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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

ジャーナリズムとNHKの関係

2014/02/07 23:46:30  社会全般
 仮に社会福祉にド素人の福祉経営者がいたとして、その経営者が「クライエントの人権などどうでも良い」と公然の場で発言したらどうなるだろうか。

 いわゆる組織のトップには色んなタイプがあります。現場からの叩き上げや、幹部候補からの昇進者、経営に精通した者の招聘など。つまり、これだけ企業の複合化が進捗した社会において、基幹業務のド素人が経営者になることは珍しくはありませんし、基幹業務の管理・責任を組織体制で担保できておれば、それは忌避すべきことでも無いように思います。しかし、幾らド素人とは言え、冒頭の様に、その原則論や本質、理念を否定し、蹂躙する様な視点を持っておれば話は全く変わってきます。言うまでもなく、如上の発言をした福祉経営者など即刻クビにすべきでしょう。そうしなければ、斯様なサービスを提供する組織などから、誰もサービスを利用しないことに帰結するだけです。早期に倒産の危機が訪れるでしょう。

 先月25日のNHKの会長就任会見における籾井勝人会長の発言は、この事と平仄の合う話ではないでしょうか。報道によれば、籾井氏の発言の要旨は以下の様に挙げられています。

・(国際放送では)政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない。
・(慰安婦問題について)戦争地域にはどこでもあった。ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。(韓国は)日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おかしい。
・(尖閣諸島などは)日本の明確な領土。国民にきちっと理解してもらう必要がある。
・(靖国神社参拝について)総理が信念で行かれたということで、それはそれでよろしい。
・秘密法は政府が必要と説明しているので、様子を見るしかない※1。

 世の中に唯一無二の正義などありません。また、事実も一つではありません。100人いれば100通りの正義と事実があることこそが真理であると自身は考えてきました。その意味において、「公正中立や不偏不党、客観的な報道」は“言葉遊び”に過ぎず、この真理が分かっていないという事に帰結するのではないでしょうか。では、ジャーナリズムが担うべき役割とは何か。それは、社会の中で黙殺・度外視・抑圧・蹂躙され続けている人々の声をひとつ一つ丁寧に掬い上げて世に発表することにあるはずです。100人いれば100通りの正義と事実があるにもかかわらず、100の言い分は同等には取り扱われていないのが現下の社会の現状です。むしろ、一部の大きな声を発することのできる人々の見解が、社会を席捲し、それが唯一無二の正義であり、唯一の事実であると捉えられています。

 そして、重要なことは、その一部の「大きな声」の論理が、その他多くの人々の暮らしを蔑ろにしている事実にあります。3.11より以前。原発は安全だと叫ばれていましたし、その一部の「大きな声」に国民は騙されていました。「原発は安全」こそが、「正義」であり、「事実」であり、そして、「普通」や「常識」であったのです。しかし、一方で、原発の危険性を指摘し続けた一部の人々も存在したのです。例えば、昨今手にした舘野淳氏の『廃炉時代が始まった この原発はいらない』(リーダーズノート新書)を読めばこれは明らかです。本書は、11年前に朝日文庫から出版されていたものですが、殆ど売れることなく即刻廃版となっていました。時の、「正義」「事実」「普通」「常識」からかけ離れていたことが大きな要因です。つまり、その当時、本書は、「反正義」であり、「虚偽」であり、「異常」かつ「常識外れ」な存在であったと認識します。本書を読む限り、舘野氏はその当時から、福島第一原発の危険性を指摘していましたし、その具体的な事故の予見も成されていたようです。本書は3.11後に復刻した訳ですが、それ以前からこれらの黙殺・度外視・抑圧され続けていた少数派の理論をジャーナリズムが真摯に報道し、そして、人々が社会の在り方を考える熟慮の機会にそれを用いることが出来ていれば、今の福島の悲劇は生まれなかったと断言できます。その意味において、その一因ではあるものの、福島第一原発の事故は、ジャーナリズムの不在が起こした事故であるとも言えます。

 この様にしてみれば、仮に真実や真理なるものがあったとして、それに限りなく接近するためには、多様性を限りなく認めると言うことが前提条件としてなければならないと理解できます。しかし、そうであれば、1億2千万程もある国民の多様性を全て理解した上での報道など出来ないことも一方で浮き彫りになるはずです。やはり、「不偏不党」や「公正中立」な報道は幻想なのかも知れません。その中にあって、それでもこの不偏不党や公正中立そして、真実・真理への飽く無き接近を志すのならば、取るべき道は一つではないでしょうか。いわゆる社会的弱者や少数派と呼ばれている人々の論理と立場を率先・意図して取り上げていくことしかありますまい。

