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NPO法人 地域の絆

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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

格差社会に思う

2012/10/06 17:05:42  社会全般


 「今ほど息苦しく、世知辛い社会情勢は未だ嘗てない。だからこそ、人々に『笑い』が必要なんだ!」。出張先の東京で一人昼食をとっていると、他のテーブルから繰り返し聞こえてきました。話を聞いていると、どうもテレビ会社の番組制作にかかるお話の様です。世相を捉えることがその仕事であるテレビ会社でお勤めの方のご発言。やっぱりそうなのか、と改めて感慨深く思い始めました。

 生まれた病院は広島ですが、間違いなく私は大阪で育ちました。生後間もない時期から、27歳まで大阪で暮らし育ちましたので、大阪文化の影響を多分に受けて現在の生き方が構築されていると言えます。15年ほど前に比べると大阪の様相も随分と変わりました。キタもミナミも更に高層ビル化が進み、今も尚発展途上の「進化」を遂げているように見受けられます。しかし、それでも、東京の目覚ましい「進化」には追いつくどころか、ますます突き放されているようにも見受けられます。なぜなら、15年ほど前は大阪の人間が東京に行っても今ほどの格差を感じなかったからです。それほど、東京は一極集中して巨大化を果たしていると言えそうです。

 我が故郷広島県福山市はどうでしょうか。市町村合併を繰り返し肥大化してきた人口47万の中核市は今や停滞の一途を辿っています。今後大きな「進化」などまず望めますまい。当法人が事業所を開設させて頂いている島嶼部広島県江田島市はどうでしょうか。人口2万7千のこの基礎自治体では、負債が膨らみ、労働者人口の流出が顕著な状況で、「進化」の真逆の「退化」の一途を辿っているように見受けられます。

 まちづくりにおいても、基礎自治体の自己責任論を宛がおうとしているのかも知れませんが、如上の自治体格差は、必ずしもそれぞれの基礎自治体の責任ではないように思われます。つまり、大都市に有利な社会政策が根本的な要因としてあるわけです。財力の乏しい基礎自治体に十分に手厚い配分を行わず、その結果として、地域格差が広がっているように思われます。

 もちろんこれは、個人における格差にも全く同じことが言えるわけです。大企業の内部留保金は年々増大し、高額所得者も同様に増加を続けている一方、年収250万円以下の人々が増え続ける社会。個人においても、そして自治体間においても格差が急速に広がっています。

 もちろん、「進化」と鍵カッコを付けている意味はお分かりでしょう。それが人類にとって、人々の生活にとって真なる進化となっているのかは甚だ疑問であるという意を含んでのことです。「退化」の意味も同様に。狭い地上に敷地いっぱいに高層ビルが立ち並び、地下にも同様に街が広がるこの空間を、豊かな空間として見ることが出来ないのは私だけでしょうか。私には、江田島市の空と海とそして、人々の関わりの方がより豊かに思えてなりません。

 地域や組織、そして個人間で、いま急速に格差が広がっているのです。その帰結として、冒頭のテレビ局の方のご発言が生れているのだと私は考えます。帰りの新幹線の車中、如上の事を考え今これを打っています。車窓からは、我が故郷広島のまちが見えてきました。



国益≠国民の利益の構造 〜ソーシャルインクルージョンについて考える〜

2012/10/02 00:16:12  社会全般
社会変革を意図したソーシャルワーク実践の実践研究集会に参加させて頂きました。大変勉強になり、感謝致しております。


 あれだけ事故の危険性が高いとされるオスプレイが、我が国沖縄の普天間基地に配備されました。「米新型輸送機オスプレイの配備を前に、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の周辺では9月30日も、配備に反対する市民と沖縄県警がにらみ合った。市民がゲート4カ所を封鎖していたが、機動隊はこのうち2カ所で門をふさぐ車や座り込む市民を強制排除した。
 県警が最初に実力行使に踏み切ったのは、基地西側の通称『大山ゲート』。市民が28日から路上に座り込み、29日に車12台を門の前に並べていた。
 30日午後1時前、100人余が座り込むゲート前に、盾を持った機動隊員約100人が横一列に整列した。『ただちに移動しなさい。従わない場合、強制的に排除します』と警告し、排除を開始。『やめろ』『同じ沖縄県民だろう』と訴える市民を数人がかりで担ぎ出した」※1。

