今になって菅直人首相の退陣論が激しく表出している世論。東日本大震災への対応の不備や、政治的リーダシップの不足において、マスコミからも退陣論一色の報道がなされています。この重要な局面で、またもやトップの交代、そして、ここ数年短期間でコロコロとトップが交代する国際的信用度の凋落。官僚が悪い。政治家が悪い。そして、政府が、首相の能力が不足している。全く好き勝手な議論が取り沙汰されています。
政治家、官僚、政府の要職についている人間と私たち一般市民の人権は異なります。これは民主主義の基本的な考え方に則れば、彼らに人権は狭く私たちに広いのは「常識」的な見解でしょう。つまり、現在の社会における閉塞感を生み出した直接の張本人は彼らであることは間違いありません。
そのことを大前提としながら、私は思うのです。この社会を構成しているのは彼らだけであって、私たちは全くそこに参画していないのか、と。官僚がいけない。政治家がいけない。政府がいけない。それは誰もが共感する事かも知れません。しかし、その社会を私たちひとり一人が構築していることを考えると、市民の責任も皆無では断じてないはずです。ましてや、政治家は選挙によって私たちが選択することができるのです。誰がこの政治家を選択したのでしょう。そして、非常に低い投票率の中、組織票で出来レースのように決まってしまう選挙に誰がしたのか。民主主義社会において、選挙に行かないことはその否定に繋がることは明らかですが、多くの国民は投票活動を拒否しています。
マザーテレサは言います。愛の反対は憎しみではなく無関心であると。そう鑑みれば、市民の無関心が、この国のトップの無能さを誘発しているとも言えるのではないでしょうか。
菅総理を挿げ替えれば、多くが上手くいくとは到底思えません。なぜなら、本質的な課題は、私たち市民自身が背負っていると私は考えるからです。その国の国民は、自らの民度を超える政府を持てないことは、もはや自明の理なのです。
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