 100人いれば100通りの普通や常識がある訳ですが、この世の中には、それが一つしかないかの様相ではないでしょうか。そして、この場合の「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのかを見定める必要があります。一部の「大きな声」を発することのできる人々の理論を中心とした所謂多数派にとっての「普通」や「常識」であって、我われのクライエントのそれで無い事は明らかでしょう。この様な、権力の側や多数派に多分に偏向したものが、現下の社会における「常識」や「普通」であることは疑いの余地がありません。

 であれば、ジャーナリズムの担うべき役割は明白です。権力の側と多数派に偏向した「普通」や「常識」に対して、そうではないその他の事実を強調・意図して報じていくことで、全体の不均衡を是正していくことにあると私は思います。「その他の事実」とは、いわゆる社会的弱者や少数派、即ち、私たちのクライエントから見た事実であり、3.11前における反原発論者から見た事実を指します。原発の問題を見ても明らかなように、権力の側や多数派は、自ら見た事実を誇大・捏造する力を有しています。一見「不偏不党」「公正中立」に見える「常識」や「普通」も、既に彼らの側に大きく偏向していることは間違いありません。そこで、ジャーナリズムには、自らの事実を誇大・捏造する力を有していない社会的弱者や少数派の側に立った報道が求められることになります。つまり、社会的弱者や少数派の側に立った報道を行うことがジャーナリストの使命なのです。このことは、ソーシャルワーカーの使命とも親和性が強く、実践内容の違いこそあれ、マクロにおける着眼点は全く同じだと自身は考えてきました。

 話を戻しますが、如上の会長発言は、まさにこのジャーナリズムを粉砕・蹂躙するものであると言えます。本来、権力とは一定以上の距離を保ちながら、少数派の側に立った報道を行うべきジャーナリズムの立場とは、真逆の理論と立ち位置にあることが明らかにされたのですから。よって、社会福祉経営者が、クライエントの人権を蹂躙する発言を公然と行うことと整合性が合うのです。であれば、これはまさに「即刻クビ」になるべき問題です。

 いみじくも、その他「NHK経営委員2人の節度を欠いた言動や行き過ぎた主張が、問題になっている」そうです。報道によれば、「そのうち哲学者の長谷川三千子氏は、朝日新聞社で1993年に拳銃自殺した右翼団体の元幹部について、昨年10月にこの自殺を礼賛する追悼文を発表していた。メディアに対して暴力で圧力をかけた刑事事件の当事者を称賛していると読める文章だ。憲法が規定する象徴天皇制を否定するような記述も見られる。また、長谷川氏は今年1月に新聞で、少子化対策として女性が家庭で育児に専念し、男性が外で働くのが合理的という内容のコラムを発表して、議論を呼んだ。一方、やはり新しく経営委員になった作家の百田尚樹氏は都知事選で特定候補を応援する街頭演説で、南京大虐殺や真珠湾攻撃、東京裁判などについて持論を展開した。そして、『中国・韓国の顔色を見ながら政治をする人は不必要。彼らは売国奴』と言い、自分が応援する以外の候補を『人間のクズみたいなやつ』と呼んだ」※2。

 社会的弱者や少数派の人権を守る立場にあるジャーナリズムに真っ向から挑戦を挑む経営陣。このNHKという組織からジャーナリズムの灯が絶えるのはもう時間の問題かも知れません。そうでなくとも、NHKはドキュメンタリー番組にこそジャーナリズムの観点が色濃く表現されていたものの、ニュース番組においては政府寄りの報道が顕著でした。恐らく、現場ではジャーナリズムの誇りを有した人たちが、頑張って番組を制作しているのだと推察されます。そこに、この経営陣が居座ることになれば、最後の砦たる彼らの動きにも止めが刺される恐れがあります。そして、このNHKを筆頭に、その他の民放も同じ流れを辿って行くものと思われます。まさに戦前の様相を帯びてくるのではないでしょうか。それを断固阻止するためにも、自身は彼らを「即刻クビ」にすべきだと思います。