 アメリカにおいては、斯様な住宅密集地で飛行を許可していない危険な代物が、我が国の領土で飛行を続けています。恐らく普遍的な論理としては、「国益のためには多少の犠牲はやむを得ない」との思想が根底にあるものと思われます。また、この場合は、「犠牲」というよりも、「被害」と言った方が現実には即しているようにも思われます。

 政治に関しては全くの素人の私ではありますが、この沖縄県民の姿と、原発被害を受けている福島の人々、そして、私たちが支援をさせて頂いているクライエント姿が被って見えるのは私だけでしょうか。

 素人の私には、右や左の定義がよく分かりません。しかし、素人ながらも、今ほど革新や保守の定義が曖昧模糊としている時代は無いものと認識しているところです。であれば、右も左も本来の機能を果していないのが我が国の政治状況であると思っております。

 「国益のための一部の犠牲」。これって本当なのでしょうか。そもそも、国益とは何か?古い辞書には書かれていませんでしたが、昨今の辞書には明記されているこの言葉。国益、「国家の利益」※2、とあります。では国家、「1 くに。2 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる」※3。つまり、どうにでも捉えることが出来る便利な言葉の様です。若輩は考えます。国益とは、即ち、「全ての国民の利益」であると。

 如上の定義に異論の無い方にお尋ねしたいと思います。沖縄県民や福島県民、そして私たちの支援をさせて頂いているクライエントは国民ではないのでしょうか。このような酷い状況を、私たち福祉専門職はソーシャルエクスクルージョンと言っています。つまり、少数派や弱者が切り捨てられている、排他・排斥されている状況を言うのですが、クライエントのみならず、沖縄や福島県民もまさにその状況にあると言えないでしょうか。つまり、沖縄県民や福島県民も私たち福祉専門職のクライエントになり得るのではないかと感じずにはいられません。なぜならば、私たち福祉専門職は、ソーシャルインクルージョンを目指して、社会変革を実践する専門職だからです。

 誰かが排他・排斥されている社会では、誰もがその立場に置かれる可能性を有する社会であると言えます。事実、皆様の地域でも、オスプレイが飛ぶことだって、原発の建設計画が始まることもあり得るのです。私たち福祉専門職は、誰かを排除する仕組みそのものを問題にしなければなりません。

 一部の犠牲、いや被害を容認し、強要する社会は、常に誰かをエクスクルージョンして成り立つ社会と言えます。このような社会が、国益を生み出すことなどありますまい。「情けは人の為ならず」と言います。私益と公益は必ずどこかで繋がっているものです。国益を、全国民の利益と捉えて鑑みたとき、誰かの被害は、巡り巡って必ずや皆さんの所へ到達するはずです。



※1 『朝日新聞』2012年10月1日
※2 『デジタル大辞泉』
※3 『デジタル大辞泉』




「私が思う私」考

2012/09/14 20:04:23  社会全般
さあ、これから広島へ移動です。
 東京の白銀高輪で2日間、FFS理論の研修を受講しました。大変多くの示唆と学びが得られたこと深く感謝致しております。

 受講に際して、事前課題として「私が思う私」と題したレポートを提出させられました。実は事前提出を失念しており、慌てて思いのまま書き起こしたものです。人の個性は容易には変わらないのですが、人生において得られた経験や習得した内容によって、その人の生き様は大きく変わるのだそうです。振り返って考えると、私の周囲には常に意味ある経験を与えて下さる他者がいたようです。その方々の御蔭で、今の自分があることを改めて振り返ることが出来ました。

 以下の様に、私は「拡散性」の強い、天邪鬼な個性の持ち主です。しかし、であればこそ、身につけることが出来た視点や理論があります。私の個性を守り、その強みを大切に引き出して下さった多くの方々に感謝をすると共に、誰かにとっても、その様な自分でありたいと思う私です。


