「通って、泊まれて、家にもきてくれる」「住み慣れた家で24時間365日の安心」「臨機応変な対応、自立支援、医療の安心」特定非営利活動法人 地域の絆

Googleサイト内検索
NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

ノーベル賞と多様性の関係

2013/10/14 01:12:10  社会全般
 さる10月14日、今年のノーベル賞の発表は終了しました。今年の受賞者には日本人該当者が皆無であり、それに応じて落胆の報道が成されているように見受けられます。毎年、この時期に若輩はいつも同様の疑念を抱くものです。それは、ノーベル賞とは如何なるものか?延いては、そもそも「賞」とは何なのか?という素朴な疑問から端を発するものであります。

 ノーベル賞は世界的権威のある賞として、巷でも、その注目度は世界随一であり、毎年世論もこの話で持ち切りとなります。若輩の様に大よそ「賞」とは縁遠い立場であるからこそ、感じることがあるのかも知れませんが、世界的権威として、また公の立場から発せられる「賞」に対しては、基本的にその趣旨が理解できずにいるものです。その理由を以下叙述してみたいと思います。

 例えば、当法人の就業規則においても「表彰」の規定があります。法人組織としては、そこに経営理念が描かれており、その共通理解を基に、これを実現するための方法・手段も組織の中では共有されているのが法人なり組織の一般的なあり方であると認識します。であれば、法人や組織が発する表彰なり賞は、その目的・目標を遂行するために、模範的な行動や実績に対して存在すると言えるのでしょう。法人や組織に、目指すべき・拠り所とすべき共通理念がある以上は、「表彰」や「賞」の発表はそれを実現する為の有効な手段と言えるのかも知れません。

 斯様に鑑みれば、「賞」の発表は、ある基準に照らして、その指標で測った帰結としてその優劣を選考して成されるものと言えそうです。戦時中の軍隊においては、敵を殲滅、即ちその多くを殺すことによって、賞を受賞したのと同様に、そこに何らかの基準が無ければ成り立たない代物なのでしょう。若輩は、何かを目的として集まった集団(会社・法人・学会・専門職団体・宗教等)内においては、その目的に照らした基準に拠る賞の発表は理解ができます。しかし、世界・国家といった公が発する賞にはその基準が不明瞭に思えるのです。ある目的をもって集まった集団とは異なり、多様な個性の共生する現下の社会において、ある基準に拠って、その優劣を判断することが果たして可能なのだろうかと。そもそも、社会においてその優劣を選別する基準などあるのでしょうか。例えば、ノーベル文学賞の選考にノミネートする条件としては、その著書なりがイギリス語に訳されていなければならないと聞いています(少し古い情報を基にした指摘ですので、異なっていれば訂正します)。また、昨今鳥取県の条例において、手話が言語であることが採択されましたが、恐らく、手話などはその対象にはされていないのでしょう。これだけを取り上げて顧みても、ここには言語間の優劣性や差別性を垣間見ることが出来るのです。

 今、世界の潮流は、明らかに個人の幸福を礎とした、多様性を認める社会構築へと流れていると見受けられます。その中にあって、何かの基準に基づいて発する賞は、その流れに逆行する要素を有しているのではないかと若輩は考えるのです。その賞が発せられる時、その選考の基準は、いったい何に、誰に、有利に作用しているのでしょうか。事実、その時々の権力に、公の賞は利用されてきたのではないかと勘繰りたくなる事象も散見されます。

 この度のノーベル賞報道を拝見し、賞による能力や思想の画一化よりも大切なものがある事について改めて考えさせられました。斯様な受賞の在り方よりも最も大切なことは、少数派と言われる人々の声を丁寧に掬い集め、その発表の場を設けることこそが重要であり、この多様性を構築する営みこそが、本賞の発表よりも社会により有意義な貢献をもたらすことをこの場をお借りして確信する次第です。



大同連合の秋

2013/09/14 19:16:30  社会全般

 例えば我がまち福山では、鞆の浦の埋め立て架橋の是非を巡って住民同士が対立関係に陥っています。福島の原発事故においても、「県外退避」組と「県内在留」組とで対立関係が見られると言いますし、原発立地地域内における再稼働に対する推進派と反対派の対立構造が取り沙汰されています。沖縄における基地問題も然りです。また、我らが社会福祉分野で考えると、障がいのある当事者団体同士が対立することもありますし、専門職団体同士が対立することも見受けられます。このような事例は、地域性や分野に関係なく枚挙に遑がないほど挙げることが出来ます。

