「シュヴァイツァーは語る。『超個人的責任の圧力におされて私が合目的的なものに屈服すれば、私は生命畏敬への違反によって何等かの意味で罪責を負うことになる』」と。超個人的責任に従うことは、非利己的に行動することという考えから、倫理的と考えられがちである。『しかし、倫理的ということは、非利己的ということ以上のものである』。何らかの仕方で無用に生命を犠牲にするとき、私は倫理の内にはいないのであり、自分の存在ないしは幸福を維持しようとする利己的な罪責があるにせよ、多数の他の存在ないし幸福を維持しようとする非利己的な罪責があるにせよ、いずれにせよ罪責がある。われわれはこの倫理の峻厳さを行き過ぎと見なすかもしれない。しかし、『われわれの前の世代が社会を倫理的に理想化するという恐るべき過誤を犯した』というシュヴァイツァーの言葉に耳を傾けるならば、この倫理の峻厳さを厳粛に受け止めなければならない」(『人間と生命』河野真氏監修・田路慧氏編集 ふくろう出版P.121〜122)。
近代化を契機に、全世界的に、多少の犠牲はやむを得ないとの思想の下、少数派が切り捨てられ、排除され、近代化が成されてきた。障害者の処遇などは、その最たる事例であろう。日本はその点において、非常に後進的な状況にあるが、欧米の一部の市民運動の流れによって、全世界的にその流れは変わりつつあるように感じられる。
とにもかくにも、あらゆる物事には「正解」は存在しない。問題なのは、この自明の理を希薄化させ、「正解」がここにあるかのごとく吹聴する輩が多いことである。「正解」を「正義」となぞらえる権力者も米国にいた。「正解」に逆らうものを「抵抗勢力」と罵る権力者もわが国には存在した。特に、権力の側が「正義」「正論」「正解」を振りかざす時には、注視が必要だ。ないものを、権力が振りかざす時こそ、権力の暴走が始まるからである。
「正解」がないことを前提に、常に私たちの選択が合っているのかを厳然と問いかけて進んでいくこと、そのことの必要性を如上は訴えているように思われる。
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