東京の白銀高輪で2日間、FFS理論の研修を受講しました。大変多くの示唆と学びが得られたこと深く感謝致しております。
受講に際して、事前課題として「私が思う私」と題したレポートを提出させられました。実は事前提出を失念しており、慌てて思いのまま書き起こしたものです。人の個性は容易には変わらないのですが、人生において得られた経験や習得した内容によって、その人の生き様は大きく変わるのだそうです。振り返って考えると、私の周囲には常に意味ある経験を与えて下さる他者がいたようです。その方々の御蔭で、今の自分があることを改めて振り返ることが出来ました。
以下の様に、私は「拡散性」の強い、天邪鬼な個性の持ち主です。しかし、であればこそ、身につけることが出来た視点や理論があります。私の個性を守り、その強みを大切に引き出して下さった多くの方々に感謝をすると共に、誰かにとっても、その様な自分でありたいと思う私です。
物心がついた時から、人と違ったことをするようになった。小学生の折、授業の開始と終了の起立から着席までの行動をいつもテンポをずらしてやっていた。音楽の笛吹きテストでは、一人だけ真後ろを向いて吹いた為零点を付けられた。他者と同じことをすることに理由がなかったので、同じ行動は極力避けた。と同時に、なぜ人は「普通」であろうとするのか、「常識」に自ら媚びへつらうのか、疑問を持つようになった。
その様な人間は日本社会には適応しづらく、ご多分に漏れず、排他・排斥の経験を持つ。何も間違ったことをしていないのに、「普通」「常識」といった多数派の価値規範から外れた人間が排除される社会に違和感を覚え、その社会構造を学ぶために専門書を読み漁った。そこで学んだのは、100人いれば100通りの普通があるという自明の理だ。であれば、巷で言われている「普通」や「常識」は大いに偏向した存在であることが理解される。そこに統制されること自体に不毛感を抱いていた。
その後、私は、「普通」や「常識」から排他・排斥されている方々の側に立った仕事を志した。ソーシャルワーカーという仕事である(それ以前はジャーナリストであるのだが)。ソーシャルワークの要諦は、クライエントの皮膚の内だけに問題点を見出さず、社会システム自身の問題や、社会システムとクライエントとの関係性の問題に着目することにある。いじめの問題もこの様な視点で介入を行う。つまり、被害児童と加害児童の皮膚の内にある問題、そして、家庭・学校・文科省の方針といった社会システムの問題、そして、それぞれの関係性に対してもその実践を行うのである。
社会構造や価値規範といったマクロ、所属機関や分野、地域といったメゾ、そして個人の皮膚の内にある課題としてのミクロ、それぞれの領域で変化を促進するのがソーシャルワークであると理解している。個人が幸せになるためには、個人の努力のみならず、社会システムの変革が不可欠である。その様なところに拠って立つことに私の面目躍如たるものがあると認識する。
社会変革はソーシャルワークの重要なテーマであるが、それは容易なことでは無い。少しずつ、身近なところで、小さな変化を促すことが重要であるし、時には多くの妥協が必要である。1を通すために10を妥協する戦略も不可欠だ。また、人それぞれに立場がある故に、時に曖昧に、そして柔軟に立ち振る舞わなければ社会変革は実現し得ない。
グレーのままでいい。その中で如何に変化を促進することが出来るのか。そのことばかりを考える毎日だ。グレーで行くにせよ、自身の信念は決めて実践する。つまり、白と信念を持てば、その状況でグレーの実践を行うが、限りなく黒に近いグレーには乗れない。その際は、反論し、即座にテーブルを降りるであろう。しかし、曖昧性・柔軟性を重んじてグレーで行くことを重要視しているのである。信念を持ちながらも、柔軟性と曖昧性を抱きながら、緩やかに社会変革が出来るソーシャルワーカーを目指している私である。
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