「通って、泊まれて、家にもきてくれる」「住み慣れた家で24時間365日の安心」「臨機応変な対応、自立支援、医療の安心」特定非営利活動法人 地域の絆

Googleサイト内検索
NPO法人 地域の絆

NPO法人 地域の絆

中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

アーティストの証

2012/06/15 20:50:38  社会全般
過日開催された日本社会福祉士会の全国大会の模様。これは懇親会ですが、大いに盛り上がりました。
 ストレス過多の我が国においては、癒し系のアートが流行っているように見受けられます。音楽や文学、美術の分野ですら癒し系のものが数多見られます。当然ながら、アートの質を測る指標は一つではないばかりか、人の数だけその指標があると言えます。ですので、どのアートが優れているかなどと考えることは不毛であり、創造性のない営みと言えるでしょう。

 では、流行っている、即ち、「売れている」アートはなぜ売れているのでしょうか。私には一つの指標が大きく見えてきます。取っ付きやすく、即効性のあるものがやはり求められているように見受けられます。つまり、直ぐに理解が出来て、使えることが重要視されているように思われるのです。例えば、自身をあまり追い詰めることなく、深く考えることを求められるでもない。それでいて、癒された感覚を直ぐに甘受できるものなどが求められているのではないでしょうか。

 アートの質を測る物差しは、数多あって当然良いのですが、「売れる」アートとは如上の指標に乗ったものが多い様に思われます。実は、本日東京へ移動中に目にした新聞から、優れたアートを測る一つの指標を見つけることが出来ました。

 音楽家の坂本龍一氏は、原発再稼働に対して次の様に述べています。「原理や原則についてきちんと議論がなされないまま、『論理』ではなく『空気』で物事が決まっていく。そんなこの国のありように、ずっと違和を感じてきました。(中略)『国を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄できない』。野田さんは再稼働に関する記者会見で『国民生活を守る』を繰り返していましたが、この『国民』っていったい誰のことなのでしょうか。私には『「原子力ムラ」に住んでいる人たちを守る』と言っているようにしか聞こえません。大飯原発を再稼働させなければ関西で15%電力が足りなくなるというのは、一種の脅しです。私たちには検証のしようがないんですから。電力会社が地域を独占していて競争原理が働かないから、そんな脅しが効果を持ってしまう。世論調査では依然として原発に懐疑的な人が多いのに、こんなやり方で再稼働が決まってしまうとしたら、この国の民主主義はとても成熟しているとは言えません。(中略)欧米では有名無名を問わず、社会的な問題に意見を言うのは当たり前です。日本だって1960年代末から70年代くらいまでは、ロックミュージシャンが政治的な発言をしていた時代もあったんですよ。それがいつしか、チャリティーですら『偽善だ』という批判に強くさらされるようになり、とてもやりにくい時代が続いた。音楽家は音楽だけやっておけ、政治的な言動はとるなと。(中略)声を上げる。上げ続ける。あきらめないで、がっかりしないで、根気よく。社会を変えるには結局、それしかないのだと思っています」※。

 優れたアートを測る一つの指標とは、社会に対するメッセージ性にあるのだと理解しました。坂本氏の様に、その活動を通して社会にメッセージを発信するのがアーティストであると私は認識しています。メッセージを発するということは、社会に対して何らかの問題意識を有しているということに他ならない。つまり、私の中では、真のアーティストとは社会に対して問題意識を有しているということがその十分条件であり、また必要条件であると理解しています。

 今社会に何が求められているのか、そして何が足りないのか。その様な問題意識をもって表現することがアートであると自身は理解するに至りました。つまり、真なるアートとは社会に対する問題意識とメッセージ性を有するものでなければならない。この様に勝手な定義をしたならば、如上の「売れる」アートとは、その多くがアートに値しない産物に該当します。

 今流行りの小説の多くや、音楽にしても、社会に対してどうでもよいことを謳っているものが多く、その意味において、彼らはアーティストとは言えないのではないかと勝手に思うことにしました。

