民主主義社会においては多様な価値観が尊重されているはずです。社会構造の捉え方も当然様々ですが、私は以下の論理に共感を持つ者です。
「歴史家A・トインビーは『歴史の教訓』と題する論考で、英国人が歴史の中で学んだことは『君主制と共和制の血なまぐさい闘いを通じた節度を重んじる穏健な態度の重要性』と『米国の独立戦争などを通じた植民地主義の限界についての認識と自治容認の大切さ』の二つであり、全人類が歴史の教訓として学んだことは『一人の人間が他人を支配し所有する奴隷制はよくない』ということだと言及していた。
21世紀に入り、歴史はさらに進化している。混迷しているかに見えるが、大国や特定の権力が支配し秩序を維持する時代から、多くの参加主体が自己実現を図る『全員参加型構造』へ静かに移行しつつあるということだ。つまり、この10年で世界が学んだことは『力の理論の限界』ということである。力の理論で自国の利害を実現しようとしても、結局は反発と消耗を招き、孤立するということである。
(中略)全員参加型秩序においては道筋の通った理念性が重要になる。参加者が限定された先進国主導の合意形成と異なり、多くの参加者が丸テーブルを囲む会議においては、参加者の納得を得られる『中心となる価値』の発言力が求められる。
(中略)本来、グローバル化とは特定の国の覇権による均質化ではなく、多様な参加主体による多次元な交流を志向するものであろう」※1。
このことは、一国内における社会構造についても同様のことが言えるでしょう。今まさに全員参加型の社会構築が求められているのです。特定の企業や機関、政治家や官僚が中心となって社会構築を行うのではなく、老若男女問わず、健常者、障害者を問わず、国籍を問わず、生活歴を問わず、全ての市民がその多様性を認め合い、それぞれが社会構築の主体性を発揮していく、そんな社会の在り方が求められているのでしょう。これはおそらく全世界的な潮流であると私は認識しております。
我が国においても、過去の高度経済成長では、正の側面のみならず、負の側面として特定の人々の犠牲を強いて“成長”してきた歴史があります。現在はどうでしょう?
全員参加型社会とは、そのような市井と決別した社会を指すのだと認識しています。「多少の犠牲はやむを得ない社会」から、「多少の犠牲も許さない社会」への変遷が求められているのです。それが全世界的な流れであり、人類が生きながらえるために取るべき道であると私は考えます。
そして、社会福祉専門職はまさに「多少の犠牲も許さない社会」構築を最前線で担っている専門職なのです。時代の潮流を読めば、今まさに社会福祉専門職こそがその中心的役割を担う時期に来ています。
その潮流の促進者と化してこそ、私たち社会福祉専門職は100年先に評価を受ける専門職となれるのです。以下は、中曽根康弘元首相の言葉だそうです。
「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれることでのみ、評価される」※2。
※1 寺島 実郎氏「サンデーオピニオン」「今を、読む」『中国新聞』2011年1月16日
※2 『毎日新聞』東京 2011年2月16日
コメント
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こちらこそ有難うございました。
白仁田ご夫妻であれば、「移転」を新しいチャンスへと変遷させることがきっとできると認識しております。
また新たな地域で、新たな体験が待っているはずです。そのご経験がさらにご夫妻を高みに誘うものと推察致します。
こちらこそ、今後ともご指導・ご鞭撻のほどお願い申し上げます。