 「そんな力は私たちには無い?」。本当にそうでしょうか。先の報道で示されている通り、「NHKの2014年度予算の事業収入は6629億円で、その97%が受信料」とあります※1。もはや、この様な反ジャーナリズムの感覚を有する経営陣が整っているNHKなどに受信料を納める必要などありますまい。辞任をしないのならば、全国民を挙げて受信料の支払い拒否をすべきでしょう。そもそも、受信料を国民から徴収しておいて、その会長の任命に、国民が関われない過程があること自体が問題です。せめて、受信料を納めている国民の投票によって、経営委員や会長は選任されるべきではないでしょうか。

 特に、ニュース番組に政府寄りの偏向が顕著であること、受信料を納めても会長を選任できる権利等を含め何の権利も行使出来ないこと、NHKの番組を殆ど見ていなくても受信料が徴収されること、その他多くの理由がありますが、やはりNHKの受信料は納めるべきものではないのでしょう。




※1 「時時刻刻 経営委、進退は問わず『政治的中立、信頼揺らぐ』NHK会長の発言問題」『朝日新聞』2014年1月29日
※2 「社説 NHK経営委員 不適格なのは明らかだ」『毎日新聞』2014年02月06日



信頼を喪失した社会でこそテロやデモは起こる

2013/12/03 18:15:41  社会全般


 かつて中東で日本人がテロの被害に遭うことは考えられませんでした。2004年頃から顕在化してきたイラク日本人人質事件からアルジェリア人質拘束事件まで、これらの経緯は、中東における日本に対する信頼が失われた帰結であると言えるでしょう。その信頼を喪失した大きなきっかけは、2003年からのイラク戦争であり、アメリカのそれを支持した我が国の姿勢にありました。その後、事の発端たる大量破壊兵器が最終的には確認できなかったことを受け、現在検証を重ねているイギリスに比べ、何の反省も、その検証すら行わない日本。リスクマネジメント論から言っても、この様な集団は同じ過ちを繰り返すことになるのは目に見えています。これも民主主義のあるべき姿を捉える際の重要な“教材”となることでしょう。

 過日衆議院で可決された特定秘密保護法案に反対する市民の街頭デモに対して、与党・自民党幹事長がテロに譬えてブログで批判をした問題。その後発言の一部が撤回されたものの、以下の報道にある様にその本質は撤回されていないようです。「その後《ブログ発言謝罪後》、石破氏は記者団に『いつどこで、誰が誰から、なぜどのようにして攻撃を受けるかわからないのがテロだ』と指摘。『それ(街頭デモ)をテロと同じとみた、と受け取られる部分があれば、そこは撤回させていただく』と、デモとテロを同一視した部分を撤回した。それでも、『一般の方に大音量という有形の圧力を加えるという点で、(街頭デモは)民主主義と相いれない部分があり、(テロと)相通ずるものがある』と強弁した」(《 》内は中島)※1。当然の如く「謝罪」に匹敵する様に、テロとデモには、全く次元の異なる峻別されるべき違いがあることは言うまでもありません。しかし、そのことを前提に、フィクションやおとぎ話の世界で考えて、仮に、テロとデモに共通項があるとすればそれは一体何なのかとここでは考えてみることにしました。例えば、夜間当法人で仕事をしている折、強盗目的の侵入者に施設利用者や職員が襲われそうになる場面を見かけたら、自身は躊躇わず“武器”をもって侵入者に立ち向かうでしょう。もちろん110番等の最低限の措置は行いますが、そうしなければ大切なものを失うのであれば、自身で“武器”をもって立ち向かうしかありますまい。もし私が、テロの様は破壊的行為をするかも知れない場面を想像すれば、斯様な状況が想定されます。当然この想像上の行為は、やはりテロではなく、単なる正当防衛に過ぎない訳ですが、人々が他者に対して声高に主義主張を行う動機には、その人々なりの守るべき何かがあるからなのではないかと考えてしまう訳です。テロとデモが唯一共通することは、その行為の起点に社会に対する異議申し立てがあると言うことではないでしょうか。特に、その異議申し立てを受け入れる寛容さの無い社会において、その声と行為は益々力強く尖ったものになってしまいます。テロとデモの決定的な違いは、言わずもがな、その異議申し立ての主張の仕方にあるのでしょう。本来のデモは、その行為において他者の、特に社会的に弱い立場の人々の人権を侵害するものではありますまい。ところがテロは、他者の人権を決定的に、取り返しがつかぬ程に蹂躙してしまうのです。テロ行為自体は、いかなる理由があれども許されざる行為と言えます。

