「無関心」であることの罪
年始の自室大掃除の際、学生時代ジャーナリストに憧れて以来ためにため込んでいるスクラップファイルを整理していると、マザー=テレサの訃報に関する記事が目に留まりました。マザー=テレサには、数多くの名言が残されていると聞きますが、私の記憶に最も残っている言葉は、「愛の反対は憎しみではなく、無関心」というもの。この言葉はあんがい奥深く、G.ジンメル(100年前のドイツの社会学者)の言うところの「排除されていないものは包括されている」の意味と内容的に一致するものであると認識しております。
つまり、学校でいじめにあっている子どもと、いじめている子ども、両者を傍観している子どもの「3者」という捉え方はそこには無く、傍観している子ども(「排除されていないもの」)は、いじめている側に「包括されている」と捉えますので、両者を傍観している者は、いじめる側に加担していると捉えられます。これは社会学的には、常識的な見解であると私は認識しております。
つまり、大きな力と声を出すことのできる一部の人たちに対して、声を出さずに傍観しておっては、その声が普遍化してしまい、その結果、声の小さい・力のない少数の人々の声はかき消されてしまうということです。
その意味においても社会福祉従事者の使命は、声なき声・小さな声の代弁者として、普遍化されている大きな声に対し、異議申し立てをすることにあると認識しています。ただ無関心に傍観していることは、少数の小さな声を、無意識とは言え排他・排斥してしまう罪責を負いかねません。「無関心」であることは罪であることを、自身もここで、今一度再認識したいと思います。
―――彼女(マザー=テレサ)は訪日した際に、次のような言葉を残したという。「日本人は物質的には豊かです。しかし、弱い人や貧しい人に無関心です」(1997年9月14日毎日新聞「社説」より)。
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