 また、坂本龍一氏はその意において、真なるアーティストであることが確認されます。


※「耕論 再稼働、それでも」『朝日新聞』2012年6月15日




「国民」という名のレトリック

2012/06/11 00:39:12  社会全般
昨今は本当に新幹線に乗車する回数が増えました。移動距離が年々倍増中です。


 昨日の朝刊のトップに「野田首相が大飯原発再稼働判断、『国民生活守るため必要』」の記事。「野田佳彦首相は8日、首相官邸で記者会見し、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)について『国民の生活を守るために再起動すべきというのが私の判断』と述べ、国論を二分したこの問題に関する政治判断を示した。首相は、政府の最終決定に向け『立地自治体のご理解を改めてお願いしたい』と福井県に呼びかけた」※とあります。

 どうやら「首相は会見で『全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を止めたままでは日本の社会は立ち行かない。計画停電がなされうる事態になれば、実際に行われるか否かに関わらず日常生活や経済活動は大きく混乱する』と強調した」※らしい。この件に関しましては、明らかに研究者の意見が分かれている所です。つまり、今すぐに原発を止めても電力供給に支障は出ないとの見解がある訳です。また、嘘に嘘を塗り固めて促進されてきたその促進力と力学を考えれば、どの情報が優位に普遍化してくのかは社会学を少しかじったことのある者であれば自明の理の如く理解が出来ます。いや、社会構造を少し考えれば誰にでもわかることではないでしょうか。

 「首相は『化石燃料への依存を増やして電力価格が高騰すれば、小売り店や中小企業、家庭にも影響する。石油資源の7割を頼る中東からの輸入に支障が生じれば、かつての石油ショックのような痛みも覚悟しないといけない』などと語り、経済とエネルギー安全保障の観点からも原発は重要との認識し示した」※。もうお分かりですね。この首相が何を指標に動いているのか?国民一人一人の安全や安心でしょうか?福島で被災されている県民に対する支援でしょうか?

 まさに経済至上主義。その物差しでしか動いていらっしゃらないことがはっきりと理解できます。マズローのヒューマンニーズの階層にあるように人には、生理的な欲求や、安全・安心の欲求がまずその大前提にある訳です。それを等閑にし、経済の停滞防止を最優先に対応されているのではないでしょうか。

 また、「国民の生活を守るために」とおっしゃっていますが、この場合の「国民」とは誰のことを指すのでしょうか?原発周辺地域で不安に震えていらっしゃるその「国民」ですか?福島で被災されもう二度と原発の安全性は信じないと心に誓った「国民」ですか?おそらくは、電力会社及びその利権に纏わる立場にある「国民」のためだけに、その彼らの生活を守るためだけに、原発を再稼働しようとしているとしか私には思えません。

 「国民」と言っても、人口は一億八千万人存在します。全ての「国民」のための行動などこの世には存在しないこともまた自明の理。そのバランスを取っていくことが政治には求められています。しかし、日本は資本主義社会であり、経済至上主義社会です。その社会において政治が成すべきことは、力学的に弱い立場にある人々をまずは守る事にあるはずです。総理はそうではなく、力学的に強い立場にいらっしゃる「国民の生活を守るために再起動」決めたのでしょう。そして、彼らにとってこそ「社会は立ち行かない」と断じるのです。

 このように「国民」と言えばまるで皆のためにと捉えられてしまうかも知れませんが、斯様な抽象的な表現の中にはレトリックが潜んでいることを私たちはまず自覚しておく必要があります。政府の側が「国民」と名指しで訴える際は、その「国民」のどの層の方々のためであるのかまで慮って話を聞く必要があります。政府が言う「国民」とはいったい誰なのか?具体的な顔を思い浮かべて話を聞いてみることをお勧めします。これを書きながら、いま私には数名の方々の顔が脳裏に浮かびあがっています。

 民主党は「国民の生活が第一」というマニフェストを打ち出して、政権交代を果しました。その時の「国民」はおそらく如上の社会的に弱い立場にある「国民」を指していたのではないでしょうか。当時の小沢 一郎氏の談話等を読む限り私はそのように受け止めています。その姿勢に私自身も一瞬大きな期待を寄せていたのですが、今やその精神は雲散霧消の状況にあるようです。

 権力を有する側が斯様に「国民」なる抽象的な言葉を扱う際には、注視が必要であることを改めて強調しておきたいと思います。自身がいつも気を付けているその他の言葉として、「国」と言う言葉があります。「国」と言う言葉も概念が広く、時には一般市民としての国民もその範疇に入ることがあります。ですので、私はその言葉をなるべく使うことなく、政府と言ったり、行政と言う具体的な表現を常に心がけている所です。

