心の安らぎの一つ。それは、大学の恩師が発行されている新聞を読むことです。「試行社通信」と銘打たれたその新聞は、文章がぎっしり詰まったとても読み応えのある新聞です。どちらかと言えば私自身も書くことが好きなタイプですが、先生はまさに書くことが“異常”なまでにお好きなのだと新聞を見ては思う毎日です。
未だに先生の文章にアンダーラインを引きながら、また余白にコメントを書き込みながら拝読しておりますが、本日目を留めたのは次の条でした。
「早い話が、福島原発事故に関して責任をとった人間がただの一人でもいたのでしょうか。責任のなすりつけあいは盛大におこなわれる一方、誰一人、自らの責任に言及することさえしなかったではありませんか。(中略)実をいえば、原発事故といったタイプの大参事の場合、誰も責任のとりようがないのです。(中略)まして放射能汚染は短期間で消滅するものではなく、数十年から数百年単位、もしかするとそれよりも長期にわたって持続するものである以上、その意味でも最後の最後まで事態の推移を見守れる人間自体が存在しないわけです」。
至極当たり前のことが書かれています。先生に言わせれば、おいおい、こんなところに着目するのかね?、とおしかりを受ける箇所かもしれません。しかし、私はこの部分が気になるのです。考えてみて下さい。世の中には如上のように責任の取れない、いや、取らなくても済む出来事が数多あるではありませんか。本放射能の人体に対する影響も然り、携帯電話やリニアモーターカーによる電磁波等の影響、食品に関連する化学物質や、合成洗剤の影響などが思い起こされます。
如上の問題は、動物実験においては“許容”の範囲と判断され実用化が図られているのですが、実は人体にどの様な影響が及ぶのかは不明瞭なままです。恐らく今後、実質的な“人体実験”が20年〜50年かけて行われた末、各地で訴訟等が起こり、「誰か」が責任を取ることになるのでしょう。しかし、当時その決断をした責任者は第一線をとっくに退いており、実質的には誰も責任を取らないばかりか、仮に訴訟に敗れ損害賠償を履行したとしても、長期に渡ってそのことで利益を上げてきた企業等は勝ち逃げの状況に帰結するように思われます。つまり、誰も責任を取らないばかりか、その問題となる活動をした側がトクをすると言う現象が起こり得るわけです。
インターネット等の普及によって、理念や情報のグローバル化が進んでいる昨今。私たちは、地球上のどの地域で何が行われ、そして、今人類に何が求められているのか、現在進行形の問題意識を共有することが可能となってきました。しかし、一方で今現在を生きている人々と、これから生まれてくるであろう子孫との理念の共有は、未だなされていないものと認識しております。私たちが屍となったそのあとに、残された、また生まれてくるであろう人々の生活の豊かさや平和を考える視点はまだまだ浅薄な状況にあるようです。
随分前に目にしたある賞の募集要項が手元にあります。なぜこれが、今ここにあるのか経緯は忘れてしまいましたが、その中にかかれている文章に惹かれずっと手元に置いていたものです。
「共生(ともいき)とは…
過去も未来も考えず、今が良ければいい。そのような考えでは、先の不安はつのり、後には後悔しか残りません。(中略)祖師や祖先から受け継がれてきた“いのち”をいただいていることに感謝し、今の世界の状況を見つめ、他の“いのち”の為にできることをよく考え、実践して後世に“いのち”を引き継ぐことこそ、“ともいき”なのです。
・きょうせい…自然や他の生物と共に生きること(共棲)
=『自然との共生』etc… =横軸(同じ時間軸)のつながり
・ともいき…きょうせい+過去から未来へとつながる『いのち』と共に生きること。
=横軸+縦軸(過去・現在・未来)のつながり」※1。
若輩は宗教的なことはさっぱりわかりませんが、如上の定義で考えた際は、やはり「共生(ともいき)」を考えていくことが今人類に強く求められているのだと理解しております。昔から、「子どもは大人の父なり」(ワーズワース)と言います。子どもたちの視点で社会を点検し、そして、その構築を成していくことが「ともいき」への第一歩なのかも知れません。
知識人や為政者に今最も求められている視点。また、その偉大さを測る指標。それは、100年、200年先の今を生きる人々に説得力のある実践が出来ているか否かにあるのではないでしょうか。まさに、「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれることでのみ評価される」のです。
※1 浄土宗「平成23年度 浄土宗宗祖法然上人800年大遠忌記念事業 『共生(ともいき)・地域文化大賞』募集要項」P.2
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