 今回の幹事長発言を受けて、有難く再認識させて頂いたことは、テロやデモが起こる原因にこそ、その社会の本質があると言うことです。人々の異議申し立ての多い社会。もちろん、異議申し立ては民主主義の礎である訳ですから、それ自体は喜ばしいことかも知れません。しかし、その申し立てが既存の手続きでは到底受理されない社会環境や構造があるからこそ、人々は行動を起こすのではないでしょうか。バリ島で起こった爆破テロを受けて、2005年に週刊誌に投稿した以下の文を引用してみます。

 「三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
 『(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。「安く遊べる!」ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の「主人公」なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ』。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?」※2。

 先の幹事長と異なり、若輩は、テロとデモを同列に扱う気は毛頭ありません。両者には、人権尊重と反人権という真逆の行為がその前提としてある訳ですから、同列に捉えて良いはずがありません。そのことを大前提としながら、その共通項を探ったとき、現下の社会に対する異議申し立てがその根底にあることは一つの事実として私たちは真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。

 原発再稼働や、特定秘密保護法に対してなぜこれ程までに人々は行動を起こし続けるのか。その人々の行動の背景にこそ私たちは目を向けるべきなのでしょう。少数派を排他・排斥する社会。少数派の意見を度外視・黙殺する社会。斯くの如き、不寛容な社会においてこそ、デモは必要不可欠な行為となり、別の次元においてテロも起こりやすくなるのではないでしょうか。そして、不寛容な社会は斯様な対立を醸成し、人々の信頼を挫くように作用する。まさに、冒頭の行は、信頼を喪失した社会がテロを発生させている事を暗に示すために用いたものでした。

 不寛容に誰かを排他・排斥することで、人々の信頼を著しく損ねる社会。この非民主主義社会においてこそ、人々は異議申し立ての行動を起こすことは今更言うまでもないでしょう。そして、その非民主主義社会において、権力が更にデモを抑制し、その抵抗すら許容しなくなれば、これらの行為そのものが未来のテロを引き起こす契機を与えていると言えなくもありません。

 昨今自身は考えています。諦めずに対話を続ける事、そこに信頼を僅かでも構築する努力が不可欠であると。斯様な、忍耐とある種妥協の連続、その煩わしく手間のかかる営みの中にこそ、私たちは民主主義を見出すことが出来るのかも知れません。問題の本質は、テロであったり、デモ自体にあるのではなく、これらを起こし得る現下の社会の在り方にこそあるのです。


※1 『朝日新聞』2013年12月2日
※2 「投書 二度も起きた爆破テロは」『週刊金曜日』2005年10月21日



市場化と連携の関係

2013/12/02 18:28:37  社会全般


 過日とある地域の公民館長と地域課題について議論をさせて頂く機会がありました。ここで紹介すべき要旨は以下の通りです。

 ―――基礎自治体の補助金をもらって、週に3日ほど住民主体で「何でも相談・支援」を行っている。ある高齢者から電話が入り、自宅の敷地から公道に飛び出して生えている植栽の剪定を頼まれた。頼まれる際、「幾らでやってもらえるのか?」と尋ねられた。これは自治体の補助金でやっていることなので、「無料でいいですよ。電動鋸の電気はそちらのコンセントから取らせてもらいますがね」と答えた。次の住民からは、自宅の電球を変えてもらいたいと依頼があった。電球の種類が多く、どの電球が適合するのか分からずに多くを買い込んでいる様子。数部屋分の電球が切れていたので、全て取り替えて家を出ようとすると、「幾ら払えば良いのか?」と尋ねられる。「無料でいいんですよ」と返答した。また、ある相談では、雨漏りがすると言われ自宅に伺うと、屋根の瓦がズレていたので早速直した。帰り際、「幾らですか」と聞かれたので、これに対しても「無料ですよ」と答えた。―――

 もう何が言いたいのか、お分かりでしょう。社会のあらゆる分野に市場原理が導入されて以来、私たちの生活の営みの多くは全て金銭で解決できるかの如き様相を帯びています。例えば、地域連帯・連携の中で営まれた冠婚葬祭ですら、その全てが金銭で対応可能な世の中になっています。コンビニエンスストアに行けば、深夜でも弁当を買うことが出来ますし、また昨今では、店舗までわざわざ足を運ばずともインターネットで商品を注文すれば配送のサービスを受けることも可能です。