 「また、『20カ国・地域(G20)首脳会議に行き、世界経済が不透明な状況の中で日本としての立場を明確に打ち出さないといけない』と述べ、18日からメキシコで開かれるG20首脳会議への出席に意欲を示した」※。斯くの如き首相が、諸外国から尊敬の念を得て、リーダーシップなど図れることは全く持って期待できない。これもまた自明の理です。


※『朝日新聞』2012年6月9日



理念なき実践の結末

2012/04/17 00:33:16  社会全般
昨今はこの高速艇に大変お世話になっております。今ではすっかりと乗り慣れました。
 昨今の政治・経済を端から見ていると、全てにおいて理念や目的の欠如が伺えます。

 社会保障費を目的に消費税を増税する。否、今は景気が低迷しているので時期尚早だ。そうだ、これでは選挙に勝つことができない…。政界においては、税と社会保障についての議論が御盛んですが、そこに崇高な理念を感じることが全くありません。ではなぜ、社会保障費が必要なのか、と言った目的についての議論がなされている様には見えませんし、その場限りの場当たり的な議論に終始しているようです。飽く迄も、素人見解ですが、社会化された人々の生活に課題が発生した際、それを社会的責任の下、支え合う仕組みが社会保障であり、それは確実に格差の是正に繋がる営みであると認識しております。社会保障の一つの役割は格差是正にあると若輩は認識しております。問題なのは、格差是正の仕組みとしての社会保障を目的として、格差の増大を促進するであろう消費税の増税を行う論理的破綻に多くの人々が異議申し立てをなさない点にあります。税の基本は累進課税です。多くの収益を上げている人は、社会の中で一定の恩恵を受けているからこそその収益を上げることができます。また収益が上がるか上がらないかは、多分に社会の情勢・時勢にその影響を受けているものです。ですので、その分それは社会に還元すべきであり、多く“儲けた人”は、その分多くを“収める”ことでその“儲け”を社会的に承認されることが許されるのだと認識しています。アメリカのハーバード大学では、サンデル教授が大人気だそうですね。この点をもって、時代の変遷に気づいたところです。消費税はその真逆の発想を持つ税であり、こちらは逆進性の課題をもっていると言われています。これは累進課税ではなく、金持ちも貧乏人にも均等に課せられる税なのです。単純に言えば、年収700万円以下の人々は、消費税を増税されれば生活が苦しくなり、年収700万円以上の人は所得税を増税されると懐が痛む構造となっています。つまり、消費税の増税は確実に格差を増大させることが明確に理解されます。そしてその格差を抑制する社会保障費の確保を目的に、格差を増長する消費税の増税を図るというのです。

 外交にしても然りです。北方領土問題にしても、沖縄米軍基地問題にせよ、全て場当たり的で理念が全く見えません。人口減少社会に突入し、経済大国から一歩後退しつつあり、しかも資源を持たない我が国にとって、将来武器となるのは、軍事力や経済力ではなく、技術・知識・思考力等の目に見えないものに価値を求めそれを高めることではないでしょうか。特に他国に負けない優れた理念を持ち、それを貫徹する実行力を見せつけることが、外交には欠かせないと認識しております。残念ながらそれが感じられないのです。

 目的や理念を決めることには膨大な時間と労力が不可欠でしょう。今社会全体が、実はそれを非常に惜しんでいる様に見受けられます。すぐに答えが出なければ不安になるのか、即座に結果や、見返りを求めたがる社会になっている様な気がしています。即効性の無いものや、短期的に生産性の低いものを軽んじたり、馬鹿にしたりする風土が醸成されているのではないでしょうか。事実、大学では、人文学や社会科学系を志す学生が減少傾向にあると聞きます。就職に不利な結果が出ているからだとか。しかし、今最も大事な視点は、社会を捉え、自らの人生をじっくりと腰を据えて考え抜く力であると認識しております。私は、科学の発展と人文学の発展は、反比例の関係にあると予てから考えておりますが、人文学が停滞・衰退した今こそ、その重要性に着眼すべきではないでしょうか。

 「技術はどんなに高まろうと、目的の下にある」※。大学時代にこの詞集を拝読して以来、いつも記憶に残っている成句です。目的即ち理念なき技術は、その意味を成さないばかりか、時には害悪になり得るものであることは歴史が証明している事実です。原子力技術は、今どのように生かされていますか?かつての本ブログで、科学者がその技術を革新させるには、そこに理念や目的が無ければならないと書きました。その技術が社会にどのような影響を与え、そして使われるのか、そのことにまで責任を負わなければそれは知識人としては失格だと。理念なきテクノロジーは暴走する。これも私の恩師の口癖ですが、全くその通りですね。

 私たちは、時間と労力を惜しむことなく、理念について議論を交わす必要があります。場当たり的、近視眼的な実践では、これ以上社会は持たないように認識しています。私も今一度考えてみたいと思います。私は、何のために生まれ生き、そして何のために働いているのか?


