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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

本質的議論のすすめ

2013/05/15 10:49:46  社会全般

 例えば、決算書の具体的な読み方や会計処理の方法を理解する前に、会計学の大きな枠組みを先に理解した方が効率の良いことは想像に難しくありませんし、巷のビジネス書籍等でもよく謳われていることであります。つまり、原理原則論や本質論と言った大きな枠組みを理解した上で、各論を理解しなければ非常に非効率であるばかりか、時に間違った実践にそれが繋がってしまうことを忌避してのことではないでしょうか。その他報連相の在り方においても、「『森』→『木』→『枝葉』の順で話をする」とあり、「『枝葉』から話をはじめるのではなく、まずは全体像(森)を話すことで相手のベクトルをこちらに向け、話のポイント(木)を説明して、続いて詳細説明(枝葉)に入るのです。これができると、思った以上にスムーズに報告(連絡、相談)でき」るとされています※1。つまり、他者に対する説明の仕方においても同様のことが言われているようです。

 当法人における教育の際にも、全く同様のことを指導者に伝えるようにしています。つまり、それぞれの具体的実践を指導する前に、それぞれの実践における抑々の目的とは何かを必ず説明するように伝えるのです。例えて言えば、利用者の送迎における個別具体的な業務内容を説明する前に、「送迎」をする際の目的とは何かを先に説明するといった感じでしょうか。

 いみじくも「本質」から逸れてしまいましたが、物事を議論する際にも、この本質論無くして、十分な議論が成されているとは言い難いことは推して知るべしと思っています。さて、昨今急速に国民的議論が展開されている憲法について申し述べますが、憲法における抑々の本質論が見えにくいと自身は認識しています。憲法9条を始め、96条の改正がよく取り沙汰されているようですが、そもそも憲法とは何かといった根本的共通理解を抜きにして、各論から入ることに大きな抵抗感を有しています。一般的に、近代憲法は、立憲主義の立場に立ったものであると認識されています。朝日新聞の社説から以下引用しておきます。
「そもそも、憲法とは何か。
 憲法学のイロハで言えば、権力に勝手なことをさせないよう縛りをかける最高法規だ。この『立憲主義』こそ、近代憲法の本質である。
 明治の伊藤博文は、天皇主権の大日本帝国憲法の制定にあたってでさえ、『憲法を設くる趣旨は第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある』と喝破している。
 こうした考え方は、もちろん今日(こんにち)にも引き継がれている。
 憲法99条にはこうある。『天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』。『国民』とは書かれていないのだ。
 立憲主義は、国王から市民が権利を勝ち取ってきた近代の西欧社会が築いた原理だ。これを守るため、各国はさまざまなやり方で憲法改正に高いハードルを設けている」※2。まさに、「一般の法律は国家が国民を制限するものであるのに対して、憲法は国民が国家を縛るものであり、両者ではベクトルが逆である」ことこそが憲法の本質であると言えます※3。その本質論によって立てば、権力を縛るべき憲法を、その権力の中枢にいる側が競って改変する光景は稚拙に思えてなりません。物事はやはり、原理原則論や本質論を理解した上で眺めた方が、より正確無比にその「本質」を捉えることが出来るものです。

 そして、ソーシャルワーカーとして、ソーシャルワークの本質から本件について付言するならば、それは、「自民党憲法改正草案」の第13条にあるのではないでしょうか。憲法13条は現行憲法においては、個人の幸福追求権が謳われている条文です。それを、本草案では、「個人として尊重される」の「個人」を「人」としてという包括概念に置き換えています。条文の名称も「人としての尊重等」となっています。これは個人主義を認めない条文になっていると言えるのではないでしょうか。憲法13条は、ソーシャルワーカー(社会福祉士)のmissionであると言われている権利擁護と密接な関係にある条文であると言われています。この13条の改悪はソーシャルワークの倫理と理論に反するものです。であればこそ、当法人の法人理念においても、「憲法第13条・第25条を遵守する」と謳っているわけです。ソーシャルワーカーとして、その本質論から言えば、この13条の改悪案にこそ大きく否と叫ぶべきでしょう。