 お金を払って買うものが多すぎる。若輩は思います。どんなことでもお金を払って済ませれば良い。斯様な社会の価値規範が、如上の地域住民の「幾らですか?」の精神に直結している様に思えるのです。でも、どうでしょうか。道路にはみ出した植栽の剪定や、電球の交換など、この様なことは少し昔であれば、隣近所の声掛けですぐに解決を果たしたことではないのでしょうか。地域住民同士の日々の会話や、その継続の上に培われてきた信頼関係があった時代。その関係性を礎に、斯くの如く些細な問題はお互いに声を掛け合うだけで解消されてきたのでしょう。その信頼に裏打ちされた支え合いを、お金で買おうとしているのが今の私たちの暮らしの有り様なのです。

 科学の発展と利便性を甘受した私たちは、社会の市場原理化とそれが相俟って、信頼を礎にした暮らしではなく、金銭に依拠した暮らしを無意識のうちに選択してきました。金銭を支払えば何でも買えるという幻想が、人々の連帯・連携を阻んでいると改めて認識し得るお話ではないでしょうか。市場に過度なる依存をすることが、人間同士の信頼を阻害している。自身の目にはそう映ってなりません。

 であるならば、金銭で購入すべき範囲をより限定的に捉えていくことが、人々に信頼と連携を醸成することにそれが繋がるのかも知れません。社会保障が現金給付であるよりは、現物給付の方が望ましいと若輩が考えるのもこの事と関連しています。また、社会保障に係る社会サービスを国民が自己負担(「応益負担」という名の現金)で購入することに異を唱えるのもこのためです。

 今一度、自身の暮らしを見直してみようと思います。金銭で購入すべきものの範囲と、金銭を用いるべきではないその領域を。そこに、私たちが目指すべき地域や社会の在り方があるのかも知れません。



「進歩」への近道

2013/10/30 22:44:16  社会全般

2008年8月9日某週刊誌の投書欄に投稿しましたが、掲載されなかったものです。

 新自由主義の名のもと、市場競争の中で、忙しく人類の科学技術は進歩を遂げた。数年前には想像もつかない便利なシステムや製品が世に生まれ続けている。これはひとえに、人類が競争原理のもと切磋琢磨と仕事をしてきた結果であると私は思う。

 競争原理は適度な緊張感を生み出し、人間の才能を最大限に引き出す効果がある。「勝つか負けるか」目前の一勝を勝ち取るために、多くの人は日々闘っているのである。

 人類の進歩を考えた時、科学の進歩とそれは、反比例の関係にあるように思う。科学が目まぐるしく進歩していく一方、人の心はどんどんと貧困化している。便利な生活を享受している一方で、何か大切なものを失っているようである。

 余裕がなくなるためか、競争原理社会の住人は、近視眼で非俯瞰的になりやすく、広い視野を持って長期の展望を考える視点が持てないでいる。

 今社会に最も必要なのは、長期的で、俯瞰的な視点ではないだろうか。目の前の一勝を絶えず求められる競争社会では、生まれにくい視点である。

 そのためには、競争原理における一見非効率で、無駄に思える取り組みが不可欠だと思う。目的地へ一直線と歩まずに、意図して遠回りをして目的地へと到達する。人々の心に、今まで自分では気付き得なかった新たな思いが芽生えるかもしれない。

 その遠回りこそが、実は、人類進歩の最短の近道である気がしてならない。

曖昧模糊と化す安全の定義

2013/10/16 00:55:34  社会全般


 危険が無く安心できることを「安全」と言う。子どもでも分かり得ることを敢えて冒頭で叙述したくなるほど、我が国における「安全」の定義が分からなくなってきました。

 自身の感覚がどうかしているのかと却って不安を抱いた出来事が、岐阜県可児市の小中学校のパンにクロバネキノコバエが付着していた「問題」でした。まず、自身は、なぜこの出来事が、ここまで大きな「問題」としてマスコミに取り上げられるのかが理解出来ませんでした。小中学校時の私の給食体験では、野菜に青虫がついていることは決して珍しくは無く、先生からも「虫がついていると言うことは、農薬が効いていない証拠なので『安全』な食べ物である証拠だ」と説明を受けた記憶があります。その様な経験の持ち主からすれば、なぜにこんなに大騒ぎになるのか、といった心証を抱いてしまうのでした。

