過日といっても、もう数ヶ月前になるでしょうか。認知症ケアにおける大先輩が、下記のようなことを話して下さいました。
―――なぜ、あれほど高齢者がトイレに頻繁に足を運ぶのか?それは、排泄を失敗したくないという強い思い。つまり、人間として決して冒されたくない「聖域」としての排泄があり、それだけは絶対に失敗したくない強い思いから、前もって、前もって、トイレに行こうと行動されているのではないか?こういった心理状況は、その時(私たちがその年齢)になってみないと、実は理解できないことではあるまいか?その時になって初めて気づける事も多いと思う。
であるにもかかわらず、福祉専門職の中には、「あの人はきっとこう思っているのだ」「このようにして差し上げればいいのよ」とあまりにも、簡単に決めつける人が多い。―――
人の人生に関わる専門職としての福祉専門職が、自らの「業」に畏敬の念を持たず取り組む事ほど、恐ろしいことはないでしょう。
そもそも、フェルト・ニーズ(利用者が感じるニーズ)とノーマティブ・ニーズ(専門職が感じるニーズ)をすり合わせることで、福祉専門職が取り組むべきリアル(真の)・ニーズを導き出すと教科書には記載されていますが。これを導き出すことは、困難を通り越して、不可能ではないかと考えるのです。無論、対人援助職として、一定の目標設定がなされなければ援助は進捗しませんから、目標を設定すること自体は不可避な事ですが、それはあくまで、暫定的なものであり、便宜上のことではないかと思っています。
それほど、他者の人生は奥深く、把握が困難なものであると考えます。無論、人間は、他者の気持ちを全く理解できない訳ではありません。全く理解できないとしたら、映画も、小説も、そして、今私が書いているこのブログも不毛なものとなるはずです。「全ては理解することができないが、その一部は理解することができる」と私は考えます。つまり、人間は他人の思いを想像すること、察することが出来るのです。それこそが、動物の中で、人間が第一義的に優れた能力であると。
であるにも関わらず、やはり、他者の人生や、思いの全てを理解することは不可能です。そのことを前提に、常に、畏敬の念を抱きながら、これで良かったのかと迷いながら実践していくことが、私たちには求められている気がします。
「正解」や「正義」とは、常に一定の距離を置いてお付き合いしたいと私は考えます。
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