公私共に大変お世話になっているあるロールプレイングの研究者は、福祉・介護専門職の考える力と気づく力を高めることの必要性を説かれています。確かに、対人援助職に必要なのは、クライエントの思いを察して知る力であったり、クライエントの背景にある課題について深く考え抜く力であると認識しております。逆説的に言えば、それだけ福祉・介護専門職の考える力や気づく力が低下しているのかも知れません。当法人の職員の指導・教育をさせてもらう際も実はそのように感じることがあります。深く物事を掘り下げて考える。一般的な見地から全く違った視点で考え直してみるといったことが不得手な職員も少なくはありません。
なるほど、福祉・介護専門職は考える力が低いと言えるのかも知れません。しかし、では、社会全般を見渡した際、他分野の方々の考える力は高いのか。
昨今の新聞を眺めながら、そうではないことに気づかされます。今朝は、広島市内のホテルで朝を迎えたため朝日新聞を手に取りました。
有名な「天声人語」には、「ミャンマー」の民主化について次の様な件があります。「(前略)▼さて、ミャンマーの民主化である。悪名高い軍事独裁が長く続いた国の豹変ぶりに誰もが驚く。国際社会という観客に民主化を演じつつ、裏で舌を出しているのではないか。疑念がすっきりとは消えない▼アウンサンスーチーさん率いる野党の『勝利』が伝わってくる。だが、これとて『公正で自由な選挙をアピールする狙い』との見方がある。補欠選挙だから圧勝されても与党の優位は揺るがない、と。見る目が意地悪に過ぎようか▼スーチーさんは初めて国政に参加する。一歩前進で、民主化への弾みもつこう。とはいえ、強制と恐怖で支配してきた軍政による憲法は残る。『投票用紙(バレット)は弾丸(ブレット)より強し』という民主主義の理念を真に実現していくには、いらざる遺物だろう▼『私たちはふつうの暮らしをしたいだけなのです。他人の邪魔をせず、不安も恐れもなしに』。スーチーさんは以前、民主化を求める人々の気持ちをこう代弁していた。兆した春を冬に戻してはなるまい。日本も力を貸したい」※1。
「ミャンマー」の民主化を願う尤もらしい記事ですが、そもそもいつからビルマを「ミャンマー」と呼ぶようになったのでしょうか。民主化を願うと一方では声高に言いながら、軍事政権が名づけ、奨励する「ミャンマー」という名称を顧みず用いる姿勢には疑問を呈さざるを得ません。マスコミは、そして世論、民衆はなぜこんなことも考えなくなったのでしょうか。「報道ステーション」の前身「ニュースステーション」の久米 宏氏は当時、――私はビルマと呼び続けます――と公言されていたのを記憶しています。なぜ、こんなことすら考えなくなったのか。知らされていなかったから?そうやって原発の問題についても民衆は言い訳をしますが、知ろうとしなければ理解など出来るわけがない。自らがその一端を構成する社会の在り様を自らが主体的に思い考える営みが希薄化しているのではありませんか?
同じくトップでは、「市長選 役所ぐるみ」と題して、「橋本徹大阪市長の依頼を受け、市職員の政治活動などの実態調査を進めてきた市特別顧問の野村修也弁護士ら第三者調査チームが2日、最終報告を発表した」※2、と続きます。昨秋の市長選で橋本氏と争った平松邦夫前市長が、当時の副市長や区長ら幹部が組織ぐるみで選挙を支えた実態を調査し、その証左を掴んだとの記事です。「チームは業務用メールの調査や各職場への立ち入り、職員からの聞き取りで実態解明を進めた」※2と報告されているようですね。例えば、当法人で良からぬ事態が起こったとしても、このような恐怖政治的、強権的、高圧的な手法はまず採り得ません。真の問題解決に繋がるとは到底思えないばかりか、組織があまりにも画一化され、却って組織力の低下を招く恐れがあるからです。それに、ここまで調べる時間と労力は、費用対効果を考えても無用な活動の様に思えます。大阪市民はこのような労力と費用の捻出をどのように考えておられるのでしょうか。
3月30日、自宅で読んだ中国新聞では、「3人の死刑執行」の記事。「小川敏夫法相は29日、東京、広島、福岡の各拘置所死刑囚3人の刑を執行したと発表した。千葉景子法相在任中の2010年7月以来1年8カ月ぶり。民主党政権では2回目。小川法相は執行後に記者会見し、『刑罰権は国民にある。国民の声を反映するという裁判員裁判でも死刑が支持されている。法相の責任として死刑を執行すべきだという方の規定になっている』と述べた。関係者によると、27日に執行の命令書に署名したという」※3。
私は、ソーシャルワーカーとして、福祉専門職としての立場から死刑廃止論を謳っています。予てから人の人権や命には例外を設けてはいけないと考えているからです。犯罪被害者にも想像を絶する悲しみや憤りの感情があります。これは誠に正当な感情です。私たちはそれを受け止めながら、丁寧に支えていく必要があります。そして、その上で、このような事件が二度と起こらない対策を社会的に考え講じる必要があるのです。それは死刑を執行することでは、成しえないことであると認識しています。また死刑の一つの欠点は、冤罪で刑を執行してしまった場合、それが全く取り返しのつかない状況に帰結する点です。原発の問題も然り、人間が行う以上、我々は必ずミスを犯します。であればこそ、推定無罪の原則が司法にも存在するのでしょう。また、見せしめの様に人の命を軽く扱えば、その行為は社会に共鳴し、人々の普遍的な人権を侵すことに繋がると自身は理解しています。仮に、どの様な命であっても、決して軽んじてはならない。その強い意思の共有が、豊かな社会を醸成すると信じています。
さて、だらだらと書きましたが、社会は今立ち止まって考えることをしていないと自身は考えます。いや、考えることを拒否しているようにも伺えます。自身の社会のことを、そして、自身の子や孫に引き継ぐべき社会のことを、あまりにも他人事のように見ているのではないでしょうか。
何処かの救世主が出てきて、世の中を変えてくれることなどはあり得ない夢物語です。自らが悩み、考え、その末に、創り出すしかありますまい。日本の教育システム自体が、考える力を奪っているとの見方も出来ますが、それでも私たちには自らのために考えて生きる責務があります。
実は、「考える」一つのヒントは、クライエントが持っていると私は考えます。認知症の分野では、パーソンセンタードケアが叫ばれていますが、真なるクライエント中心主義で社会を見た際、そこには今までに見たことの無い風景が広がっているはずです。多様な視点と角度から見なければ、物事の真なる姿は見えてこないはずです。しかし、私たちは、容易く手に入る一方的な情報だけで全てを判断しているのではないでしょうか。そうではなく、全く違った角度から物事を自身で捉え直すことも大切な営みです。1億2800万人の普遍的価値などこの世には存在しないはずです。であるにも拘らず、私たちは、「普通」や「常識」に捉われて生きています。実は、「普通」や「常識」も偏った一面的な存在にしか過ぎません。そこから自由に、自分の頭で考え、気づくこと、そして、自分の思いに耳を傾けることが、真に豊かな社会構築へと促進させるのだと考えております。そして、そのことはきっとクライエントが教えてくれるのだと。
利用者本位、権利擁護、クライエント中心主義、パーソンセンタードケア、エンパワメント…。これらも福祉現場では皮相的に捉えられており、深く考えられる機会が奪われている言葉であると認識しています。今一度、ソーシャルワークの視点で、これらの言葉を一緒に捉えなおしてみませんか。
※1 「天声人語」『朝日新聞』2012年4月3日
※2 『朝日新聞』2012年4月3日
※3 『中国新聞』2012年3月30日
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