 しかし、11日付の産経新聞の記事に目を留めた際、これは自身だけが疑問視しているものでは無い事に改めて気付かされ多少の安堵を感じた次第です。本紙によれば、可児市の小中学校給食「問題」において、「児童生徒や保護者から苦情はなかったが、対応を知った市議が市議会委員会で問題視した。市教委は『指導は間違いだった』と認め、早急にマニュアルを見直すとしている」ことに対する「食の安全・安心財団」理事長の唐木英明氏の問題提議のコメントを次の様に紹介しています。
「この問題は食品の安全性や廃棄の是非、世界の食料事情などを子供たちに考えさせる絶好の内容。『健康に影響がないと判断した場合は食べる』とのマニュアルも極めて妥当なもの」。
「もちろん、ハエを付着させたパンの納入業者に問題がある。しかし、この事故を業者やマニュアルの責任にして終わらせるべきだろうか」。
「食べられる食品を嫌だといって拒否することができるのは、今の豊かな日本だから許されること。それでいいのか。学校給食は教育の一環でもあり、世界の食料事情も伝え、子供たちと議論してほしい」※1。

 ヨーロッパにせよ、オセアニア、アジアにせよ、諸外国に訪れた際にハエを一匹も見なかったことはありませんでした。むしろ、我が国の生活よりもより身近にいることが多く、食事中もハエが飛んでいることは珍しくは無かったと記憶しています。そこに違和感を持って、ハエを手で払い除けてばかりいるのは私を含めた日本人だけでした。

 一方で、と私は感慨深く思います。巷に溢れる合成洗剤や無用な消毒剤・科学物質・電磁波等のことはどの様に考えるのだろうかと。これらは、如上のコバエに比較して安全と言い得るのでしょうか。前出の唐木氏の述べるようにパンに付着したコバエは「安全上、問題ない」と断言することは支持できます。しかしながら、合成洗剤・消毒剤・化学物質・電磁波等は真に「安全上、問題ない」とは断言できぬものです。安全が証明できないものは、危険と認識する「予防原則」の考えが定着していない我が国においては、致し方の無いことかも知れませんが、少なくとも安全証明は成されていないのが現状です。言わずもがな、他方「環境に影響ない」や「健康に影響ない」といった常套句が報じられてきた放射能汚染問題などはその最たるものでは無いでしょうか。「完全にブロックされている」「状況はコントロールされている」とは、まさにデマそのものであり、希望的観測であり、データーを追求すればそれが欺瞞であることは明らかでしょう。

 如上の様に「安全」について見てくれば、概ね次のような纏めを発することが出来るのではないかと思われます。自然に必然的にあるものを遠ざけてそれを「安全」と定義する傾向がある。また非自然なるものに“守られる”ことに「安全」を感じる向きもある。そこから、人々は、近視眼的で「煩わしくない」「熟慮の必要ない」ことを「安全」視する傾向がある。それに加えて、その事象が有するイメージにも大きく左右されている。このイメージは、資本主義社会の力学的必然の中から創造された偏向した情報に基づくのでしょう。イメージは飽く迄も、社会的に創造されたものであり、「黒猫は不吉である」というレベルのお話であって、理論やデーターとは大よそ関連の無い領域の産物であることは言うまでもありますまい。

 また、先進国内における安全とは、全ての人々にとってのもので無ければ成らないハズです。よって、福島第一原発の作業員の方々や、原発の周辺住民、強い電磁波の発生する建造物の周辺住民、沖縄の基地周辺の住民、全ての人々の安全を考えてのもので無ければ成らないハズです。

 斯様に欺瞞的なアンゼンが蔓延る現下の社会において、給食のコバエ事件で「安全」を指摘する報道に何ら説得力を感じないばかりか、強い違和感を覚えたのは以上の理由からでした。かてて加えて、最後にもう一言申し添えておきます。斯く如き教育現場は、子ども達のその後を、安全ではなく危険に晒すことに帰結するのではあるまいか。


※1 平沢裕子「『給食パンにハエ』除いて食べるよう指導… 食品廃棄の是非など考える好機」『産経新聞』2013年10月11日



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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