テレビを見て過ごすことは、人生における時間の無駄遣いであると基本的には思っています。しかし、ある特定の番組などからは学べるものもあり、時折その番組を狙って視聴することがあります。NHKの番組は、ニュース等はジャーナリズムの視点が希薄化されたものが多いと感じていますが、ドキュメンタリー等ではまさにジャーナリズムの視点で描かれているものが多くありその違いに戸惑うことが多い昨今です。そんな折、先ほどNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を拝見しました。スポーツのことはよく分かりませんが、予てから、理論的思考レベルの高さを感じていた本田圭佑選手の特集でした。
番組の中で、彼は「自分を信じる」を何度も連呼していました。ピンチの時こそ、自分を信じてやるしかないと。実は、若輩が今この仕事で踏ん張れるのは、まさに全く同じ精神からでした。19歳の頃より、「普通」や「常識」ではない考えに基づいて行動してきましたので、周囲からはいつも冷ややかな視線を感じていました。時には、親からにさえも「お前は、偏っている」と有難い指導を受けたものです。しかし、私はそれでも自身の考えを改めませんでした。なぜか。一度しかない人生だからです。人生において後悔しない為にも、自身が正しいと思う道をひたすら歩みたいと思ってのことでした。
周囲の理解や支援が得られなくとも、自身の信じる道を行く。これこそが、自身の生命線であることを先ほど改めて確認することができました。ある時から私は、誰かから信じてもらえなくても良いと思うようになりました。いや、そう思い込むようにしたのかも知れません。誰からも信じてもらえなくとも、自分が自分のことを信じてやればそれでいい。そう思い続けてきました。
周囲や他者の思いに慮るあまり、自身の信念が貫けない苦痛を乗越える為には、周囲からの期待を諦めるしかなかったのかも知れません。つまり、自分を信じる力とは、孤独を受け入れる力でもあるのです。思い返せば、周囲の他者に比べて、孤独に対する恐れが希薄化している自身がいることに気づかされます。それは、孤独を恐れていては、自身を信じることができないからかも知れません。
本田氏は言います。「全ては自分が選ぶ道なので、責任をもって進んでいく」と。本田氏は、自身を信じる力を有することと併せて、「自分が一番好き」と述べるように自尊の精神を強く抱いている様子でした。それもそのはず、窮地に追いやられた際にいつも感じているのは「周囲のせいにしない」「自分の情熱が足りない」ことだそうです。つまり、自らの自己実現のために、自身に対する厳しさも有しているからこそ、自身に誇りを抱けるのではないでしょうか。
自分を信じるとは、単に自分を甘やかすことではありません。自身の自己実現を信じる事であり、その実践の結果に責任を負うこと、それを成し遂げる為に孤独と闘うことであると自身は考えるに至りました。
中途より拝見した30分足らずの時間で如上の確認が取れたこと、テレビも然程時間の無駄遣いでもないな、と思えた瞬間でした。
※1 「特別編 信じる力 500日の記録 サッカー日本代表・本田圭佑」『プロフェッショナル 仕事の流儀』NHK 2013年7月1日 22:00〜22:48
予てから、プランドハプンスタンス(計画された偶発性)理論に興味があり、昨今漸くその関連書籍を読むことが叶いました。本理論の要点を列挙した箇所を引用すれば以下の事が描かれています。
「※将来何になるか、決める必要はない。
その時々で目標はつくってもよいが、目標はあなたの成長や学習、環境の変化に伴って常に変化する可能性があるものです。常に目と心をオープンにしておきましょう。
※想定外の出来事があなたのキャリアに影響を及ぼすことは避けられない。
想定外の出来事が起こったときにはいつでもそれを利用できるように常に注意を怠らないでいましょう。
※現実は、あなたが考える以上の選択肢を提供しているかもしれない。
夢を追求するときは、夢を見つつ、しっかり目を開けておくということを忘れないでください。
※色々な活動に参加して、好きなこと・嫌いなことを発見する。
どんな活動にも積極的に取り組んで、ベストを尽くしましょう。
※間違いを犯し、失敗を経験しよう。
間違いや失敗は重要な学びの経験となり、それが予想以上によい結果に結びつくこともあります。
※想定外の幸運な出来事をつくりだそう。