 物心がついた時から、人と違ったことをするようになった。小学生の折、授業の開始と終了の起立から着席までの行動をいつもテンポをずらしてやっていた。音楽の笛吹きテストでは、一人だけ真後ろを向いて吹いた為零点を付けられた。他者と同じことをすることに理由がなかったので、同じ行動は極力避けた。と同時に、なぜ人は「普通」であろうとするのか、「常識」に自ら媚びへつらうのか、疑問を持つようになった。
 その様な人間は日本社会には適応しづらく、ご多分に漏れず、排他・排斥の経験を持つ。何も間違ったことをしていないのに、「普通」「常識」といった多数派の価値規範から外れた人間が排除される社会に違和感を覚え、その社会構造を学ぶために専門書を読み漁った。そこで学んだのは、100人いれば100通りの普通があるという自明の理だ。であれば、巷で言われている「普通」や「常識」は大いに偏向した存在であることが理解される。そこに統制されること自体に不毛感を抱いていた。
 その後、私は、「普通」や「常識」から排他・排斥されている方々の側に立った仕事を志した。ソーシャルワーカーという仕事である(それ以前はジャーナリストであるのだが)。ソーシャルワークの要諦は、クライエントの皮膚の内だけに問題点を見出さず、社会システム自身の問題や、社会システムとクライエントとの関係性の問題に着目することにある。いじめの問題もこの様な視点で介入を行う。つまり、被害児童と加害児童の皮膚の内にある問題、そして、家庭・学校・文科省の方針といった社会システムの問題、そして、それぞれの関係性に対してもその実践を行うのである。
 社会構造や価値規範といったマクロ、所属機関や分野、地域といったメゾ、そして個人の皮膚の内にある課題としてのミクロ、それぞれの領域で変化を促進するのがソーシャルワークであると理解している。個人が幸せになるためには、個人の努力のみならず、社会システムの変革が不可欠である。その様なところに拠って立つことに私の面目躍如たるものがあると認識する。
 社会変革はソーシャルワークの重要なテーマであるが、それは容易なことでは無い。少しずつ、身近なところで、小さな変化を促すことが重要であるし、時には多くの妥協が必要である。1を通すために10を妥協する戦略も不可欠だ。また、人それぞれに立場がある故に、時に曖昧に、そして柔軟に立ち振る舞わなければ社会変革は実現し得ない。
 グレーのままでいい。その中で如何に変化を促進することが出来るのか。そのことばかりを考える毎日だ。グレーで行くにせよ、自身の信念は決めて実践する。つまり、白と信念を持てば、その状況でグレーの実践を行うが、限りなく黒に近いグレーには乗れない。その際は、反論し、即座にテーブルを降りるであろう。しかし、曖昧性・柔軟性を重んじてグレーで行くことを重要視しているのである。信念を持ちながらも、柔軟性と曖昧性を抱きながら、緩やかに社会変革が出来るソーシャルワーカーを目指している私である。



時間軸を超えたビジョンの共有を!

2012/07/27 16:17:41  社会全般
過日訪れた三原市本郷町の夏祭り。花火と演奏のコラボレーションは感動的でした。

 心の安らぎの一つ。それは、大学の恩師が発行されている新聞を読むことです。「試行社通信」と銘打たれたその新聞は、文章がぎっしり詰まったとても読み応えのある新聞です。どちらかと言えば私自身も書くことが好きなタイプですが、先生はまさに書くことが“異常”なまでにお好きなのだと新聞を見ては思う毎日です。

 未だに先生の文章にアンダーラインを引きながら、また余白にコメントを書き込みながら拝読しておりますが、本日目を留めたのは次の条でした。

 「早い話が、福島原発事故に関して責任をとった人間がただの一人でもいたのでしょうか。責任のなすりつけあいは盛大におこなわれる一方、誰一人、自らの責任に言及することさえしなかったではありませんか。(中略)実をいえば、原発事故といったタイプの大参事の場合、誰も責任のとりようがないのです。(中略)まして放射能汚染は短期間で消滅するものではなく、数十年から数百年単位、もしかするとそれよりも長期にわたって持続するものである以上、その意味でも最後の最後まで事態の推移を見守れる人間自体が存在しないわけです」。