 もちろん、これらは人々の生活に直結する重要な問題であるため、そこに意見の齟齬や対立が起こり得ることは自明の理だと言えます。皆自らの生活を守るために、それだけ必死に生きていることの証とも言えるでしょう。しかし、例えば、如上で挙げた対立構造を銘々取り上げて考えた際、これらは本当に対立すべくその関係に陥っているのか、といった疑念を「普通」に抱いてしまいます。なぜ、本来は利益を共有すべき人々が対立しなければならないのか。そこに大きな疑問を抱かざるを得ない訳です。

 本来は手を繋ぐべき人々が対立構造に陥る要因は素人ながら数点確認することが出来ます。一つは、市場原理下において、個人の幸福が自由競争に委ねられていること、二つ目に、同じ社会を構成する人々の利益が互いにどこかで繋がっていることが実感できないこと、すなわち、大局観を持って共通の利益を描くことが出来ないでいること、最後に、斯様な様相を構築するために、そこに社会的力動が作用しているということではないかと考えています。一つ目は、ここで深く論じるまでもありますまい。社会保障制度改革国民会議報告書でも分かるように、社会保障も今や市場原理に晒されている訳ですから、人々は、自分の生活を「自己責任」において守ることが強要されるため、他者の生活に慮っている余裕もなく、利己的にならざるを得ないというものです。実は、二つ目が重要で、その中でも、私たちには実は共通の利益があるにも拘わらず、その下に人々が連携することが出来ないことに端を発したものと言えます。誰かの哀しみは、いつかそれが自らの哀しみに繋がること、誰かの喜びはいつかそれが私たちの幸せに繋がっていることに多くの人々が実感的に気づいていないことに問題があるのではないでしょうか。そのためには常に、大局観を持って、共通の利益、即ち「人間の利益」(井手英策氏)を描いて人々が連携を図る必要があります。最後の問題ですが、それは、時に意図的に、時に無意識に社会環境から仕掛けられていることがあると言うことにも注視が必要です。冒頭の対立構造にあって、一番トクをする人々の面々を思い起こせば、これは大変わかりやすい。この辺りは、世界史的にも真なる知識人たちによって、搾取や侵略の方法として、それを「する側」が、それを「される側」を分断させる手段として対立構造を意図的に活用してきたことを考えれば、何も想像に難しくない問題かと思われます。しかしながら、たとえそうではあっても、だからと言って、そこで新たな対立構造を浮き彫りにしようとは考えないのが若輩の立場であります。これは、お互いの立場の違いを明確にしながらも、大局論で折り合いをつけながらでなければ物事は前には進まないことを経験則上学んできた若輩なりの物の捉え方でもあるのです。

 大局観や、共通の利益、即ち「人間の利益」(井手英策氏)を人々が共有するためには何が必要なのでしょうか。昨今自らの回想を通して、あることに気づかされました。それは、多様な人々に囲まれた豊かな社会環境との接点にあるのではないかと思われます。私は、幼年時代より、障がいのある子どもたちとの接点が身近にありました。また、小学校時代においては、民間の体操教室に通っていたのですが、そこでも障がいのある子どもたちとの日常的な関わりがあったのです。共に跳び箱を飛んだり、跳び箱の飛ぶ順番を伝えたり、先に飛んで後から飛んでもらったり…。そして、そこで彼ら友人のご両親が、その友人の将来を憂いで、貯金をするためにバザーを催したり、内職をされたりしている姿も目の当たりにしました。私にとってそれはごく自然なことでした。ですので、中学校に進学した際、障がいのある友人に対して攻撃的な友人がいれば、そこに強い憤りを感じましたし、そのことで喧々諤々も喧嘩もしたものです。

 ところが、今の時代はどうでしょうか。教育場面においても、社会全般においても、例えば、障がいのある方の生活がどれほど多くの方に、日常的に触れ合う機会があるのでしょうか。また、福島における原発事故という人災に遭われた人々の生活や、沖縄の基地周辺にお住いの人々の生活などにも触れる機会が如何ほどあるのでしょうか。多様性を認める社会を構築し、理念を共有するためには、まずは社会や地域において、多様な人々が暮らしていることを認識する必要があると自身は考えます。その認識なくして、私たちは多様な人々と手を繋ぐことは出来ないのでしょう。多様性を認める社会を阻害する差別や偏見といった対立構造は、多様な関わりのないところで生まれているのではないでしょうか。問題の捉え方は、その体験によって創造される。問題の捉え方が、その人の言動を規定する。そのように考えれば、多様な人々との接点を有する体験が、人々が共通の利益を共有し、その実現のために手と手を取り合う実践にそれが繋がるのではないかと淡い期待を抱いているものです。