人の手伝いをしたり、組織に所属したり、講座を受講したり、友達や見知らぬ人と話をしてみたり、ネットサーフィンをしてみたり、本や雑誌を読んだり・・・・つまりは、積極的に人生を送ることで、想定外の幸運な出来事をつくりだすことができます。
※どんな経験も学びへの道。
新しい仕事は常に新たな学びの経験です。その仕事に就く前に、仕事のやり方を知っている必要はあり ません。
※仕事以外でも満足感を得られる活動に携わる。
雇用されていなくても、そのような活動を通じて、従来とは異なる方法で、他者に貢献することができます。人生の後半では、それはむしろ老後への健全なアプローチです。
※内面的な障害を克服するために、新しい考えや経験にオープンであり続ける。
人生を豊かで満足感のあるものにする考え方や行動を取り入れましょう。ブッカ―・T・ワシントンの言葉を借りれば、『成功とは、たどり着いた地位よりも、むしろ成功を目指して克服してきた困難で測るべきだ』」※1。
やるべきことを決めない。オープンマインドであること。好奇心を有して、積極的に学び・挑戦すること。これらの大切さが強く謳われているようです。因みに、あるべき目標を目指して実践を重ねて行くキャリアアンカー理論と、人材マネジメントの分野においては対比されることのある理論だとか。いずれにせよ、キャリアアンカー理論もプランドハプンスタンス理論もキャリア形成における成功を目指した理論であると言えるでしょう。そしてそのキャリアゴールを当初から定めておく方法と、そうではない方法の違いがここでは見ることができます。
そこで素朴な疑問が湧いてきました。そもそも「成功」とは何を指すのかと。有り体に言えば、物事を目的どおりに成し遂げること、またそのことを通して、社会的地位や名声などを得ることとされています。要するに、自らが定めた目的を達成することがその要諦であると言えそうです。であれば、仕事上の業務目標の達成も成功と言えますし、目標の学校に入学することも成功と言えるのかも知れません。しかし、人生における成功において、最も重要な視点は、後悔のない人生を送ることにあると自身は考えています。それこそが人生の目的であると。後悔のない人生とは、自身の信念を貫いたとまで行かずとも、少なくとも大切にして生きてきたというものではないでしょうか。自身の信念に基づいて、如何に多くの重要な決断を行ってきたのかが問われているように思えます。
実は、プランドハプンスタンス理論に触れながら、物足りなさを感じた理由はここにありました。それは、自身の信念なくして成功と言う結果を得ることが果たして出来るのかと言う問題意識にあります。信念を貫くことは、これを真なる夢と置き換えて考えることもできるのではないでしょうか。同じく昨今手にした本から以下の件を引用しておきます。「ときどき手段と夢を間違えている人がいます。手段と夢というものは、間違えてはいけません。自分が今持っている夢というものが、手段なのか本当の夢なのかを判定する簡単は方法があります。それはその夢をかなえるためのプランBがあるかどうかです。プランがひとつだけで、プランBがない夢は、きっと手段です。夢を達成するにはいろんな方法があるんです。プランBが持てない、他の手段を考えつかない夢というのは、手段のうちのひとつにすぎません」※2。つまり、「手段」ではない真なる夢とは、最も遠くにある人生の目的そのものであり、その目的に到達すべき経路は数多あるということなのでしょう。そして、人生の目的を設定することに欠かせないのが信念であると自身は考えています。人生の目的とは、信念を貫いた結果であり、それこそが真なる夢であると。
引用させて頂いた植松努氏は、飛行機やロケットが大好きでその開発をされているようですが、その真の目的は、「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくすこと」※3なのだそうです。であれば、植松氏の真なる夢はロケット開発ではなく、その様な社会を構築することこそがその信念であり真なる夢であると言えるでしょう。例えば、売れる本を書きたい小説家の真なる夢は、本をたくさん売ることではなく、その本を読んでくれた多くの人々に伝えたい何かがあるからではないでしょうか。また、企業家の真なる夢は、起業することや会社を大きくすることではなく、その実践を通して社会に貢献したい何かがあるからなのでしょう。金儲けだけを真なる目的として、活動しているのではなく、芸術を通じて伝えたい何かがあるからこそアーティストは活動を重ねているのではないでしょうか。もちろん、そうではない事例が数多あることは周知の事実です。数多あるばかりか、多くは「手段」と「夢」を本末転倒の如く取り違えた実践が主流であり、如上の信念及び真なる夢に基づいた実践の方が遥かに例外的存在であることも理解している所です。