※むのたけじ氏『詞集 たいまつ』評論社 1997年6月 P.13.



従来の生活と生きていた証を立てるために

2012/03/12 00:02:32  社会全般
母校と関係の深い妙心寺。
 東日本大震災から1年となる今日、政府主催の「追悼式」が東京(国立劇場)で開催されました。朝日新聞によれば、そこで野田総理は3つの誓いを立てられたそうです。

 「一つ目は、被災地の復興を一日も早く、成し遂げることです。
 今もなお、多くの方々が不自由な生活を余儀なくされています。そうした皆様の生活の再建を進めるとともに、生まれ育ったふるさとをより安全で、住みよい街として再生させようとする被災地の取り組みに最大限の支援を行ってまいります。
 原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします。
 二つ目は、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくことです。
 自然災害が頻発する日本列島に生きる私たちは、大震災で得られた教訓や知見を、後世に伝承していかなければなりません。今般の教訓を踏まえた全国的な災害対策の強化を早急に進めてまいります。
 三つ目は、私たちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないことです。
被災地の復興には、これからも、震災発生直後と同様に、被災地以外の方々の支えが欠かせません。また、海外からの温かい支援に「恩返し」するためにも、国際社会への積極的な貢献に努めていかなければなりません。
 我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしてまいります」※1。その後総理は、首相官邸にて記者会見を開き、交付金配分の見直しや瓦礫の処理、原発再稼働の地元理解に向け先頭に立つこと等についてその決意を語られたそうです。

 この日各政党が震災一年で談話を発表していますが、民主党はこの追悼式の挨拶及びその後の記者会見を談話に代えるとのことです。つまり、民主党の震災一年の談話がこれにあたります。

 私はこの談話に強い違和感を抱きます。何か大きなことが抜けているのではないでしょうか?なぜ、野田総理は原子力政策に対して方針を明示しないのか。本日の記者会見でも、原発の再稼働を急ぐ姿勢を見せていましたが、菅直人前総理から引き継いだ脱原発依存の方針はどこに行ったのでしょうか。震災から1年経つ今も、放射能は垂れ流され、一向に終息の目途が立っていない福島第一原発を目の当たりにしながら、なぜ脱原発の方針を強固に打ち出さないのか理解に苦しみます。

 ピンチはチャンスの観点に立てば、この度の震災でお亡くなりになられた方、そして生活を奪われた方々のその痛みから得た“学び”を子孫に残していくことが私達には強く求められているはずです。一つは自然災害に対する防災体制の確立は言うまでもありません。災害に強いまちづくりも一つのテーマとなるでしょう。しかし、人災としてのこの原発事故に関しては、検証を重ね猛省の上、大きな方針転換を行うことが自明のはずです。方針転換として残された選択肢は脱原発しかありますまい。それをしなければ、この人災によって生活を奪われた福島県民を中心とした国民に政府は何と言って詫びれば良いのでしょうか。

 本日発表された政党毎の談話を見れば、脱原発社会を明示したのは社民党の1党だけでした。政府と言うよりも、政治そのものに強い不信感を抱いてしまいます。

 昨夜から京都市内に滞在していましたので、本日久しぶりに『京都新聞』を手に取りました。京都府下には原発の無いせいか、非常に歯切れの良い論調で、脱原発の方針を示さない野田政権を社説でぶった切っていました。国民の側に立って権力に立ち向かうジャーナリズム本来の姿勢が伺えます。