 ですので、当法人の運営する地域交流事業において、クライエントの姿を見て頂き、その生活に触れて頂くことを重要視しているのはこのためです。また、その生活を側面から支えている私たち専門職の仕事にも触れて頂くことを大切にしているのです。

 対立構造からは何も生まれない。昔は違いましたが、今はそう思っています。でも、私たちソーシャルワーカーは、クライエントや少数派の立場を支持します。それでも、対立構造に陥ってはいけないと。では、何をすればよいのか。それは、少数派たる私たちの存在と社会に示していくことにあるのではないかと考えます。ここに我々がいる事を、決して隠すことなく、その存在をしっかりと社会に示していく、同じ利益を有する社会の構成員として我々があることを。その存在までを否定する権利は誰にもないのですから。

 今のような時代だからこそ、私たちは手を取り合う必要があります。その手を取り合うために、私たちは、共通する利益を互いに探し求める必要があります。もちろん、避けられない対立もあることでしょう。しかし、私たちはその過程を重要視しながらも、共通の利益を導き出す作業を惜しむべきではありません。そのような、小さな実践の積み重ねこそが、社会を変革する確たる一歩となることを信じるものです。



失言と本音の関係

2013/08/02 20:17:10  社会全般
 
 閣僚をはじめとした政治家諸氏の「失言」は今に始まったことではありません。かつては、首相の「単一民族」発言に始まり、女性を「子どもを産む機械」と「失言」した大臣もいらっしゃいました。昨今では、大阪府知事による「慰安婦」発言や、先の副総理による「ナチス」発言が取り沙汰されています。そして、これらの「失言」は世論の批判を受け、多くが本人にとって渋々撤回や謝罪という形で処理されていきます。

 さて、ここで素朴な疑問が浮かばれます。そもそも、「失言」とは何か?という日本語の捉え方に発展する疑問です。一般的に「失言」とは、言うべきではないことを、うっかり発してしまうことやその言葉であるとされています。「言うべきではない」とは、ある人前で、ある場所などの周囲の状況に応じてそうするべきではないと言っているのであって、「本心」や「本音」とはおよそ関係のないものであることが理解されます。つまり、「失言」の撤回は、必ずしも「本音」の撤回にはなり得ず、そして、その場合の「謝罪」は欺瞞的なものに過ぎないと言えます。「本心」や「本音」は結局のところその本人にしか認識できぬものなのですが、その「失言」の多くが渋々撤回されている事実を鑑みた時、周囲の状況と乖離した形で、本心や本音が思わず露わになったのが失言であると言えなくもありません。

 周囲の状況に慮ることなく、そこから乖離した発言を安易にしてしまうことには、恐らく驕りであったり、慢心があるのかも知れませんが、大事なのはそれが本心であり本音であるのかその如何によるのでしょう。自身の事を俎上に載せて顧みても、失言の多くは「言うべきではない」場面において本音を漏らしてしまったことに端を発しているようです。また、如上の「失言」者のその後の対応を見る限りにおいても、それらが限りなく本心・本音に近いものであることを窺い知ることが出来ます。

 斯様に失言とは、往々にして、普段からの考えや思い、更には本心や本音を表しているものであり、それが支援者に囲まれる等の話しやすい環境と相まって思わず露呈するものなのでしょう。その意において、失言こそが、その人の本質を突いているとも言えます。自戒の念を込めて、正にその本質が問われていることをここで確認しておきたいと思います。

定向進化の果てに

2013/07/22 12:01:12  社会全般
 第23回参議院選挙の投開票から一夜が明けました。全く予想通りの結果を確認するや、昨夜は、いつもの様に通常業務を粛々と熟しておりました。