 実は、私は護憲論者ではありません。時代の要請に従って変更すべきところがあっても宜しいと思っています。しかしながら、憲法の本質である永久平和主義・国民主権・基本的人権の尊重といった基本原則は変えるべきではありません。そこを改めれば、憲法の本質そのものが改変されるからです。私たちの権利を守っている憲法が、私たちを排他・排斥するものに改悪されぬ様、一ソーシャルワーカーとして市井を注視して参りたいと思っております。



※1 河野英太郎氏『99%の人がしていないたった1%の仕事のコツ』ディスカバー P.17 2013年3月
※2 「社説 憲法を考える 変えていいこと、ならぬこと」『朝日新聞』2013年5月3日
※3 中島岳志氏「(わたしの紙面批評)「憲法」企画・特集」『朝日新聞』2013年5月14日



「普通」や「常識」という名の幻想

2013/05/01 20:21:35  社会全般
初めて訪れた都城市。皆さん大変お世話になりました。
 政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が4月28日東京で開かれました。同日同時刻に、沖縄県宜野湾市ではこれに抗議する集会が開かれています。4月28日を政府は「主権回復の日」と言い、沖縄では「屈辱の日」、奄美では「痛恨の日」とも言われているそうです。例えば、この4月28日という1日の意味についても立場が変わればその捉え方は180度違うわけです。もう一つ次の件を見てみましょう。「4・28を語る際、忘れてはならない視点がある。なぜ日本が占領されるに至ったのかということだ。言うまでもなく、日本が侵略戦争や植民地支配の過ちを犯し、その末に敗戦を迎えたという歴史である。占領下の7年間、日本は平和憲法を定め、軍国主義と決別して民主主義国として再出発することを内外に誓った。だからこそ、国際社会への復帰が認められたのではないか」※1。諸外国の人々からこの4月28日はどの様に映っているのかも、改めてその立場が異なれば捉え方が変わってきます。

 前回叙述した「ひろしま菓子博2013」イベントにおける電動車いす拒否の問題においても、電動車いすを利用されている当事者の視点と、そうでは無い人々による視点によって問題の捉え方は異なっていると言えるでしょう。学校でいじめを受けている生徒と、そのような経験の無い生徒は、それぞれの立場から同じ学校の存在を大きく異なる捉え方をしているものと思われます。

 100人いれば100通りの、1000人いれば1000通りの「普通」や「常識」がある訳ですから、それは何もおかしなことでは断じてないと皆さん感じていらっしゃることと思います。しかし、ここで注視したいのは、それでも特に我が国においては「普通」や「常識」が存在するということです。「普通でない」と言われると人格を否定された思いに駆られますし、「非常識」と言われれば馬鹿にされた思いになります。しかし、そもそも「普通」や「常識」は理論的にも物理的にも存在しないのです。

 では、世間で言われている「普通」や「常識」は、どの視点であり、どの立場から見たそれなのかが非常に大切な要点となってきます。如上の例で言えば、政府の側であり、電動車いすを利用していない側、いじめを経験していない側となることは言うまでもありません。若輩は、ゲオルク=ジンメルの「排除されていない者は包括されている」※2との考えに賛意を持っていますので、その中間という存在は厳密には無いものと認識しております。つまり、「排除されていない者は」排除する側に「包括されている」との考えであり、それは、マザー=テレサの言うところの「愛の反対は憎しみではなく無関心」にも通づる考えに依拠してもおります。

 要するに、「普通」や「常識」は、「排除する側」の視点に立っていると言えるのではないか。もしくは、もう少し穏やかな口調で言えば、多数派や大きな声を出すことのできる人々にとっての視点で構築されていると言えるのではないでしょうか。

 社会は斯くの如く、異なる視点でみれば全く異なってその構造を捉えることが出来るものです。障がい者の立場から見た社会と、健常者の立場から見た社会の見え方が異なるように、視点が変われば同じものでも全く異なった“形”に見えるものです。「普通」や「常識」はそれを一方の角度からのみ捉えたものでしかなく、それは当然事実とは言えませんし、その一方的な角度から捉えたそれを過度に強調することによって事実からは大きく乖離していくことになるとも言えます。ですので、社会を捉える際には、「普通」や「常識」とは異なる視点で捉えなおす作業もしなければ、その捉え方は偏向していることになります。よく「偏っている」と人の考えを批判される方をお見受けしますが、その意において、その批判自体が大いに偏っているとも言えます。この世に「偏っていない」考えや意見など存在しないのですから。