しかし、人生における成功とはそんなものでは無いはずです。
私たちは「手段」と「夢」をはき違えてはいけません。信念たる夢をもって、それこそを中心に据えて実践を重ねる必要があります。以前NHKのある番組で、科学者たちが、科学者は科学技術の革新を行うことこそがその使命であり、その発展された技術をどのように活用するのかは社会に委ねるべきだと語っていたことがあります。自身は、その無責任さと、信念の無さに驚愕しながらその話を聞いていました。原子力技術は将来社会にどのような影響を与えるのか。その未来構想を描きながら開発されたのでしょうか。遺伝子組み換え作物技術やクローン技術なども、それが社会にどのような影響を与えて行くのかまで、知識人としての信念を持って開発が進められたのかは甚だ疑問に思うところです。
世界初の科学技術の開発をすればそれが人生における成功なのでしょうか。私にはそうは思えません。自身の正しいと信じる道を探りながら、それを信じて進む人生を送っているのか如何にそれはよるのではないでしょうか。確たる信念を有して、それを抱き生きることこそが、人生における唯一成功への第一歩である気がしてなりません。
しかし、と自身は考えます。また、植松氏の著書を拝読してその思いは確信に変わっても行きました。私の経験則で言えば、自身の信念や目的を持つこと。それは、日々の生活の中で、自身が感じたこと考えたことに耳を傾けることから始まると考えています。そのためには、周囲の「常識」や「普通」を黙殺し、自身と向き合うことからその断片を知ることが出来るのではないでしょうか。そして、自身の思いや考えを持って、日々の生活及び社会情勢を捉えたとき、自身を含めた社会の課題を認識することができる。それが、問題意識となり、それが信念を構成していくように思われます。
しかしながら、現在の教育は、自身の考えや気づきを大切にしない、言わば記憶をインプットしアウトプットすることに焦点化した詰込み型の代物となっています。真なる教育とは、自身の思いや考えを形成した上で、自身を含めた全ての他者の幸福のために考え行動できる人材を育てることにあると自身は考えます。多少の犠牲はやむを得ないのではなく、多少の犠牲も許さない。あらゆるすべての人々の幸福をめざし、粘り強く諦めずに知恵を絞ることが学問であり、それを伝えることが教育ではないかと思うのです。しかし、現下における我が国の教育制度は、単に記憶を正確にインプット・アウトプットする能力だけをその評価の指標に据えて、「エリート」と「落ちこぼれ」を選別していると言えます。人の能力を測る物差しは、数え切れない程あるにもかかわらず、如上の指標のみで子どもたちの能力を測り、そこで成績優秀な子どもたちが一流大学に入学し、一流企業に就職していく。しかし、彼らは、記憶のインプットとアウトプットにおいてのみその能力が証明されているに過ぎず、その他の能力例えば、討論力や独創性・創造性が必ずしも高いとは言えないのが現状ではないでしょうか。私の経験則では、エリートと言われる人たちの特徴として、特に独創性や創造性が希薄化していると実感しております。恐らく、適切な選択肢を選ぶ“選球眼”を鍛える勉強方法では、例えば、自らが新たな選択肢を創造することをそれが阻害しているのではないかと自身は考えております。となりますと、人生の成功において最も重要であると思われる信念の形成は、エリート諸氏にこそ難しい状況にあると言えるのではないでしょうか。その意において、人々が人生において成功する最も大きな障壁は我が国の教育制度にあるとも言えます。
