同志社・早稲田・立教・京都大学の入試問題を試験中に「質問サイト」に投稿した問題で、19歳の予備校生が偽計業務妨害容疑という聞き慣れない罪名で逮捕されました。若輩もちょうど忙しい最中ですが、連日連夜の報道番組で否応無くその要旨は理解しているところです。福祉専門職として、社会学を若干かじった者として、思うところが少しあって今これを打っています。
「偽計業務妨害が法律論的に成立するのは分かるが、大学側の落ち度が問われないのは違和感がある。逮捕された男子予備校生が言うように本当に1人でやったのであれば、入試の監督者は相当怠慢で、気付かないのが異様だ。京都大もほかの大学も、全面的に自分たちが被害者という意識で警察に相談しているが、監督責任者らの処分がないのはバランスを極めて欠いている」※1や、「(石原慎太郎知事は4日の定例会見で)『世の中はものごとがすすんだ。携帯の持ち込みを制限するなどの措置を講じなかった大学当事者の方が時代に遅れている』と試験監督のあり方に対する大学側の認識の低さを批判した」※2といったものは尤もな言い分であると認識しています。つまり著しくバランスを欠いていると。端的に申しますと、19歳の未成年者に対して少し懐が狭すぎやしないかと認識しているのです。少し特異なものを見つけると、それを際立たせて取り上げるマスコミの陋習の様なものも感じてしまいます。以前私と同世代のIT企業家が、時代の寵児と扱われていたのが、一変手のひらを返したように集中攻撃を受けていた光景と相通ずるものを感じてしまうのです。私としましては、19歳の若者にもう一度チャンスを与えることのできる懐の広い社会のあり方を切望します。
そして、もう一つ感慨深く思う点は、私たちは一体何のために勉強をしているのかという問題意識にあります。今回の不正によって、真摯に入試に臨んだ受験生からは激しい憤りのメッセージも寄せられています。それも尤もな感情だと認識しています。しかしながら、誰かを蹴落とし、蹴落とされる為に勉強があるとすれば、それは何か違うのではないかと私は思うのです。
なぜなら、本来の勉強とは、人々を幸せにするための叡智を培うものだと認識しているからです。人々とはあらゆる全ての人々を指すと私は理解しています。あらゆる人々が幸せになるための叡智を培い、その実践を通してあらゆる人々を幸せへと導くものが勉強であるはずです。その実践は絵空事の様で難しい。しかし、それを勇気を持って諦めずに探し求めるのが勉強であり、学問であると私は強く思います。
そう考えると、大学受験に至るまでの勉強は、本来の勉強とは一線を画したものとなっているのではないかと心配になってしまいます。記憶を頼りに、知識を詰め込むだけの“勉強”になっているのではないでしょうか。その様な“勉強”の果てに真の知識人が創造されないことは自明の理と言えます。
「私は本来的には『物知り』『情報通』であることと、『知性』とは別物だと思います。『know』と『think』は違うのです。『information』と『intelligence』は同じではないのです。(中略)人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのでしょう」※3。
自身のことを振り返って考えます。中学校時私は歴史という教科が大好きでした。当時、多弁で、多動な私は、授業中に積極的に発言し、授業“妨害”を繰り返す常習犯でした。特に国語と歴史の授業にはいつも熱が入ってしまい、発言の多い私に対して、「お前、代わりに授業するか?」とよく先生からお叱りを受けたものでした。
その様な私も試験になると、中々思うように点数が取れません。歴史は年表を覚えるのが専ら嫌いでしたし、国語では、筆者はもっと異なることを私たちに伝えたいのではないかと彼此想像することで時間以内に解答をすることが殆ど出来ませんでした。先生もなぜ点数が取れないのか、不思議がっていたようです。
しかし今は、その理由を自分なりに説明することが出来ます。つまり、大学までの勉強は記憶をインプットしてアウトプットする能力が問われていたのだと。本来は、歴史の年表を覚える能力と、歴史の勉強に必要な能力は別なところにあるはずです。真なる歴史の能力とは、どの様な社会的背景をもとにどの様な人々がどの様な行動を起こしたのかを分析し、延いては、同じ過ちを現在・未来で起こさぬためにはどのような社会構築と行動選択が求められるのかを明示していく力を指すのだと認識しています。私はその様なことを想像することが大好きな学生でした。その折は、ワクワクして夜も眠れなくなるのです。しかし、歴史の年表を覚える能力は、如上の能力と別のところにあることは容易に理解されます。
以上を考えると、真なる勉強とは、自ら考え想像すること、そしてやがて創造することにあることが理解されます。適切な選択肢を選ぶ能力ではなく、新たな選択肢を自身で創り出す能力が求められているのだと認識しています。その能力を培うことでこそ、国際競争社会で対等に渡り合える強靭な社会人を創出することが出来るのではないでしょうか。
もちろん初期の勉強にはインプットとアウトプットが不可欠な側面があります。しかしそこに傾注していては、真に強靭な社会人を養成することは出来ないと考えます。であれば、大学受験の段階においては、逸早く記憶を試す問題と決別し、絶えず問い続けてきた自分の考えをまとめて話す面接の機会や、自身の考えを文章で表現する小論文の機会を多分に増加させるべきではないでしょうか。
若輩も非常勤ではありますが、大学生に試験問題を作成する機会を頂いております。私の問題は、全て論述であり、しかも自身の現時点での考えや思いを吐露させるものです。あくまで自身の言葉で表現させることに重きを置いています。ですので、カンニングのしようがありません。
真の勉強とは、本来カンニングの出来ないものです。なぜなら、正解の無い問題を解くのが勉強だからです。そこで大事になってくることは、自身の思いや考えを、他者に伝える能力ではないでしょうか。そのためには、画一化されつつある自身の思いや考えにしっかりと耳を傾けて聴いてやれる機会を教育過程の中で担保する必要があるのでしょう。数年に及ぶ非常勤講師活動の中にあって、学生の自身の考えや思いの表出力が減退傾向にあることを毎年実感しているところです。
真に強靭な社会人を養成するためにも、大学入試では、カンニングの出来ない問題の出題を願うところです。因みに私が入学した花園大学。当時は小論文が高配点の入試形態をとっていました。これがなければ、私は確実に大学には行けなかったと“自負”しております。
※1尾木直樹氏「識者談話」『中国新聞』2011年3月4日
※2『産経新聞』3月4日(金)
※3姜尚中氏『悩む力』集英社新書P67-69 2008年7月
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