社会福祉援助技術のテキストでは、専門職実践は4つの価値にある種「翻弄」されながら存在している旨の記載が目立ちます。4つの価値には、�\賁膺Δ硫礎諭↓∪賁膺Ω朕佑�持つ価値、��社会の価値、�そ蠡圧ヾ悗硫礎佑�よく挙げられています。そして、最も重要視しなければならないのは�,任△襪函�
当法人では、理念を創設した私自身が�,鮟斗彁襪靴討い泙垢里如↓,鉢い砲詫�念的には整合性が存在します。もちろん実践レベルにおいて、様々な齟齬が生じることはあるものの当法人の職員さんは、4つの価値に板挟みになるのではなく、3つの価値に「翻弄」されることになります。その意味においては、専門職として若干恵まれた環境にあると思われますし、そのような環境を法人としても作っていきたいと思っております。
しかしながら、ここでお伝えしておきたいことは、更にひとり一人に応じた多様な価値があるという認識です。過日から書いている原発の問題も、教育現場における偏差値システムも然り、電磁波の問題もそうでしょうが、まるで一つの価値しかそこに存在しない社会は実は脆弱であることはもはや自明の理ではないでしょうか。多数派の意見が実は必ずしも正しくはないことを原発の問題は顕著に示していますし、それは資本主義社会の力学的必然の帰結としての自明であると自身は考えています。
であれば、これからの社会構築は少数派の多様な意見を尊重するものでなければならないと自身は思います。それが社会福祉専門職の取り組むべき実践であるとも日々考えております。
因みに、冒頭の価値には一つ大事な価値が抜け落ちています。クライエント個人が持つ価値です。多様な価値を尊重する中に、この価値の尊重は欠かせません。自身の価値を尊重せぬ専門職にクライエントは信頼感を抱くことは無いからです。
しかし、これが意外に難しいのではないでしょうか。地域の絆の職員さんの実践を見ていてもそのように思います。私たちは、専門職として「こうあるべきだ」「○○しなければならない」という思い込みや先入観を強く持ってしまっているのではないでしょうか。例えば、クライエント同士が喧嘩をするのは止めて頂いた方が良い、糖尿病の方は甘いものを食べてはいけない、日中は離床を促進し座位を保たなければならない等々。どれも専門職として尤もらしいご意見として聞こえてきますが、そこには個別性が必ず存在するはずですし、これは専門職の思い込みに過ぎないことの自覚も不可欠です。
私たちは親子喧嘩や夫婦喧嘩をよくするものです。喧嘩を忌み嫌う方もいれば、それはコミュニケーションの一環だと思ってする人間も存在します。実は私は後者の人間です。糖尿病のクライエントは、甘いものが大好きだからこそその病気に罹ったのだとすれば、紋切り型に甘いものを食事から排すればそれはその人らしさの喪失にも繋がる実践にもなってしまいます。日中の離床はリハビリテーションの観点からは重要かも知れませんが、その日は一日一人で横になってボーッとしておきたい日もあるでしょう。私にはあります。
毎日外出に行かれるクライエントは、「徘徊」というBPSDではなく、それを自身の日課として行動されているのかも知れません。「徘徊」は良くないというのは、専門職の傲慢な思い込みに過ぎず、クライエントにとっては自身の思いの一つの表出方法を実践しているに過ぎぬこともあるでしょう。
何が正しくて、何が間違っているかは非常に難しい。であればこそ、その困難と向き合いながらも私たちは日々悩み・苦しみながらクライエントと向き合い、実践するしかありません。そこから逃げて、私たちの価値観でクライエントを推し量り、対応した方が、分かりやすく簡潔であるかも知れません。しかし、そこで悩むからこそ、私たちは発展し、専門職として大成していくのではないでしょうか。少なくとも自身はそうありたいと日々思っております。
「『淋しい人ね』老若男女を問わず、判でおしたようにこう言う。それを聞いているうちに、私は大きな違和感を覚えていた。確かにあの男は奇妙だった。だが、彼が淋しいかどうかは他人にはわからない。
人は人を『淋しい』と断定したがる。たとえば孤独死した人を、子供のいない夫婦を、孫のいない人を、過去の栄華とは遠い暮らしの人を、等々だ。つまり、ステレオタイプの『幸せ尺度』から外れている人を、『淋しい人』と鼻高々に断じたがる。
確かに、本人が望む生活と現在が違っていれば『淋しい』もあろうが、世の『幸せ尺度』に外れていても、本人は幸せという場合も多かろう」※。
※内館 牧子氏「あすへの話題」『日本経済新聞』(夕刊)2011年6月18日
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