 素人にも予測が可能なこの結果。理由は、大きく3つありました。2点は言わずもがな、分かり切っていることですのであまり叙述の必要はありますまい。多くの死票を創出する小選挙区制度によるものと、前回を更に下回る約53%(朝日新聞社によれば52.61%)という低い投票率によるものです。この2点を鑑みれば、この度の結果も真なる民意を反映したものではないことは明白でしょう。しかし、ここで憚りながらも、認識せざるを得ないもう1つの要素に触れない訳にはいかなくなりました。それは、選挙制度や投票率の低さとも間接的に関連する国民の民度の低さにあります。

 経済優先・憲法改正・TPP交渉本格化・原発再稼働これらのことを国民が容認したことを本結果は示しているわけです。その陰で、我々は社会保障の減退をも受け入れたことを忘れてはなりません。そして、その利が国外に逃れていく可能性をも甘受したのではないでしょうか。現下の社会は、一部の人々の被害を強いる社会であると若輩は認識します。ここで「犠牲」と敢えて表現しないのは、被害者の視点に立てば自ら進んで被害に応じている例はほぼ皆無であると考えるからです。よって、「犠牲」などという曖昧な表現は用いない方がよろしい。福島県民はもとより、未だ福島第一原発の最前線で復旧作業を行っている作業員の方々、沖縄県民、また地域性を度外視すれば、児童や障がい者そして、私たちの支援の対象者たる高齢者その他多くの少数派の被害の上にこの社会が成り立っていることは明白な事実であります。そして、その一部の被害は、あらゆる格差を生み出し、本来は手を繋ぐべき人々の信頼関係を挫き、憎悪感を生み出し、そして対立関係を乗じさせることでしょう。本来であれば利害を一致するべき人々が分断をして一体誰が利を得るのか。このようなことすら分からぬ民族に陥っていることが残念でなりません。

 消費増税や、インフレターゲットと相まって、社会保障費が減退すれば経済的格差は更に拡大することになります。経済的格差が、経済以外の多くの種別格差に帰結することは自明の理です。健康や社会的関係の質(情緒性・暴力性・信用の水準等)における格差にもそれが発展するのです。社会的包摂ではなく、社会的排除の傾向は今後ますます強化されていくことでしょう。

 如上の様な大局観を描きながら、各地域で地道な取り組みをしていかなければならないのが、私たちソーシャルワーカーの今現在の在り方となってしまいました。なぜに、大局観を抱く必要があるのか。それは、如上の政策の免罪符に私たちの尊い実践が活用されることが無いようにご留意頂きたいからであります。彼らの免罪符のために、私たちの実践があるのではありません。クライエントのためにその実践があることを常に思い抱きながら、本質あるソーシャルワーク実践を重ねて頂きたいと願っております。

 言いたくはありませんが、今この言葉が何度も脳裏を掠めます。「その国の国民は、自らの民度以上の政府を有することはできない」。



ジャーナリストとソーシャルワーカーの捉える事実

2013/07/11 01:40:55  社会全般
ジャーナリストとソーシャルワーカーの捉える事実は酷似している!?
 出張先で手にした7月6日付の新聞の同一面に気になる2つの記事が併記されていました。一つは、報道番組の中で、その内容の「公平さを欠いた」として与党が抗議し一時的に取材拒否に踏み切ったという要旨でした※1。もう一つの記事は、フィギュアスケート選手の出産についてその賛否をアンケートで募集した週刊誌が、多数の抗議によってアンケートの中止に追い込まれたというもの※2。

 報道に対する抗議といった点では同様の記事として捉えることができますが、本質が全く異なり過ぎてオモシロク拝読させて頂きました。

 「中立」「公正」「不偏不党」を各報道機関は掲げている様ですが、そもそも、その様なものはこの世に存在しないのではないでしょうか。100人いれば100通りの捉え方があり、その結果としての事実がある以上、客観的事実は存在しないことになります。では、ジャーナリズムの要諦は何かと考えれば、多様な事実のバランスを取ることにあるのではないでしょうか。権力側及び多数派は、その主観を普遍化、「客観」化する力を有しています。その情報をもとに、「普通」や「常識」が構築されていると言ってよいのではないでしょうか。3.11までの「常識」では「原発は安全」であったわけですから、これは最も分かりやすい事例ですね。であれば、ジャーナリストの使命は、非権力及び少数派の情報を強調して伝えることで、全体のバランスを取るということに尽きるのではないかと考えるのです。資本主義社会の力学的必然の中で、かき消された声をしっかりと拾い集め、それを世に伝えることこそがジャーナリストの仕事であると自身は信じて憚りません。その意において、日本に本物のジャーナリストはいない。自身はそう思っています。

