昨年12月23日大阪市立桜宮高校に通うバスケットボール部主将が自ら命を絶った事件に端を発するかのように、スポーツ分野における体罰の問題が次々と取り沙汰され始めました。教育分野における体罰のみならず、ロンドン五輪代表を含む15名の女子柔道選手による暴力行為・パワーハラスメントの告発も成されています。
それに対して、桑田真澄氏は自身の経験を通して体罰等の暴力行為の不毛さと愚劣さについて朝日新聞に寄せています。「私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか?スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。
指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか?何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。『タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん』。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です」※1。
一流のアスリートと称される桑田氏が述べることに大きな説得力を感じます。しかしながら、このような問題は随分と前から言われ続けてきたことでもあります。例えば、1998年の年初には有名大学のラグビー部やスケート部の選手が立て続けに婦女暴行事件を起こしています。体罰とは直接関係ないと思われがちですが、体罰指導を普遍的に受け続けてきた選手が他者に暴力を振るうことはその関連性が指摘されてもいました。孫引きではありますがスポーツ評論家故川本信正氏の言葉を引用しておきます。「戦後、日本は、軍国主義を否定して民主主義に基づく社会を目指してきたなかで体育会は、それに逆行して非民主的、保守的な組織になってきた。学生を統率するのにもっとも効率的な軍隊方式をそっくり取り入れたことがもっとも問題である」「真に自由で明るい、知性と友情に満ちた学生スポーツを育てるためには、もはや手段は、一つしかない。スポーツを愛するすべての大学の学生がこぞって体育会をボイコット(退部決行、入部拒否、会費不払い)し、大学当局や先輩を相手とせず、自分たちの手で自主的に民主的にスポーツのグループを結成し、スポーツの解放区として大学のスポーツ施設を占拠することだ」※2。
そもそもスポーツの原則は、好きな競技を楽しんで実践することにあるはずです。しかしその原則が叶わぬ状況が蔓延しているのが我が国の体たらくであると言えます。その要因の一つとしては、如上の体育会に体現されるようなスポーツ分野における体質的な問題があるようです。そして、それを自己合理化する要素として、市場原理主義や勝利至上主義があるのでしょう。
プロスポーツは勿論、オリンピックのメダル争いや高校野球に見られるように市場原理主義がその背景にある以上、スポーツは純粋に楽しむだけのものでは無くなるのではないでしょうか。高校野球においてさえ、甲子園出場を果たすことでそれが母校の宣伝広告になることが言われている訳で、その目的遂行のためには、“優秀”な指導者の指導方針を学校が放置してしまう例も想像に難しくはありません。事実、桜宮高校などではその様な傾向があったように思われます。市場原理主義が強まれば、そこに勝利至上主義の風潮が蔓延っていきます。スポーツを純粋に楽しむことは隅に追いやられ、競技に勝つことだけがその目的と化していきます。そして、そのためには手段を選ばない風潮も芽生えてくるのです。体罰も然り、時にはドーピングも…。
10代の頃より、スポーツを仕事にすることは特に我が国においては難しいと考えてきました。スポーツの本質は楽しむことであるのですが、それが母校や国家の「威光」、単なる「勝利」のために成されることによって、その本質としての楽しみが低減するからです。
本件には、体罰の有無といった表層的な問題ではなく、スポーツとは何かという根本的問題がその背景にあります。純粋に楽しむことを本質としながらも、如何に市場原理の中で持続して行けるのか。この二律背反の呪縛から解き放たれる答えは未だ見当たりません。
※1 「『体罰は自立妨げ成長の芽摘む』桑田真澄さん経験踏まえ」『朝日新聞』2013年1月11日
※2 谷口源太郎氏「谷口源太郎の一望無根 17 大学の体育会を解体しよう」『週刊金曜日』2000年7月28日(325号)
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