介護の現場で働いていることもあり、認知症や障害のある人と本当に共生出来る町にしたいと思って、地域の住民と一緒に餅つき大会やキャンプなどのイベントを年に3、4回企画している。こうした活動を通じて痛感するのは、人口が都市部に集中し、地方では人が減るような状態が続く中、自分たちが住む地域への帰属意識が希薄になっていることだ。行事への参加も中高年が中心で、若い人だちとの世代間の交流が少ないのが実情。
町づくりの中心は住民だが、不景気で収入が不安定になると、自分のことに精いっぱいで、周囲にまで頭が回らない。平成の大合併で自治体の規模が大きくなり、地城ごとの特色が薄れていることも問題だと思う。
国は、競争優先の社会とは違った方向を目指すような政策を講
じ、権限や財源をしっかり地方に移して、住民が安心して町づくりを行えるような環境を整えてほしい。
NPO法人「地域の絆」代表理事 中島 康晴さん(35)福山市木之庄町
三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
「(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。『安く遊べる!』ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の『主人公』なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ」。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?
ありきたり・素人的な表現と笑われるかもしれないが、最近終わりのあることの素晴らしさを実感している。同じくありきたりな表現でこの世のあらゆる物・事柄には終わりがあるのだが、このありきたりな感覚が実社会ではなんだか稀釈されている様に思われる。
終わりがあることは素晴らしいことであって終わりがあるからこそ人間は輝いて生きられる。
結婚や恋愛・仕事も同じでそれは永遠に続くと約束されているものでは断じてない。だからこそその間、人は生き生きと輝いていられるのである。
恋愛や結婚の話で言うと連れ合いと永遠に一緒にいられる訳ではない。死別にせよ破局にせよ必ず終わりが訪れる。だからこそ今お互いを大切にして生きていけるのだと思う。結婚すれば死ぬまで夫婦であると言う時代は終わったが、まだその義務感・「常識」の呪縛から社会は解き放たれてはいない。結婚すればお互いがお互いの永遠の連れ合いとなる様なそんな感覚がどこかに残っていたりする。お互いがお互いの永遠に約束された連れ合いであると実感した時、人・その関係はときめきも輝きも失う。終わりがあるという大前提があるからこそ今この時を大切にしたいと考えるし、相手を大切にしたいと感じるのである。そういったことを考えると、一般的に結婚より恋愛にときめきがあるのはその終わりがあることがより実感される為であると言えなくもない。人生も同じで「いつかは死ぬ」と実感して初めて自分が信じる後悔のない道を力強く生きて行けるのだと思う。
終わりがあることを実感して生きて行くと、色んな事に感動できるし物事がきらめいて見えてくる。ときめきが生まれる。「終わりがあることの素晴らしさ」と書く所以である。
科学の進捗と共に私達の生活は果たして発展・進歩しているのか?近頃疑問に思うことが多くなった。
例えば、今深夜番組を見ているが、私がテレビを見ている数百・数千キロ離れた地域の現在の生活場面が映し出されている。テレビがなかった時代には考えられない様相である。
茶の間にいながら、数千・数万キロ離れた今現在の情報がいとも簡単に手に入る時代になった。また科学の進捗と共に、職業の職種も増加し、仕事の専門化・分業化が顕著になった。これらのことを人類の幸福と考えるか不幸と捉えるか。極論ではあるが、私は人類の不幸であると思えてならない。
情報に関して言えば、テレビやインターネットなどにより件の数千・数万キロ離れた他者の生活をうかがい知る事が出来る一方、それを意識して生活せざるを得なくなった。異文化の今までは知りえなかった地域の情報をしかも適時映像で「知る」事によって、私達の文化・生活様式に変化が起こっている(もちろんその情報は偏向したものである)。これにより、文化・生活様式の画一化が進み多彩な文化の崩壊につながっているのは間違いない。
職業の専門化とは聞こえが良いが、言い換えればその部分部分ではスペシャリストではあるが相対的・総合的に物事を見れない人間の集まりであるとも言える。
科学の進捗と同時に大きく失って来たのはその「過程」ではないかと思う。物事における全ての「過程」を効率のために分業化・専門化してきた中でその「過程」を潜在化させていった。例えば、スーパーで切り身のパック詰めにされている肉や魚・野菜・果物等などから、家畜で育てられ食肉センターで殺される牛の姿や種から苗を育て苗から野菜・果物を栽培する農家の姿は見えてこない。
「過程」の存在を知らず「結果」の認識しか持たない社会は、物事の本質を見抜く力を持たない。それが確実に人文の衰退につながっているのではないかと考える。
そう考えると科学の「発展」と人文のそれは反比例の関係にあるのではないか?と疑念を抱いてしまう。『週刊金曜日』471号(2003.8.8.)「風速計」にて本多勝一氏は自身の鼎談から次の一節を引用している。「原爆までつくってしまった科学の無茶苦茶な発展ぶりに比べて、人文のほうは、ソクラテスや司馬遷の時代から、果たして進んでいるのだろうか」。鋭い視点であると感激した記憶があるが、実は科学の「発展」に比べて人文はほとんど発展していないのではなく両者は反比例の関係にあるのではないかと思うのである。少なくとも科学の「発展」は人文の衰退を招いているように思われる。
文頭より科学の発展と書けず進捗と書いたのはそれが直接人類の発展につながっていないのではないか?との思いからである。人類の発展に繋がる真の発展こそが今後の科学の課題であろう。
人類はさほど有能ではない。が、科学の「発展」を礎にその限界を感じずに今日までやってきた。その限界を認識し、そのありよう(パラダイム)の変革を迫られる時期が目の前に近づいてきている。