 と斯くの如く見てくれば、やはり改めて大きな疑問が湧いてきます。なぜ、私たちは「普通」や「常識」にこれ程までに捉われた生き方をしているのでしょうか。私を含めて、「普通」ではない、「常識」でないと非難されて悩んでおられる全ての方々にお伝えしたいと思います。この様な幻想に捉われて生きる必要が一体どこにあるのでしょうか。

 人間所詮いつかは死にます。その限られた歳月の中で、悔いのない人生を送るには、この幻想から解き放たれた状態で、自身の思いと意見に耳を傾けそれを大事に育てていくことが最も有意義であるように思われます。もちろんその言動に責任を持つためにも、真の勉学に勤しむ必要があるのでしょう。

 さあ、そのために今日も頑張ろうと思っています。



 追記:その後、ひろしま菓子博2013においては、4月22日から電動車いすの全日受け入れが決まりました。事態は収拾されたかに見えますが、このような事がなぜ実施されたのか、問題提起の意味も含めて、前ブログはその当時の内容のまま掲載させて頂きます。


※1 「(社説)主権回復の日 過ちを総括してこそ」『朝日新聞』2013年4月29日
※2 ゲオルク=ジンメル著 居安正訳 『社会学 社会化の諸形式についての研究(上)』白水社 P.409 1999年10月



失敗を生かせない民族性

2013/03/11 01:18:52  社会全般
法人本部開設初日に本部事務所から見えた虹。初心忘れべからず、にて精進致します。
 今日この日、3月11日に思いを寄せるイベントが津々浦々で開催されています。この度の東日本大震災において我々は多くのことを学びました。どれほどに科学の発展が成されようとも、自然環境の前ではそれが如何に無力であるのか。即ち、我々人類におけるその能力の限界が改めて示されました。また、科学の発展及び近代化に相まって喪失された地域住民間における共同性や社会的信頼度についての課題も浮き彫りになりました。良くも悪くも「絆」が叫ばれる契機ともなったのです。中でも最も大きな、しかし、一部の知識人や若輩にとっては今更ながらの学びは、人類における科学技術の未熟さに対する確認であり、そして原子力発電に対する抜本的な変節にありました。3月11日以前であれば、反原発を叫ぼうものなら“村八分”にされていた風潮が、逆に原発推進を主張すれば排他・排斥される社会へと一夜を越えて変節したのです。若輩は、この短絡的でかつ情緒的な変節は如何に我が国の民族性を象徴している様で、少し恐れを抱き静観していましたが、「正しい」流れに我が国がようやく導かれるであろうこの機会と運動を憧憬の思いで静観していました。

 しかし、です。安倍首相は2月28日に行った施政方針演説で、原発再稼働に向けた意欲を明示しました。「安全が確認された原発は再稼働します」とのことですが、福島第一原発では未だに放射能が垂れ流しの状況にあります。福島県民の5.4万人もの人々が「後4年」は自宅に戻れぬ状況があるわけです(4年の根拠は何処にも示されていないので当然に括弧書きです)。何度も申しますが、人間の成すことに事故がゼロであることは幻想でしかあり得ません。しかも、原子力発電はその性質上その事故が全くもって許されない訳ですから、これは事業としても明らかに成り立たない産物であると言えます。斯様に考えれば、これは小学生でも分別がつくことになりはしないでしょうか。

 第二次世界大戦においては、戦争と侵略に対する我が国の課題が浮き彫りとなりました。しかし、これは、多くの命を落とされた人々に対して大変失礼ではありますが、多くの学びの機会ともなり得たはずです。その反省を我が国は如何に、現代社会に生かすことが出来ているのでしょうか。むしろ、その当時の反省と学びが徹底されていないことによって、我が国は混沌とした状況に陥り、そして、国際社会における先導的な役割を果たせずにいます。人は過ちを犯します。それは、人が悪いからではなく、弱いからだと強く認識しています。であれば、その過ちから如何に学び、そしてそれを繰り返さぬばかりか、新たな方策を打ち出し、次の世代へと引き継いでいくことこそが尊く、そして、それしか出来ぬのが人生であるとも考えています。過ちを認め、そこに真摯に向き合う姿勢こそが尊く、そして、それが自らの誇りに繋がるということが我が国の教育には欠けているのではないでしょうか。