植松氏の体験談はまさにそのことを物語っています。「この本(紙飛行機集)には、紙飛行機は本物の飛行機と同じ理論で飛んでいるから、紙飛行機の設計ができるようになったら本物の飛行機の設計ができると書いてありました。僕はもうそれに夢中になってしまいました。たくさんの計算式が出ていました。それはとても小学校三年生の筆算で解けるものではありませんでした。でも、家には電卓があったので、電卓を使いこなしたら計算できるようになりました。いつの間にか僕は、図鑑を開いてこの飛行機を飛ばしたいと思ったら、それを形にして飛ばすことができるようになっていました。でも、そのかわり筆算の能力は完全に失ってしまいました。だから、小学校の算数のテストはほぼ0点になってしまいます。でも、クラスの友だちは『紙飛行機のことだったら植松に聞け』と言ってくれました。(中略)ずっとやっていたら、やっぱり中学校でも成績が悪くなり、そして先生からも『おまえはこんなことやっているからダメなんだ』と言われてしまいます。でも、最終的にこれが僕に飛行機やロケットをつくる能力を与えてくれました。無駄なことでは全然ありませんでした(括弧内は中島)」※4。さて、飛行機の設計の計算能力を有する小学校三年生が、学校の算数テストでは0点しか取れない事実をどのように考えれば宜しいか。そして、その社会に役立つであろう真なる勉強をすればするほど、中学校における成績が落ちるという現実を私たちはどう捉えるべきでしょうか。つまり、現在を含めて文部科学省の教育システムは、真なる能力を伸ばすものでは無く、むしろそれを、潰すことにこそその“効能”があるようです。
オープンマインドであらゆることに挑戦することは大切なことです。しかし、そのことと同時に、自身の信念やこだわりといった拠り所も構築しておく必要性を感じます。100人いれば100通りの普通があるように、市井には多様な人々が共生しています。そこで、自身の信念を貫くことのいかに難しいことでしょうか。恐らくは、そこでは妥協点を見出しながらも如何に信念を貫けるのかといった戦略的対応が求められることでしょう。予てから私は、グレーの実践を提唱してきました。敢えて白黒をはっきりさせずに、大局観をもって物事を進めていくことの重要性を考えてのことです。しかし、その際も自身の信念のもとが白なのか黒であるのかをはっきりとさせた上で、グレーの実践に埋没することを説いています。つまり、自身の信念が白であれば、限りなく黒に近いグレーの実践には与することが出来ないということになります。それでも黒に近いグレーの実践に加担するとすれば、それは大局観を持った柔軟性ある実践を通り越して、人生における信念の変節に該当することになります。つまり、人生における成功ではなく、敗北を意味することになるでしょう。その意において、信念とは、多様な人々の集合体としての社会の中にあって、自身の言動の拠り所となる大きな指標ともなり得ます。その指標があればこそ、却って、世の中を上手く立ち回ることが出来る処世術としても有効なものになることでしょう。
若輩は思い考えます。信念なくして人生に成功はない。そして、その信念を構築する阻害要因が、教育制度をはじめとして我が国には数多あり過ぎることを。しかし、その様な状況下であるからこそ、今一度、「普通」や「常識」を度外視した自由な視点で、自身の思いや考えと向き合う営みが最も重要であることを。
※1 J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳 『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社P.221-222 2012年9月
※2 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.177 2013年1月
※3 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14 2013年1月
※4 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14P.73-75 2013年1月
旧日本軍の『慰安婦』制度にかかる橋下徹氏(日本維新の会共同代表・大阪市長)の一連の発言問題。当初の発言に対して橋本氏は、「戦場の性の問題は、旧日本軍だけが抱えた問題ではありません。『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報されてしまいました」と、あれはメディアの「誤報」であったと断じました※1。同じく『沖縄タイムス』の社説では以下の行が見受けられます。
「橋下発言の引き金になったのは歴史認識をめぐる安倍晋三首相の一連の発言である。
安倍首相はこの際、旧日本軍の関与と強制性を認めた1993年の『河野談話』に対する考えをあらためて国民に明らかにすべきである。