 「原発事故がもたらす計り知れない災禍を直視すれば、この国が取るべき道は、脱原発しかあるまい。多くの国民が望む方向でもあろう。
 再稼働を急ぐ前に、野田首相はやるべきことがある。国政の太い柱として脱原発を打ち立て、めざす道筋を示すことだ。(中略)
 野田政権も脱原発の方向だけでなく、ゴールを掲げる必要がある。この目標があればこそ、原発を減らしながら電力供給の策も立てられる。
 国内の原発54基のうち、現在運転中は2基だけだ。関西ではゼロ。それでも暖房に電気を使う冬を、乗り切れそうだ。電力各社が電力不足を訴えた昨夏も、事なきを得た。
 企業や家庭での節電、自家発電の効果もあったろう。いずれにしても、原発ゼロの社会が絵空事ではなく、その気になれば手に届きそうな社会であることを実感できた。その意義は大きい。
 原発は54基も必要だったのか、との疑問も湧いてきた。
 原発がむやみに電気をつくるから、エネルギーを浪費する社会になっていなかったか。まず、そこを反省するのが、脱原発社会への一歩だろう。(中略)
 それでも原発は危険であることを、忘れてはならない。原発の経済的優位性をいくら言い募っても、事故を起こせば取り返しがつかない。福島第1原発事故で痛いほど分かった。(中略)
 福島第1原発事故を受け、これまでの原子力政策を根本的に改め、再生エネルギーへかじを切ってもらいたい。ところが、野田首相の方針は見えにくい。もう一度言うが、脱原発をはっきり掲げるべきだ。
 原子力政策の大きな柱である核燃サイクルに、もっと目を向けたい。原発で使ったウラン燃料を再利用する。福島第1原発事故で使用済み核燃料がプールに貯蔵されていたのが分かった。
 高速増殖炉原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)では、核燃料を再処理したプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料を使うが、1994年の初臨界後は事故やトラブル続きだ。研究開発費など9400億円、運転中止中の現在も年間200億円前後の維持管理費がかかっている。
 青森県六ケ所村の使用済み核燃料の再処理工場は、着工から18年経っても完成していない。投じた国費は2兆円を超す。
 いずれも廃止すべきだ。いずれ原発をゼロにするのに、存続させる意味は全くない」※2。

 「原発の経済的優位性をいくら言い募っても、事故を起こせば取り返しがつかない」。世界中を探しても、これほどハイリスクな事業が何処にあるのだろうか。リスクマネジメントの観点から言えば、事故はゼロにはならないのが自明の理です。しかし、原発にはそれが許されない。万が一の事故すらも許されない非常に危険な事業なのです。成り立つ訳がないと自身は認識しています。

 本日の『京都新聞』では、もう二つの示唆が存在しました。一つは、国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長が、10日に共同通信とウィーンのIAEA本部で単独会見を行った記事です。そこで天野氏は、この度の事故拡大の背景に国の「東京電力に対する監督不足など『数々の人為的ミスがあった』と強調」、「事故で世界の原発への信頼は大きく損なわれたとし、日本国内での原発建設をどうするかは日本の判断としながらも『日本では(運転停止中の)原発の再開さえ難しい。新規建設が困難なのは分かる』」と語られたそうです※3。

 また別の記事では、「福島事故後も原発増加」と題し、中国やインドなどの新興国を中心に、依然として原発建設が急ピッチに進んでいる世界の情勢について知らせています。前出の天野氏も「事故後も、原発を持つほとんどの国が施設の稼働を続けている」との見解を、世界原子力協会(WNA)のイアン=ホアレーシー広報部長は「福島の事故後、各国の政治家が原発の稼働停止に言及したが、現実は違う」とした上で、「世界の流れは変わっていない」との意見をそれぞれ紹介しています※3。

 我が国で生活を奪われた方々に思いを馳せれば、私たちの取るべき道は然程難しくは無いと認識しています。今こそ日本が脱原発社会の構築を率先垂範すべきではないでしょうか。ヒロシマとナガサキを経験した私達こそが、脱原発を強固に宣言し、世界をリードすることに大義名分があるはずです。我が国が世界をリードする絶好の機会が“ここ”にあるのです。

 沖縄の基地問題も然り、原発を誘致して数々の補助金や交付金を受給しても、それが真なるまちづくりには繋がらないことは、ソーシャルキャピタルや地域福祉分野においては自明の理です。そんなものは断固と拒否することから、真なるまちづくりは始まることでしょう。

 ピンチをチャンスに変え得る機会は今目の前にあります。残念なのは、そのぶら下がっているチャンスに気が付かないことではないでしょうか。野田政権は時代の流れに逆行するべく、原発の輸出にご熱心なのだとか。今の福島の状況を目前に、他国にその輸出を行う論理的思考や人文レベルの低さと、哲学の不在を政治に対して感じる私にとっては今日が節目となったようです。

