1998年度より10年以上に渡り、年間3万人以上の自殺者を生み出す我が国は、世界より、「自殺大国」という汚名を着せられています。大体一本のブログを書くのに私は20分程度要していますから、この本文を書き出して書き終えるまでの間に、わが国では一人の方が自殺をされている計算になります。果たして、そんなことがあっても良いのか。許されることなのか。福祉専門職として、よく自問自答する事柄です。
発生率の高さと、その数の多さから鑑みると、これは明白な社会問題です。社会構造が人々をそのような悲劇へと導いていると言えます。その構造のあり方を変革しなければ改善し得ない問題であるとも言えるでしょう。「求職者向けにハローワークで心の健康相談に応じられる体制を整備」※1するなどは、無効だとは申し上げませんが、対処療法にすぎぬ施策であると認識しております。自殺をされた方や、精神疾患の方々の対処能力・ストレス耐性・コミュニケーション力に問題があるのではなく、むしろ社会がそのような方々を生み出していると鑑み、その構造にメスを入れていくことがより本質的な問題解決へと繋がるような気がしています。
素人考えでは、格差社会や、地域力の低下、医療・社会福祉体制の不安定化、セーフティーネットや年金問題を含む社会保障制度の不備等が大きな要因となると分析していました。
ところがもう一つ、9月7日夕方〜8日にかけて報道された「自殺・うつ 経済損失 2.7兆円」※2の記事を読んで、実はある要因に気づくに至りました。各記事では「日本国内の自殺とうつ病による経済損失は年間2兆7千億円」※2とし、「具体的な数値を示すことで、自殺と精神疾患に関する対策を推進する狙い」※2と書かれています。また、「今後、自殺やうつ病がなくなった場合、2010年での国内総生産(GDP)の引き上げ効果は約1兆7千億円に上るとの推計も公表した」※1とのこと。本発表は、「長妻氏(厚生労働大臣)が指示し、推計は国立社会保障・人口問題研究所」※1が行ったものです。これら一連の調査や発表の意義深さは自明の如く感じるのですが、やはり私は腑に落ちません。
人の命はお金では測れないという、大前提が稀薄化しているようにしか思えないのです。要するに、GDPが上がろうが下がろうが、人の命を大切にしなければならないという自明の理が崩れているように見受けられます。
厚労省が、経済的損出を発表することで、「自殺者と精神疾患に関する対策」※2を推進することを戦略化していることには理解が出来ます。問題なのは、そうでもしなければそれが「推進」できない社会の構造にあるような気がするわけです。まさに、経済至上主義の中、全ての指標を経済で推し量り「善悪」を判断することに限界が来ていることを示唆する事例です。
たとえ経済的な効果が見込めなくとも、人の命は守らなければならない。この至極当たり前の共通認識に、社会全体が立ち返る必要性を感じています。いみじくも、まちづくりのために読み漁っているソーシャルキャピタルの本には以下のように書かれていました。少し長くなりますが、引用しておきます。
「人間の価値観、つまり経済学でいう嗜好は相対的なものであり、時とともに変化する。(中略)内風呂があたりまえの世界では、風呂があったからといって効用が上昇することはない。つまり風呂を作ってGDPが上がっても人々の効用は改善しないのである。内風呂を車や住宅に置き換えてみても同じである。物質的豊かさは重要だが、ある水準を越えると相対的なものになり、必ずしも人々の満足度の改善をもたらさない。(中略)こうしてみると、逆に、本来満足度を高めるはずの消費も、他人と比較してしまいかえって不幸になることさえある。「誇示的消費」の競争が起これば、豪華な装飾品を購入しても友人がさらに豪華なものを購入すれば、かえって敗北感を味わうだけかもしれない。(中略)いずれにせよ、GDPは増えても、幸福度は増えないどころか減少するのかも知れない。つまり、幸福感や満足度は社会・経済の変化に応じて変化し、しかも相対的なものである。これは多くの庶民にとっては自明のことだが、経済学では自明ではない。内風呂や車、宝石などの財(goods)が増えれば人々の満足度は必ず増すというのが伝統的経済学の基本的な考え方である」※3。
※1『中国新聞』「自殺・うつ 損失2.7兆円」2010年9月8日
※2『日本経済新聞』「自殺・うつ 経済損失2.7兆円」2010年9月7日(夕刊)
※3稲葉 陽二氏『ソーシャル・キャピタル 〜「信頼の絆」で解く現代経済・社会の諸課題〜』生産性出版 P.20-21 2009年12月
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