橋下氏が共同代表を務める日本維新の会の国会議員らからは元『慰安婦』に対する暴言がやまない。
来日中の韓国人の元『慰安婦』2人が橋下氏との面談を政治利用されることを懸念して取りやめた。中山成彬代議士会長はツイッターで『化けの皮が剥がれるところだったのに残念』と書き込んだ。
平沼赳夫代表代行は講演で『従軍慰安婦と言われている人たちは「戦地売春婦」だ』と述べた。
西村真悟衆院議員(除名処分)は『日本には韓国人の売春婦がうようよいる』と発言した。
共同代表の石原慎太郎氏は『橋下氏は間違ったことは言っていない』といち早く擁護に回った。
聞くに堪えないような言葉が党幹部の口から次々に飛び出す。人権感覚、国際感覚が欠けていると言わざるを得ない」※1。
皆さんは、如上の政治家諸氏の発言について、どう思われるでしょうか。これらは、単なる誤報・失言がその要因としてあるとは私には思えません。一体何が本質的な問題なのか。意見は様々あることでしょう。彼らの特徴としては、常にその信条に愛国心を掲げていることがその共通項としてあるようです。しかし、私にも愛国心や愛民族心がありますが、このような発言は容認しがたい訳です。では、一体どこに本質的問題が潜んでいるのか。
要するに「愛」の捉え方そのものに誤認があるのではないでしょうか。「愛する」とは、辞書などによれば「かけがえのないものとしてそれを心から大切にする」とあります。例えば、皆さんの会社に「愛社」精神旺盛な社員の方々がいて、その人たちがライバル企業に対してその人権を蹂躙するに相応しいほどの言論攻撃を公衆の面前で仕掛けたとしたらどう思われるでしょうか。それは、本当に会社を「愛する」言動なのか、疑わしく思うことでしょう。結果論から言えば、それはむしろ逆ではないでしょうか。つまり、会社の恥を世間に晒していることになる。
よって、「愛社」精神を対外に主張するには、自社の利益だけに先鋭化した言動ではなく、多くの他社の利益にも慮った言動を発することこそが最も有効であると言えます。つまり、我が物顔で仕事をするのではなく、社会全体の利益、即ち真の公益を念頭に置きながら行動できる社員こそが真の愛社精神を有していると言えるのでしょう。
「愛する」その言動が、独りよがりなものであればあるほど、それは、本来の意味とは逆に機能することになり、他者への尊敬の念を持つことによってこそ、本来の意味たる実践が出来るようになるということなのでしょう。
これら一連の無恥なる発言を契機に、「愛する」ことについて、少し照れくささはあるものの、考えてみるこれは丁度良い機会になるのではないでしょうか。
※1 「社説[橋下氏会見]『不快感』だけが残った」『沖縄タイムス』2013年5月28日
今から表記する内容は、大時代だと世間からは失笑を買うものかも知れません。しかし、私が屍になり、そしてその更に後世においては理解される話であってもらいたいとの淡い期待をもって叙述しておきたいと思います。
まず本日の朝日新聞の紙面から以下の部分を引用しておきます。「政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大総長)は22日、海外で働ける『グローバル人材』の育成を目指した第3次提言をまとめた。小学校での英語教育の強化▽外国語教育を充実させた指定高校づくり▽大学での外国人教員の積極採用――など。月内に安倍晋三首相に手渡す。(中略)小学校では、英語を正式な『教科』にしたり、現在は5〜6年生の実施学年を前倒ししたりする拡充策を提案。下村博文文部科学相は会議後、授業時数や教員の確保策、学習指導要領の改訂などについて中央教育審議会や省内で検討を始める考えを示した」※1。
なるほど。小学校4年生からのイギリス語教育を本格始動させようと言うのですね。若輩は、大きく次の3点においてその導入に真っ向から反駁しておきたいと思います。
まず一点目は、「グローバル人材」の本質とは何かを問うべきではないでしょうか。そもそもグローバル【global】とは直訳すれば、「世界規模である様・包括的な様」のことを言うのでしょう。その際の「世界規模」とは本来であれば、言わずもがなまさしく全世界・世界中のことを指すことは小学生にも理解できることではないでしょうか。ではなぜ、イギリス語=世界と言う考えに発展するのか理解に苦しみます。世界と言えば、我が国の所属するアジア地域をはじめ、アフリカやラテンアメリカもその世界の中に含まれるはずです。また、以前からの文部科学省の方針によれば、イギリス語教育は国際理解に繋がると言われて来ましたが、それも同様に反駁されるべきことでしょう。なぜ、イギリス語を理解すれば国際理解をすることにそれが繋がるのでしょうか。中国語や韓国語を学ぶことは国際理解に繋がらないのでしょうか。
