地域の絆には、制服がありません。利用者と職員の関係は、「お世話をされる側」と「お世話をする側」の関係が固定化されているのではなく、利用者も「お世話をする側」に回ることがあり、そのような自己有用感や、役割意識、達成感を利用者自身に持っていただくことが重要であると考え、「される側」と「する側」の固定概念を取っ払うことを主目的としております。また、小規模で「家庭的」な環境を鑑みると、職員全員が同じ服装をしている状況は少し異常な感を受けてしまいます。
また、職員のファッション(服装や髪型等)に対しても特に決め事は設けておりません。「利用者の安全が確保された服装や髪型であれば良い」としているのみです。金髪・茶髪でもOKなのです。ただし、もう一つ条件がありまして、利用者・家族から「あの格好はだらしない」と指摘を受けた場合は、強制的に服装・髪型を改めてもらうことにしています。
茶髪=「だらしない」という感覚は、偏見以外の何ものでもありません。しかし、社会全体にその偏見が蔓延しているのであれば、それでも敢えて茶髪を貫くのであれば、偏見に負けない理論と「人格」を備えるしかありません。
私がこんなことを考えるようになったのは、今から8年前あるイタリア料理店で食事をしたのがきっかけです。そのお店の店員さんは、非常に個性的なファッション(金髪の髪型やピアス等)の方が多く、お店に入った途端少し圧倒されてしまいました。しかし、その感覚はその後数分で無くなりました。とっても素敵な笑顔と、タイミング良く配慮された丁寧な接客に対して、私の偏見はどこかに消え去ったのです。その後、非常に心地よい時間を過ごすことが出来たのを今でも鮮明に記憶しています。
如上の経験から、偏見に打ち勝つだけの理論と「人格」を備えておれば、茶髪であっても問題ないと考えるようになりました。それこそが「自己責任」であると。自分の個性を貫くファッションをしたければ、社会の偏見に打ち勝つ理論と「人格」を持っておれば良いのです。そうすることで、「だらしない」「品格がない」といったレッテルを張られなくてすむのではないでしょうか。
また、自身の個性やファッションを尊重できない職員が、利用者のそれを重んじることは難しいのではないかとも考えており、職員のファッションは原則「自己責任」としているのです。職員の「個」の確立なくして、利用者の「個」の確立支援は困難であると認識しています。
ところで、バンクーバー五輪で問題となっている国母和宏選手のファッションの問題は、どのように考えるべきでしょうか。「国母選手はバンクーバー入りした際、ネクタイを緩めてシャツのすそを出し、ズボンをずり下げ、鼻にはピアスをつけて空港に現れた。10日の記者会見では『反省してまーす』と語尾を伸ばして発言、JOCに苦情電話や批判のメールが集まった」(京都新聞2010年2月14日)。
スノーボードとストリート系のファッションには、相関性があると言われていますので、上記のファッションはそれにあたるように見受けられます。よって、そのことに対する一方的な「代表の品格がない」といった非難は、偏見以外の何ものでもないと荼毘に付すことも可能です。しかし、10日の記者会見での対応を見る限りにおいては、社会の偏見に打ち勝つだけの理論と、「人格」を備えていないことが露呈したようです。この点だけが、惜しまれてなりません。
欧米のように個人主義が発達していない我が国においては、個性を貫くこと自体が容易ではないようです。そこには、決してぶれることなく隙の無い理論の確立と、強固な人格の形成が不可欠なのです。
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