 首相の方針演説を聞いて、失敗から何も学ぶことの出来ない我が国の民族性を憂う気持ちが更に高まりました。先の大戦も含めて、これだけ多くの人命と人生を蔑ろにして、そこから何も学ばないという事は無恥かつ無能の象徴であり、それを国内外に明示していることにもなります。国際社会、そして、我が国の100年先の子孫からは間違いなく失笑を買うことになるでしょう。

 確かに、3月11日を境に、原発推進から反原発に急激に変節した民族性にも実は問題を感じずにはいられませんでした。常に表層的・情緒的に急変する集団や組織に明日は無いからです。反原発が「正しい」選択肢であると信じていても、情緒的・衝動的な変節の在り方には不満を抱いてもいました。熟慮した結果の反原発では無い事が、今回の首相の方針演説を引き出したとも言えそうです。その意において、私たちは自らの頭で考え、行動する力が希薄化しているように思っています。これは、我が国の教育の「成果」であり、当方から見た際の課題であるとも認識しています。

 非を認めないことが誇りではありません。自らが行った非と真摯に向き合い、新たな方策を打ち出す勇気を持つ者にこそ誇りは宿っていると言えます。この度の原発事故における真なる反省と、未来に向けた熟慮こそが、我が国の誇りであり、私の愛国心・愛民族心の在り方であることも叙述しておきたいと思います。



スポーツと体罰の関係

2013/02/01 00:53:19  社会全般
最近は船での移動が増えました。江田島では、牡蠣の美味しい季節が始まりました。

 昨年12月23日大阪市立桜宮高校に通うバスケットボール部主将が自ら命を絶った事件に端を発するかのように、スポーツ分野における体罰の問題が次々と取り沙汰され始めました。教育分野における体罰のみならず、ロンドン五輪代表を含む15名の女子柔道選手による暴力行為・パワーハラスメントの告発も成されています。

 それに対して、桑田真澄氏は自身の経験を通して体罰等の暴力行為の不毛さと愚劣さについて朝日新聞に寄せています。「私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか?何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。『タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん』。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です」※1。

 一流のアスリートと称される桑田氏が述べることに大きな説得力を感じます。しかしながら、このような問題は随分と前から言われ続けてきたことでもあります。例えば、1998年の年初には有名大学のラグビー部やスケート部の選手が立て続けに婦女暴行事件を起こしています。体罰とは直接関係ないと思われがちですが、体罰指導を普遍的に受け続けてきた選手が他者に暴力を振るうことはその関連性が指摘されてもいました。孫引きではありますがスポーツ評論家故川本信正氏の言葉を引用しておきます。「戦後、日本は、軍国主義を否定して民主主義に基づく社会を目指してきたなかで体育会は、それに逆行して非民主的、保守的な組織になってきた。学生を統率するのにもっとも効率的な軍隊方式をそっくり取り入れたことがもっとも問題である」「真に自由で明るい、知性と友情に満ちた学生スポーツを育てるためには、もはや手段は、一つしかない。スポーツを愛するすべての大学の学生がこぞって体育会をボイコット(退部決行、入部拒否、会費不払い)し、大学当局や先輩を相手とせず、自分たちの手で自主的に民主的にスポーツのグループを結成し、スポーツの解放区として大学のスポーツ施設を占拠することだ」※2。

 そもそもスポーツの原則は、好きな競技を楽しんで実践することにあるはずです。しかしその原則が叶わぬ状況が蔓延しているのが我が国の体たらくであると言えます。その要因の一つとしては、如上の体育会に体現されるようなスポーツ分野における体質的な問題があるようです。そして、それを自己合理化する要素として、市場原理主義や勝利至上主義があるのでしょう。

 プロスポーツは勿論、オリンピックのメダル争いや高校野球に見られるように市場原理主義がその背景にある以上、スポーツは純粋に楽しむだけのものでは無くなるのではないでしょうか。高校野球においてさえ、甲子園出場を果たすことでそれが母校の宣伝広告になることが言われている訳で、その目的遂行のためには、“優秀”な指導者の指導方針を学校が放置してしまう例も想像に難しくはありません。事実、桜宮高校などではその様な傾向があったように思われます。市場原理主義が強まれば、そこに勝利至上主義の風潮が蔓延っていきます。スポーツを純粋に楽しむことは隅に追いやられ、競技に勝つことだけがその目的と化していきます。そして、そのためには手段を選ばない風潮も芽生えてくるのです。体罰も然り、時にはドーピングも…。

