最近拝読した文献より、引用させて頂きます。
「因縁とは、因果関係と縁である。すべての物事や存在はつながっていて、互いに因であり果である。個人の言動は全て「因」となり、必ず未来に何らかの影響を与える。何より、循環して自分に帰ってくる。その反対が直線的な「戻って来ない、循環しない」時間で、戻って来ないから「今のうちに」利益をかすめ取っておけば「勝ち」という考えになる。そこに、取ってしまえる者(勝つ者)と、取ってしまえなかった者(負けた者)が生まれる。これが、近代の「さもしさ」なのだ」(『週刊金曜日』2009.9.11.(766号)「風速計」「未来のための江戸学」田中優子氏)。