「自己責任論」について社会で最も脚光を浴びせたのは、小泉純一郎元首相でしょう。アメリカがこれも論理的に破綻した戦争を仕掛けた帰結として、国際社会への貢献度の高い日本人数人がテロ活動に巻き込まれた際、元首相が発せられたのがそれでした。
当時から思っていたのですが、敢えて強く今以下のように認識しています。「自己責任論」は論理的に成立するのか?
若者が仕事に就けないこと、耐震力の低いマンションに住んでいること、多重多額債務に陥っていること、福島の第一原発の周辺に住んでいたこと、東日本大震災の被災地に住んでいたこと、ホームレス状態におかれていること、これらは全て個人の責任で解決しなければならない問題なのでしょうか。
では自己責任論を全うして生きている人は、世の中に存在するのでしょうか。元首相は自己責任論の体現者なのでしょうか。誰が考えても分かるはずです。無人島で一人生活をしていらっしゃる方を除いて、誰ひとりとしてその体現者は存在しません。無人島のお一人暮らしでさえ、実は様々な文明の力を用いていることが多くこれも厳密に言えば自己責任論の体現者とは言えないようです。
問題は大きく二つあります。一つは、論理的に破綻している言葉がよく用いられていること、二つ目に、それを政府の側がよく口にされることです。国や、民族、地域と言った社会の中で生きている以上、自己責任論は何処にも存在しません。その言葉が多用されていること自体、残念ながら我が国の民度の低さを国際社会に示すことになりやしないかと危惧しております。政府がこの言葉を用いることは、政府自身がその「自己責任」を放棄しているという意味においても、二重の論理的破綻を招いています。
資本主義社会の力学的必然として、社会から排他・排斥される方々が次々と生み出されます。その方々を、しっかりと公的に支援をしていくことで、社会のある種“公平性”が担保されるのだと私は理解しております。人間には得手不得手がありますし、その能力や特性を生かせることは社会構造や時勢と強い因果関係があります。その意味において、時代に応じてその波に乗れた人は勝ち組になりますが、その波にのまれた人は負け組となるのです。
運動会の競走等で、皆一緒に同着するといったことをやっている学校が多く存在しましたが、これは平等の発想からは逸脱していると私は考えています。人の能力を測る物差しは、何千・何万通りもあって得手不得手があって良いのだと思っていますし、むしろ、それぞれの能力が発揮できる社会を構築するべきであるとも考えます。
しかし、経済至上主義社会においては、時勢の中心的な偏った能力が求められており、その能力を有したものが“勝つ”社会であると言えます。逆にその能力を備えていない人間は“敗者”となる様です。その時々の中心的な能力を備えている者が“勝ち”、その能力を備えていない者が“負ける”のです。
その様な本社会において、“平等性”や“公平性”を担保するために必要な発想が、累進課税であり、社会保障なのでしょう。つまり、“勝った”側は時代の趨勢に乗って利益を得たのだから、その時代の構成員たる“負けた”側に対して、何らかの負担をする必要があるのだと。大手企業の役員等がその人個人の能力だけで、それだけの収入を得ているとは考え難いと私は思います。それを支える社会や、構成員の存在があって初めて高額所得者となっているはずです。であれば、そこに対して還元することは普遍的なことであると私は認識します。
つまり、政治はその再分配を適切に行う機関であり、“負けた”側に手を差し伸べる機能を担わなければならないはずです。そのことが機能して初めて、この社会は“平等”であると言えるのかも知れません。その機関の筆頭が、自己責任論を唱えることはやはり、おかしいと言わざるを得ません。自己責任と言う言葉自体が論理的に破綻していると私は思いますが、百歩譲ってそれを度外視して考えても、自己責任で“負けた”方々を救済するのが政治であるはずです。それをしない政治は、そもそもその「自己責任」を果たしていないことになります。
斯くの如き「自己責任論」なる言葉は、今後更に注意を重ねて使わぬようにしようと考えている昨今です。
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