二点目は、愛民族心・愛国心に繋がる重要な問題にあります。言語は文化であることは言われ続けている事です。いみじくも、若輩も現在仕事上の目的を有してイギリス語会話を毎日の様に聞いていますが、会話の内容そのものに西洋文化が鏤められています。日本語に訳しても、日本人であればまずもってこんな物の言い方はしない受け応えの場面が散見するのです。この今こそ、日本文化に触れ学ぶべきライフサイクル期において、西洋文化とその言語を学ぶ小学生が増えることによって、日本語とその文化はきっと近いうちに崩壊の憂き目にあうと断言できます。その様にして、我が国のアイヌ語を含めた世界中の言語は喪失されていったのですから。
三点目では、世界中における言語と文化の画一化が急速に進んでいることに対する警鐘の意を表しておきます。画一化とは、主流の言語と文化が、非主流のそれを駆逐することによって進められていることを意図しますから、これは、非主流言語と文化の排他・排斥状況を意味します。言語学を学んだわけではない素人の発言ですので、ここでは次の2点を引用しておきたいと思います。
「現在、英語の国際的地位により、日本語は英語と対等な地位になく、日米コミュニケーションは『英語支配』です。言語の不平等は、両国の不平等な関係につながっており、『対等なパートナーシップ』の障害になっています。『英語支配』では日本の考えは十分に伝わりませんし、母語を使う『言語権』も奪われています。また、日本国民が熱心に英語を学んでいるのとは対照的に、アメリカ政府・国民は英語の上にあぐらをかいて、『日本語が障壁だ』とさえいうほど傲慢です。これでは、相互理解は不可能です」※2。
如上にあるアメリカと我が国の関係。これは明白な差別関係であると若輩は認識します。また、これは「言語権」という我が国の権利侵害であるとのご指摘ではないでしょうか。わが国の政府は、自ら喜んでこの「言語権」を放棄しようと言うのでしょうか。
「R. フィリプソンは、『言語帝国主義、あるいは言語一極集中状況』という書物の中で、英語国を『中心国』と『周辺国』の二つのグループに分けて論じている。いうまでもないことだが、英米両国は前者に属する。アジア・アフリカ(そして日本も)後者だ。中心と周縁の関係は、フィリプソンのことばを使うと『非相称的、非対称的』である。つまり、両者の関係は、支配と被支配の関係で、相互性はない。それは資源・情報・(科学)技術など、現代社会のシステム(あるいは世界秩序)を維持していく基本的構成要素が中心国によって支配あるいは独占されていくことを意味する」※3。
言語帝国主義という言語間における如上の差別構造を等閑に付して、無関心のまま十代の頃より私はイギリス語を学ぶ気になれませんでした。今ようやくこの歳になり、西洋圏で仕事をする可能性が生じてきた為必要に迫られて初めてイギリス語を学んでいるのです。しかし、この歳からでも十分にイギリス語を一定程度は学ぶことが可能なはずです。だからこそ、学んでいるのですが…。なぜなら、私は「一定程度」つまり、会話が困らない程度に出来ればそれで良いと考えているからです。それ以上の特殊性のある専門性の高い話や、綿密な会話が必要な際は通訳を使えば宜しいと考えます。幼いころからイギリス語を学べば、通訳など使わずとも十二分に会話が成立するようになると言われる方もいらっしゃることでしょう。それでは例えば、私たちはどれだけ十分に日本語を用いる事が出来ているのでしょうか。よく私のブログを読んで、分からない漢字や日本語があるとのご指摘を受けることがあります。そして、書いている私ですら、まだまだ未知なる日本語が存在するのです。その様な状況下において、幼年期からイギリス語を学んだとしても、私たちの日本語同様に所詮限界はあるはずです。研究者や通訳・翻訳者等の特殊な職業人を除いて、その限界に挑戦するために多くの労力と歳月を用いる事は馬鹿げていると自身は考えています。何度も申します通り、大切なのは話す中身にあるのですから。幾ら流暢な日本語を話せたとしても、内容の無いことをペラペラしゃべられてもそこから多くのことは学べません。それと一緒で、他国・他民族の人々が思わず耳を傾けたくなる話すべき内容こそを研鑽して積み上げて行く必要があります。そのことにこそ、時間と労力を割いた方が必ずや素敵な人生を全うすることが出来るのではないでしょうか。