 至極当たり前のことが書かれています。先生に言わせれば、おいおい、こんなところに着目するのかね?、とおしかりを受ける箇所かもしれません。しかし、私はこの部分が気になるのです。考えてみて下さい。世の中には如上のように責任の取れない、いや、取らなくても済む出来事が数多あるではありませんか。本放射能の人体に対する影響も然り、携帯電話やリニアモーターカーによる電磁波等の影響、食品に関連する化学物質や、合成洗剤の影響などが思い起こされます。

 如上の問題は、動物実験においては“許容”の範囲と判断され実用化が図られているのですが、実は人体にどの様な影響が及ぶのかは不明瞭なままです。恐らく今後、実質的な“人体実験”が20年〜50年かけて行われた末、各地で訴訟等が起こり、「誰か」が責任を取ることになるのでしょう。しかし、当時その決断をした責任者は第一線をとっくに退いており、実質的には誰も責任を取らないばかりか、仮に訴訟に敗れ損害賠償を履行したとしても、長期に渡ってそのことで利益を上げてきた企業等は勝ち逃げの状況に帰結するように思われます。つまり、誰も責任を取らないばかりか、その問題となる活動をした側がトクをすると言う現象が起こり得るわけです。

 インターネット等の普及によって、理念や情報のグローバル化が進んでいる昨今。私たちは、地球上のどの地域で何が行われ、そして、今人類に何が求められているのか、現在進行形の問題意識を共有することが可能となってきました。しかし、一方で今現在を生きている人々と、これから生まれてくるであろう子孫との理念の共有は、未だなされていないものと認識しております。私たちが屍となったそのあとに、残された、また生まれてくるであろう人々の生活の豊かさや平和を考える視点はまだまだ浅薄な状況にあるようです。

 随分前に目にしたある賞の募集要項が手元にあります。なぜこれが、今ここにあるのか経緯は忘れてしまいましたが、その中にかかれている文章に惹かれずっと手元に置いていたものです。

 「共生(ともいき)とは…
過去も未来も考えず、今が良ければいい。そのような考えでは、先の不安はつのり、後には後悔しか残りません。(中略)祖師や祖先から受け継がれてきた“いのち”をいただいていることに感謝し、今の世界の状況を見つめ、他の“いのち”の為にできることをよく考え、実践して後世に“いのち”を引き継ぐことこそ、“ともいき”なのです。
・きょうせい…自然や他の生物と共に生きること(共棲)
      =『自然との共生』etc… =横軸(同じ時間軸)のつながり
・ともいき…きょうせい+過去から未来へとつながる『いのち』と共に生きること。
      =横軸+縦軸(過去・現在・未来)のつながり」※1。

 若輩は宗教的なことはさっぱりわかりませんが、如上の定義で考えた際は、やはり「共生(ともいき)」を考えていくことが今人類に強く求められているのだと理解しております。昔から、「子どもは大人の父なり」(ワーズワース)と言います。子どもたちの視点で社会を点検し、そして、その構築を成していくことが「ともいき」への第一歩なのかも知れません。

 知識人や為政者に今最も求められている視点。また、その偉大さを測る指標。それは、100年、200年先の今を生きる人々に説得力のある実践が出来ているか否かにあるのではないでしょうか。まさに、「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれることでのみ評価される」のです。


※1 浄土宗「平成23年度 浄土宗宗祖法然上人800年大遠忌記念事業 『共生(ともいき)・地域文化大賞』募集要項」P.2



「国民の生活が第一」の「国民」

2012/07/16 23:46:01  社会全般
過日法人研修室で開催したプレ発表会。今年度はもう一つ全国大会の発表に一丸となって挑戦します!
 シンガー=ソングライターの宇多田ヒカル氏が、ツイッターで「キラキラネーム」と評しているらしい「国民の生活が第一」と言う名の新党。報道によれば、宇多田氏自身はこのネーミングに「批判的な考えを持っているのは明らか」※1なのだとか。更にそのツイッターには多くの批判的な書き込みが寄せられているそうで、「宇多田さんの“発言”に多くのフォロアーが反応し、ブログなどでも『キラキラネームではないけど厚顔無恥』『国民をバカにしたネーミング』など多数の意見が書き込まれ、盛り上がりを見せている。コンサルタントで著述家の城繁幸さんは、同党名について『国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない。粗末なプレゼントに派手なラッピングをしたみたいな名前』とし、『宇多田さんの評価は適切』と話している」※1などと報じられています。