 ジャーナリズムをこのように捉えると、如上の二つの記事の本質的差異がはっきりと見て取れます。ジャーナリストは、権力を有する側にこそそのチェック機能を働かせるべきであり、権力を持ち得ない民衆のチェックなどはその本質では無いということです。民主主義社会において、権力を有するということはそれと同時に義務を負うということを意味するはずです。よって、基本的人権は全ての人々に等しくあるものの、その人権は権力の側に薄く、民衆の側に厚くあるべきであることは自明の理であると思っています。

 従って、政権与党に厳しいチェック機能を働かすこの度の報道は、ジャーナリズムの観点からは妥当なものであり、謝罪などすれば却ってその本質を脅やかすこととなるでしょう。一方、何ら権力を有することもないフィギュアスケート選手のゴシップ記事などは、ジャーナリズムの本質から大きく逸脱した読むに値しないものであると認識する次第です。同じ報道批判であっても、両者の批判の性質は決定的に異なっていると言えます。

 さて、例えば、毎日新聞社の毎日憲章では「社会正義」が謳われています。そして、ソーシャルワークの定義の中にも、「社会正義」や「平等」が描かれています。実は、私はジャーナリズムとソーシャルワークの視点は非常に近い関係にあると見ています。ソーシャルワークの第一義は、クライエントの視点で、社会を捉えることであり、そして、クライエントの視点で、社会構造の課題を浮き彫りにし、社会を変革することがその仕事であると考えます。社会が多数派の理論で構造化されているのであれば、少数派たるクライエントの側から社会と対峙し、社会に変革を迫るのがその仕事であると信じる者です。その意において、日本に本物のソーシャルワーカーはいない。まさしくこの点も酷似しているのではないでしょうか。

 事実は一つではありません。しかし、ジャーナリストとソーシャルワーカーが扱う事実は、少数派やクライエントの側から捉えたものでなければ、その本質を喪失してしまうことは重要な事実であります。


※1「Media Times 自民、TBS取材を拒否 『指摘受け止める』文書で解除」『朝日新聞』2013年7月6日
「自民党がTBSによる幹部取材を拒否した問題で、TBSは5日夜、報道局長名で自民党に対して、『指摘を受けたことを重く受け止める』との文書を提出した。安倍晋三首相(自民党総裁)はその後、BSフジの番組で『この問題は決着した』と語った。自民党は『謝罪と受け止める』として、取材拒否の解除を発表した。ただ、選挙期間中に取材に応じないという異例の事態は波紋を広げた。(中略)しかし、番組ではキャスターが国会空転の責任は野党も含めた全ての党にあるとのコメントをしていることなどから、TBSは『番組全体として見ればバランスを欠いていない』と説明。自民党が求めるおわびや訂正はできない、との姿勢を示してきた。 事態の打開を図るため、5日の自民党との話し合いに添えた文書も『重く受け止めます』という表現にした。あくまでも謝罪はしないとの立場を維持しつつ、取材拒否の解除で同意したはずだった。それだけに、安倍首相が同夜の番組で『TBSから謝罪してもらった』と発言したことは同局にとっては寝耳に水。政治部長名で『放送内容について訂正・謝罪はしておりません』とのコメントを発表した」。
※2 『朝日新聞』2013年7月6日
「『週刊文春』編集部は5日、フィギュアスケートの安藤美姫選手の出産について賛否を尋ねる内容のアンケートを中止すると、新谷学編集長名で発表した。同誌のホームページによると、『緊急アンケート 安藤美姫選手の出産を支持しますか?』として、同誌のメルマガ読者を対象に実施。『出産を支持しますか?』『子育てしながら五輪を目指すことに賛成ですか?』という設問に多数の抗議が寄せられたという。 『出産そのものを否定したり、働きながら子育てをすることを批判しているような印象をあたえてしまいました』などとして、アンケートを中止した」。


中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
カテゴリ
<<2026年10月
MonTueWebThuFriSatSun
1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031
最新エントリ
最新コメント
ブログリスト
当サイトで使用されている全ての画像および文章を無断で複製・転載・販売することを堅く禁じます。
すべての内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。
Copyright 特定非営利活動法人 地域の絆 All Rights Reserved.

▲