 10代の頃より、スポーツを仕事にすることは特に我が国においては難しいと考えてきました。スポーツの本質は楽しむことであるのですが、それが母校や国家の「威光」、単なる「勝利」のために成されることによって、その本質としての楽しみが低減するからです。

 本件には、体罰の有無といった表層的な問題ではなく、スポーツとは何かという根本的問題がその背景にあります。純粋に楽しむことを本質としながらも、如何に市場原理の中で持続して行けるのか。この二律背反の呪縛から解き放たれる答えは未だ見当たりません。


※1 「『体罰は自立妨げ成長の芽摘む』桑田真澄さん経験踏まえ」『朝日新聞』2013年1月11日
※2 谷口源太郎氏「谷口源太郎の一望無根 17 大学の体育会を解体しよう」『週刊金曜日』2000年7月28日(325号)



誰から何を守るのか?

2013/01/31 11:52:45  社会全般
江田島行でいつも乗船させていただいている桟橋から、松山行のスーパージェットに乗船しました。その時は波もほとんどなく快適な時間を過ごすことが出来ました。
 政府自民党の政権公約通り生活保護費の削減が決定されました。政権公約を着実に進めるジッコウリョクは前政権の轍を踏んでおらずある意味流石にと思われます。しかしながら、このジッコウリョクは国民の利益を擁護する真なる実行力ではないことは明白です。

 13年度分だけで約670億円の削減(就労支援強化や医療扶助の見直し約450億及び生活扶助削減約220億)が見込めるらしい※1。言うまでも無く、生活保護制度は国民の最低限度の生活を保障する最後の砦と言えます。仮に、「真面目に」働いている人々の所得水準が、生活保護水準を下回っているとすれば、生活保護水準に問題があるのではなく最低労働賃金の設定に問題があると捉えるべきでしょう。最低賃金法では、両者の水準の連動性について謳われているのですから※2。斯くの如く生活保護制度は最後の砦というに相応しく、この水準が下がれば、それに連動して最低労働賃金も下がるということにも帰結するのです。となれば、これは生活保護受給者だけの問題ではなく、全国民的な問題として議論が必要なテーマとなるハズです。そのようになっていない事こそが第一義的な問題であり、ハズとカタカナで明記する所以でもあります。

 いみじくも同日中国新聞の裏面、「防衛費は400億円増」の見出しが目に飛び込んできました。社会保障と安全保障は対立概念では無いかも知れませんが、ソーシャルワーカーとしては社会保障の充実を第一義として叫びたいと思います。これから2%のインフレターゲットによる物価上昇と、消費税増税が始まります。例えば、経団連の反応を見ても労働賃金の増加は見込めないのが現状です。収入が増えないのに物価が上がるという最悪の事態が目前に迫っているわけです。そこで、経済格差は更に増大することになるでしょう。

 国とは何かと問われれば、私は国民であると答えます。目前の窮地に追い詰められた国民の生活を守らずして、何処の国から何を守ろうとしているのか。国民の生活を一体誰が守ってくれるのか。私には分からなくなってきました。当政権は自助と自立を強く謳っているようですが、であればそもそもその様な政治は必要なのでしょうか。政治の役割とは何か、といった本質論こそが今問われているようです。

 外交については全くの素人ではありますが、米国を押さえて、中国は今や最大の貿易国であることは理解しています。2011年度の貿易総額は約27兆円と言われており、輸入輸出ともに全体の2割を占めている国です。その様な隣国に対して、対峙・対立を避け、双方に有益な議論を重ねる事こそが国民の利益となるはずです。

 やっぱり、政治にもソーシャルワークの視点が必要なのではないかと思える昨今です。


※1 2013年1月28日『中国新聞』
※2 最低賃金法
第九条  賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障するため、地域別最低賃金(一定の地域ごとの最低賃金をいう。以下同じ。)は、あまねく全国各地域について決定されなければならない。
2  地域別最低賃金は、地域における労働者の生計費及び賃金並びに通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない。
3  前項の労働者の生計費を考慮するに当たっては、労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮するものとする。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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