 確かにこの新党、国民の心は掴んでいない。「共同通信社が14、15両日に実施した全国電話世論調査によると、小沢一郎元民主党代表が結成した新党『国民の生活が第一』に期待していないとの回答が計81・8%に上った。期待しているとするのは計16・5%にとどまった」※2。

 未だ不明瞭で暫定的な重点政策ポイントを見てみよう。「一、消費税増税の前に徹底した行財政改革。
一、財政出動で公共事業投資を積極的に進め、5年以内にデフレ脱却。
一、原発再稼働には慎重。再生可能エネルギー活用で原発ゼロを目指す。
一、環太平洋連携協定(TPP)反対。経済連携協定(EPA)や自由貿易協定(FTA)を推進」※3とあります。消費税反対・脱原発・TPP反対の方針は社会福祉専門職とは一致すべき内容ではないでしょうか。消費税の増税は年収700万円以下の国民には厳しく、所得税増税は年収700万円以上の国民に厳しいと言われています。また原発は一部の地域や一部の労働者の犠牲のもとに成り立つエネルギー政策ですから、「人間の尊厳」や「社会正義」におけるソーシャルワークの倫理に反します。TPPは、何処の国の「国民」のために行うのか、そこが見抜けていなければ我らが国民の権利は守れません。

 facebookにも記載しております通り、政治について若輩は「ベストよりベター」を考えます。つまり、選択においては消去法をより優位に考えるわけです。その際に、この新党の政策方針と、民主党のそれのどちらに賛同できるのかは然程難しい選択にはならないと考えます。今後の情勢によっては、不確定要素が非常に大きく判断に迷う部分もありますが、その不確定な部分を除けば、断じて新党に期待を寄せざるを得ません。

 なぜならば、以前申し申し上げました通り、「国民」のどの層の人々のための政党なのかと言う視点で捉えた際、その違いが明晰化されるのです。自身の言葉を使うまでもなく、「野田政権が重視しているのは『原発の運転』や『財政の再建』で、その背後には『官僚の意思』や『財界の意向』が『第一』の姿勢があるように感じます」※3ことは自明の理でしょう。つまり、現政権の守りたい「国民」とは、一部の利権を獲得した人々と、そして、富裕層の人々であって、それ以外の大多数の人々ではないことは明白な事実です。であれば、人気は無くとも、本新党は現政権よりはマシな存在であるということになります。

 「参院民主党は同日、このフレーズをちりばめた記者会見室の背景デザインを、ロゴマークと党名に切り替えたという。新会派『国民の生活が第一』の宣伝になることを嫌った苦肉の策とみられている」※4。この場合、民主党は「国民」のどの層の「第一」を放棄し、また包摂したのか。本ブログの読者には釈迦に説法でしょう。

 斯くの如き、「国民」なる言葉は、視点を変えればその解釈もその後の行動も全てが大きく変わってしまう取り扱い注意の用語なのでしょう。そもそも「国民」全員、すなわち「みんなの」政党などこの世に存在するのでしょうか。その意においては、この新党のネーミングを批判するのであれば、「みんなの…」の方がよほど理論的に間違っている様にも思われます。みんなの政党であるのか否かは、有権者ひとり一人が判断して決めるべきものですから。

 「国民の生活が第一とは当たり前のことで中身がない」とのことですが、その当たり前のことがここ20年ほど成されてこなかったことに最大の問題があるのではないでしょうか。

 如上のように、新党の「国民」と民主党の「国民」には、その対象者像が全く異なるという点において、同音異議の調和を成しているといえます。


※1 産経新聞 2012年7月14日
※2 北海道新聞2012年7月15日
※3 京都新聞 2012年7月10日
※4 中日新聞 2012年7月14日



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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