「判決によると、下村被告は2009年5月に自らの浮気がきっかけで離婚した後、長女桜子ちゃん(当時3歳)と長男楓ちゃん(当時1歳)を引き取って三重県から名古屋市、大阪市西成区と移り住んだ。風俗店で働き始めてから2ヵ月後の10年3月以降、現実から逃避してホストクラブの男性宅に連日外泊。6月9日に帰宅した際、衰弱した2人に十分な食事を与えずに再び外出し、6月下旬に死亡させた。
判決は、被告が何度か帰宅した際に2人が外に出て事故を起こさないよう、玄関と居間をつなぐドアに粘着テープを貼ったと指摘。『2人はクーラーがきいておらず、ゴミが散乱する居間から出られなくなった。死亡させる可能性が高い危険な行為ということを常識的に理解できたはずだ』と述べ、殺意を認定した。
そのうえで、『2人が苦しんでいる時、現実から目を背けて男性と遊び、遺体発見後も遊興した』と批判。1人で子どもを育てるという孤立感の中で心身を癒す場を求めた事情を考慮しても、犯行態様の残酷さと結果の重大性から見れば責任は重いと判断した。
最後に『子育てに苦しむ親に社会が理解と関心を示して協力することを願う』とし、裁判官と裁判員の総意として西田裁判長が被告に『社会復帰したら支えてくれる人は必ずいる。子どもらの冥福を祈ってほしい』と述べた」※1。
東京都内での今朝の移動中何度も読み返しました。改めて活字には、テレビ等の映像にはない力があることを知りました。何度も何度も読み返し多くを感じ考えました。24歳の被告がとった行動は社会的に許されるものではありません。しかし…、と私は思います。なぜ彼女はこの様な行為に及んでしまったのかと。
何度か自宅に帰っていること、そして、放置されていたにしては永らく子どもたちが生きていたことを鑑みると、被告の子どもに対する愛情が皆無であったとは思えません。恐らく何かが彼女をそうさせるに至ったと想像してしまうのです。これは、福祉専門職の性でしょうか。
事件として取り沙汰されることのないケースであっても、この様な環境で傷を負った子どもたちが将来どの様に成長し、大人になり、そして子どもを育てていくのかを想像すれば、そこには負の循環が待っているようにも思えます。現に同日死刑が確定した山口県光市「母子殺害事件」の大月被告(犯行当時18歳)も父親による暴力と12歳時に母親が自殺した経験の持ち主でした。秋葉原事件の加藤被告も児童期に虐待の経験があるというのは著名な話です。
その様に考えていくと、私はいつも加害者の被害者性と言う論点から目を逸らさずにはいられなくなるのです。自身の子どもを平然と残虐死させることの出来る母親がどれほど多くいるのでしょうか。そんな非人間的な存在はこの世に本当にあるだろうか。そうではなく、多くは社会的課題や抑圧の中で、そのような状態に追い込まれた帰結としてあるのではないか。その様に思いたいし、考えて行きたいと私は思っています。
ソーシャルワーカーとしての私は、公益と私益は何処かで繋がっていると考えていますし、その意において自己責任は論理的に破綻していると思っています。人々は社会化され、社会の価値規範、環境の影響を多分に受けて生きています。個人が起こす問題に、社会が無関心でいられるはずもありません。
ソーシャルワーカーの私は、死刑廃止論者です。理由は、単純明快です。例えどのような人間であっても、その人の人権・生命を軽んじてはならないと考えているからです。例えどのような人間であってもです。人の人権や生命に例外などありません。その営みこそが、社会に安定感を醸成し、全ての人々の人権が守られる社会構築へと繋がるものと信じているからです。
一方で、犯罪被害者に対する支援も実に重要であると説きます。大切な人をしかも、不当な理由で喪失した憤り、悲しみは想像を絶するものであると認識しています。司法やマスコミ、世論はその正当な感情に応え、支持し、時には鼓舞します。しかし、それだけでは支援にはなりますまい。やはり、労働的・経済的な支援も含めて具体的かつ実効性ある支援が不可欠です。そして、それを法制化・制度化する必要があるでしょう。被害者及びその遺族の感情に共鳴するだけでは、全く支援の意味を成しません。実効性ある支援が必要なのに、それが成されていない状況が我が国にはあるわけです。
不当に被害を受けた犯罪被害者とその遺族に対する手厚い支援が必要です。そこには、感情的支援にとどまらず、実効性ある具体的な支援が不可欠でしょう。その一方で、加害者の中にある被害者性に着眼できる慮りを社会に強く求めたいと自身は考えます。
※1 「大阪2児放置死 母親に懲役30年」『朝日新聞』2012年3月17日
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