斯様に、小学校のイギリス語教育の本格的導入は、少数派の排他排斥を奨励するものであり、そして我が国の国益を大きく損ねるものであると断言できます。愛民族者及び愛国者である私の立場から言えば、これは看過できない体たらくではないでしょうか。
そして、小学校教育において最も大切なことは、国際社会で馬鹿にされないための、理論的思考力を高める事ことが求められており、その教材として、なぜこのような言語帝国主義の状況があるのかを教えることこそが真なる国際理解に繋がるのではないかと考えます。
※1 『朝日新聞』2013年5月23日
※2 津田幸男「私の視点 『日米言語協定』の締結を」『朝日新聞』2002年1月5日
※3 中村敬「この国を『米国ニホン州』にしないために」『週刊金曜日』1997年2月7日
あらゆる学問は全ての人々を幸福にするものでなければならない。物心がついたときからそのように教わった記憶がありますし、そのことを信じて39年程これまで生きてきました。そんな私ですから、高等学校までの勉強が実にくだらなく思え、そのあり方に反発ばかりしていた嫌な思いがこと勉強においては残っています。その意味においては、大学で真なる勉強の機会を与えて頂いたことは此の上の無い幸福であったと自身の人生を振り返ります。
さて、科学も学問である以上は、ご多分に漏れず全ての人々を幸福へと導くものでなければなりますまい。しかし、現状はどうかと言えば、首をかしげたくなる事象が数多見られるのが現実ではないでしょうか。電磁波・合成洗剤・食品添加物の問題をはじめ、原子力の問題を見ればそれは明白です。そこで、素人ならではの疑問が湧いてきました。科学は、真に人々を幸せに導いているのだろうかと。
サンデル教授の影響で、ソクラテスの書籍を手に取ったり、また知人の勧めで魯迅の単行本を眺めたりしています。夏目漱石の『個人主義のすすめ』も昨今改めて読み返してみました。そして、ここに書かれている現実を鋭く捉えた本質的な主張に触れながらその凄さたるや、現代における知識人と言われる方々のそれと比べて大いに感化されるものがあることが再認識させられました。
以前のブログでも申し上げた通り、人類は科学の発展と共に、人文学の衰退が顕著なのではないかと改めて感じる毎日です。科学の発展と人文学のそれは反比例の関係にあるのではないかと。自身の人生や、自身の所属する社会、そこで感じる自身の考えや思いと向き合うことが欠如しているのがこの社会ではないかと考えるのです。それは、科学の発展による利便性と近代化によって喪失されているのだと。近視眼的な利便性を手に入れる前に、私たちは立ち止まって考える必要がある。その利便を手に入れることによって失うものは何かと。そして、その利便は世界中の全ての人々を幸福へと導くものなのかと。例えば、臓器移植の問題をどのように捉えるべきか。
そう考えれば、原発再稼働などという愚劣な発想には到達しないと思えませんか。これも以前申し上げたことですが、人間は本当に優秀な生物なのでしょうか。残念ながら、人文の衰退した人間は、地球にとって、いや宇宙にとっては非常に危険な生物でしかないように思えます。理念なきテクノロジーは暴走し、地球を必ずや駆逐することでしょう。その意において、人間は、恐竜より無能な生物であると断言できます。
「現生人類が地上に登場してまだ20万年ほどなのに、地球温暖化や森林破壊、水質汚染など急速に地球環境へ悪影響を及ぼしている。現在、毎日100種もの生物が絶滅しているとの推定もあり、『第6の絶滅期』と呼ぶ人もいる。地球史上、過去5回ある生物の大量絶滅に匹敵するというのだ。千葉工業大学惑星探査研究センター所長の松井孝典は言う。『天体が衝突してこないかを心配するより、恐竜がなぜ1億6000万年もの長きにわたって栄えることができたのか、彼らが残したメッセージを真剣に考えるべきだ』」※1。
※1 宮崎勇作『GLOBE』朝日新聞 2012年2月15日
因みに、恐竜が絶滅した要因は、巨大隕石の落下にあると言われています。であれば、これがなければ恐竜は更に長きに渡って地上に君臨したことになります。