本日は京都に来ていましたので、地元紙の京都新聞を早朝読んでいました。ジャーナリストを志していた折、入社試験の二次選考で落ちた会社です。
「天眼」というコラムにて、大阪大学総長の鷲田清一氏の文章が掲載されていました。原発に関する記述です。「(原発の脅威を)ほんとうはすでに知っていたはずだったのだ。チェルノブイリでの爆発のとき、東海村での臨界事故のとき。いまは亡き高木仁三郎らによる再三の警告、不屈の警告にもふれていた。が、焦らなかった。それらをきちんと受けとめず、それらにしかと耳を貸すこともなく、『豊かな』電力供給に浴してきた私たち…。
見えているのにだれも見ていないことがあること、そのことを有無を言わせず見せつけたのが、今回の事故だった」※。
「ほんとうはすでに知っていた」「見えているのにだれも見ていない」。本当でしょうか?原発の脅威やその危うさを多くの市民は知っていたのですか?では、高木仁三郎なる科学者を皆様ご存知でしたか?ジャーナリストを志していた私は、もちろん存じていますが(私と同じく離婚歴がおありであるということも知っています)、多くの国民はご存じなかったのではないでしょうか?それでいて、知っていたことを前提に、国民の普遍的な責任にされては少し困惑しませんか?それは、私だけでしょうか?
申し上げたいことは、真実は、多面的な視点から捉えて初めてその把握に近づけることが出来るということです。原発の問題に関しては、CO2を出さない、化石燃料を使わない環境に優しいという一側しか、多くの市民は知らされていませんでした。社会構造上、原発推進に優位な情報ばかりが、流されていたことが大きな側面としてあります。
物事の真実を突き止めることは、おおむね不可能な作業であると私は認識しています。ただ、それに近づく努力を人類は惜しむべきではないとも考えます。その作業に必要な視点は、社会が普遍的に「普通」や「常識」と捉えている視点から全く異なる視点へと見方を移して、社会を捉え直すことにあると自身は考えています。1億8千万人の普遍的な価値など世の中には存在しません。その様な定義は、物理的にあり得ない代物です。「普通」や「常識」は、社会の優位的な価値規範として存在し、しかしながらそれは障害者や認知症高齢者のそれでは断じてありません。おそらく多数派のそれでしかないのでしょう。しかし、それは真実ではないのです。真実は、その真逆の視点からも、多様な角度から見てみて、初めて理解されるものだと若輩は信じています。その視点において、「普通」や「常識」はそもそもが偏向した存在なのです。
この度の原発においては、原発ありきの多数派の情報が優先されて流された結果、原発に偏った電力設備の投資が推奨されました。その意味において、これはジャーナリズムの敗北であったと私は考えます。
私はジャーナリストとソーシャルワーカーはその実践に多くの共通項があると認識してきました。また、そのような視点で、ソーシャルワークの実践を行っています。社会が普遍的に持っている「普通」や「常識」、「公理」といったものとは、全く異なる見方や考え方があることを世の中に提示することがその共通項であると認識しています。社会の「常識」や「普通」は、多数派のものであって、私たちが支援の対象としているクライエントのものではないことが殆どです。そう考えると、ジャーナリストの仕事は、多数派ではなく、少数派の声を拾い上げて世の中に伝えて行き、結果として、そのバランスの中でより真実に対する認識を社会に広めることにあると言えます。一方、ソーシャルワーカーは、生活課題を抱えていらっしゃるクライエントの視点に立ち、クライエントが自己決定を担保されながら自分らしい生活を送れるよう社会環境に対する働きかけを行う専門職です。クライエントの権利擁護を突き詰めて考える以上、社会変革へのアプローチは避けては通れぬ実践となるはずです。
双方共に、社会の主流として扱われない人々の声を代弁し、社会変革を促進するという点において大いに共通項があると信じてやみません。100人いれば、100通りの「普通」や「常識」がある。これが唯一の正答でしょう。であればこそ、1つしかないかの如き「普通」や「常識」に揺さぶりをかけることが、真実に近づく第一歩であり、クライエントの権利擁護にも繋がるはずです。
ソーシャルワーカーの仕事は、社会的弱者の側に立ち社会と対峙すること、変革を促進することにあります。ジャーナリストの仕事も、少数派の声を拾い上げ、それを社会に提示し、社会変革を促進することにあります。その営みを通じて、実は、多数派も自分らしく安心して生活できる社会の構築が望めるのです。
残念なのは、ジャーナリズムも、ソーシャルワークも、社会環境と対峙し、変革を促進する視点を失いつつある点にあります。ジャーナリズムは、批判的視点を欠落させ、大衆迎合的な報道が主流になりつつありますし、ソーシャルワークにおいても、70年代の障害者運動のような社会変革に繋がる実践が減退しつつあります。「普通」や「常識」とは異なった視点や小さな声を世の中に伝えなければ、それは真実の報道にはなり得ませんし、利用者の権利擁護は、社会構造と対峙し、変革しなければその実践は完結しません。ソーシャルワーカーの仕事は、クライエントの視点から社会を点検し、改善していくことにあると自身は信じています。
真実とは何か?利用者の権利擁護を全うするためには何が必要であるのか?ジャーナリストもソーシャルワーカーも、これからの歴史の中に、名を残すことが出来るのか、それとも藻屑と消え去るのか、今その岐路に立たされているのです。
※鷲田清一氏「天眼」『京都新聞』2011年5月21日
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