 この度の震災において、傷を負われた全ての方々を思い妙心寺にて今日は御祈りを捧げてきました。私たちが成すべきことはまだまだ沢山あることを改めてお誓い申し上げます。合掌。



※1 『朝日新聞』2012年3月11日
※2 「社説」『京都新聞』2012年3月11日
※3 『京都新聞』2012年3月11日



NPO法人の新会計基準に対する疑問

2012/03/07 16:36:08  社会全般
地域福祉センター鹿川 冬祭りの打ち上げにて。ブログにアップされることを願っていらっしゃるようでしたので…。約束通りアップしておきます。


 「特定非営利活動促進法(NPO法)改正に関する説明会」(広島県主催)が昨日福山市内で開かれました。当法人もNPO法人ということもあり、また旧来より社会的企業やコミュニティビジネスに関心のある身でもありましたので進んで参加させて頂きました。

 法律が改正されることの説明が専らだったのですが、NPO法人新会計基準の説明に入った途端、私の中に猜疑心と不信感が芽生え始めました。引っかかったのは「ボランティア受入評価益」という勘定科目です。資料によれば「提供を受けたボランティアからの役務の金額を、合理的に算定し外部資料等によって客観的に把握でき、ボランティア評価費用と合わせて計上する方法を選択した場合に計上する」とあります。つまり、ボランティア活動で得た人件費等の見えにくい利益を数値化して決算書に挙げるという発想です。もちろんそれに伴って発生する経費は、「ボランティア評価費用」として計上するのだとか。

 質疑応答の場で以下のように質問させて頂きました。NPO法人の活動はその社会性の高い理念がゆえに、目に見えない経費を払いながら多くの社会貢献活動を実践している。目に見えない数値化しづらい活動経費は数多ある。その中で、ボランティアの受け入れに関する利益とその経費にのみ焦点化して数値化する根拠を示していただきたい。また、ボランティア活動で得た利益を数値化し決算書に計上することで、決算書上の純利益等が実際の貨幣価値よりも大きな数字となることが予測される。そのことによって、NPO法人の財政状況は安定化しているので、公的支援は必要ないと判断される材料になりはしないかと危惧していると意見を述べました(述べた意見は議事録に残していただくよう要請しています)。

 担当者の回答としては、飽く迄参考基準なので、この勘定科目を強要するものではないとご説明いただけました。しかし、根拠の無いものを基準に入れるべきではないとお答えしています。これは県レベルの話ではないことは十分承知していますが、この間NPO法の動向に目を見張ることなく過ごしておりましたので、寝耳に水の状況で思わず質疑をさせて頂いた次第です。

 NPOは、市民が主体的にまちづくりを行うための強力な“武器”になることは否定しませんが、しかし、であるからと言って、政府や行政がNPOに公的責任を押し付けることにそれが帰結しては本末転倒です。公助をしっかりと担保しながらも、それでも不足する部分、更に充足させるために互助や共助があり、NPOの存在がそこで生きてくるはずです。

 NPO等のボランタリーな組織は、継続性や一定性もしくは専門性に弱いと一般的には評されているところです。そのような弱みをしっかりとフォーマルな公的機関で支援及び補完していく必要があります。ましてや、欧米、韓国のように寄付文化が確立していない日本社会においてNPOが自立していく素地は極めて脆弱であると言わざるを得ません。NPOの自立性や責任性を担保しながらも、政府や行政が、それを側面的に支え、保持していく姿勢も欠かせぬ重要な役割となるはずです。

 昨今では、「新しい公共」が叫ばれ出しました。しかしこの「新しさ」は、今までの公的サービスはしっかりと維持・継続されながらも、それに加えた形で、市民や事業者等が連携を図りより「豊かな」社会を構築するものでなければならないはずです。公的責任を減退させるために、共助・互助・自助を増幅させるためだけのものであれば、それは全くの「新しさ」を欠いた大時代の代物として世界の失笑を買うことでしょう。



中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
カテゴリ
<<2026年10月
MonTueWebThuFriSatSun
1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031
最新エントリ
最新コメント
ブログリスト
当サイトで使用されている全ての画像および文章を無断で複製・転載・販売することを堅く禁じます。
すべての内容は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。
Copyright 特定非営利活動法人 地域の絆 All Rights Reserved.

▲