参議院選挙(7月4日公示・7月21日投開票)を前に、各党の公約が漸次発せられている昨今です。先の都議選の結果から察するに、衆参議院ねじれ解消による安定政権が成立することは避けられない事態となってきました。であれば、我われ民衆は、本党の公約には目を曝す必要があります。
内容を全て拝見してみましたが、要するに「政権半年の実績を強調しながら経済政策を前面に出す内容」※1となっているようです。特に、「今後10年間の国内総生産(GDP)の平均成長率を名目3%程度、実質2%程度とする目標を定めた」上、「『世界で一番企業が活動しやすい国』の実現を掲げ、成長戦略の追加策の柱である設備投資減税を行うことを明記。設備投資を3年間で7兆円増やし、年間70兆円の水準を回復する目標も示し」、「安倍晋三首相の強い意向で、企業の設備投資を促すため『法人税の大胆な引き下げを実行する』と加えた」所に特徴がある様に思われます※1。「経済再生と財政健全化の両立」※2とある様に、政治と財政に市場原理を色濃く注入した内容であると若輩は理解します。
しかしながら、本来政治や財政はもとより、人々の生存権に係るような分野、即ち、社会保障・教育・環境分野等においては、その性格上、市場原理とは相容れないものが本質として含まれているはずです。その意において、国や自治体を始め、医療機関や福祉施設、教育機関等は厳密に企業ではないと言えます。井手英策氏によれば、そもそも市場の原理と財政の原理はその目的を異にしていると言う。「私たちは、市場原理を活かして政府の効率化を図り、ムダをなくすという議論を何度も耳にしてきた。だが、家族の原理を基盤とする財政と、市場の原理を基盤とする企業とでは属する領域が異なる。(中略)市場の領域では私たちは経済的な富を追求する。つまり、利潤動機に基づいて行動する。これに対し、家族の領域では、親や兄弟よりも裕福になることではなく、教育、会話、思いやり等を通じて『人間として望ましい状態』を実現することに本源的な目的がある。また、市場の領域では、経済的な富に応じて社会的な地位は変化するが、家族はむしろメンバーを等しく、時には強制力さえ用いてあつかうことに本質がある。(中略)財政の原理は、競争がある程度の富の偏在を生んだ場合に、その格差を許容できる社会、いわば『勝者に惜しみない拍手を送れる社会』の基礎を作ることにある。家族の幸福を願わないものはいない。生存を支え、人間に共通する生活の必要を満たし、公正な競争のための基盤を作ること、これが財政の使命なのである」※3。また、井手氏は「財政学の伝統的な考え方として『量出制入』原則」があると述べています。「支出を量って収入を制する、つまり、人々のニーズをはじめに考え、そのために求められる財源を、みんなで負担し合うと言う意味」※4があるのだとか。これを見る限り、財政の原理は市場のそれと真逆に機能させなければならない側面を有していると言えます。
無論これは政治や財政だけに言える事ではありません。規制緩和の名のもとに、民間企業やそれにかかる人材が教育分野に参入していることは周知の事実です。しかし予てから私は、学校は会社ではないので、市場の原理が強く導入されることに違和感を抱いていました。つまり、学校が育成するべき人材と、企業が求める人材は本質的には異なっているものだと認識しております。義務教育を筆頭に学校が子どもたちに伝えるべき教育は、多様化が認められた社会の在り方であり、自身と異なる思想や文化を有する人々との共生の方法について、考えや気づきを深めることにあると自身は考えています。他方、企業が求める人材とは、まさに企業の利益に貢献する人材であり、企業の方針に従って行動することができ、高い効率性と効果の帰結を叩きだすことの出来る者を指すのでしょう。昨今手にした新聞から次の件を引用します。「『世界で勝つ』。先月、成長戦略第2弾について安倍首相がスピーチしたときのキーワードがこれ。その文脈で、大学改革などを打ち出した。期待されているのは、日本が『勝つ』ための人材、つまり� 聞餘廚魍諒櫃垢襦砲里茲Δ澄�(中略)しかし、それが国という社会に役立つ人材育成につながるだろうか。そう問いかけるのは、先月訪日したパリ西大学のクリスチアン・ラバル教授。教育問題で活発に発言している社会学者だ。『18世紀以降、教育とは基本的に国民の共同体で生きる人を育てることだった。公教育、国民教育だ。それが近年、新経済自由主義的なグローバル化が進むにつれて変容している』。今、国境を超えるビジネス界の求めに応えて、各国が懸命に育てようとしているのは結局、『共同体のメンバーではなく、市場で競争に勝つための経済的な人的資源だ』。本来、教育は『市場ではなく共同体のため』だったのに逆転したという。そこで育つのは、たとえば多国籍企業が『勝つ』ために能力を発揮する個人。たしかに、もうけに貢献した社員が日本人であっても、それが日本という国の『勝ち』にはならない(括弧内は中島)」※5。「経済的な人的資源」を確保するための教育が、我が国の真なる国益に寄与したり、国民を幸せに機能させるとは到底思えません。
人々の人間としての尊厳を守ったり、生存権を保障する営みと、市場原理はそもそも相容れない目的を有しています。それを混同させているのが今の政治であり、社会であると自身は考えます。「量出制入原則」で言えば、人々の生存権にかかる分野への支出は、国益のための必要不可欠な支出としてしっかりと確保した上で、その財源をどこから確保すべきかを検討するということになります。収入を先に考え、その限られた財源から支出を計算し、真の国益のために必要不可欠な社会保障や教育、環境分野にかかる費用を削減すべきではありません。
さて、少し本論からそれますが、必要な支出を確保するための収入をどこから集めるのかという議論も同時に成されているようです。その一つが消費税の増税であります。消費税は、税本来の在り方としての累進課税の課税方式ではなく、所得に拘わらず全ての人に等しく課税される性質を有しており、その逆進性が指摘されているものです。端的に言えば、年収700万以上の国民は所得税を引き上げられれば負担が重くなり、年収700万円未満の国民は消費税の引き上げによってその負担を強くすることになります。そのような逆進性に歯止めをかけるには、所得税と相続税、資本所得税等の引き上げを同時に行うべきかと存じますが、そのようにはなっていないのが現状です。また、そこで2%の目標物価上昇率(インフレターゲット)が導入されれば、年収700万円未満の国民負担は更に上昇することになるでしょう。収入が公的に定められている生活保護受給者の生活はもとより、医療・福祉機関の経営も強く圧迫することになりそうです。
一方で、同党の公約には「法人税の大胆な引き下げを実行する」という件があります。「消費税については全額、社会保障に使います」との表記もあるものの、基本的にお金に色は付けられませんので、総量的にみれば、消費税の増税分は、法人税の減税に当てられることになるものと思われます。法人税については、我が国の税負担は重いと言われてきました。しかしながら、企業の負担という視点によって立てば、即ち従業者の社会保険料の負担を含めて試算すれば、先進諸国の平均以下の水準となっているのは周知の事実です。また、井手氏が述べるに、「政府税調の専門家委員会資料では、減税で得た資金の使途として、内部留保と借入金の返済を掲げた企業は、それぞれ全体の25.6%、16.8%であったが、給与の増額を掲げた企業は、15.5%にとどまった。(中略)企業が海外に事業展開した理由として見た場合、人件費や販路拡大がその動機であり、公的負担の影響は、ほとんど無視できる程度にしか考慮されていない。また、同じ調査によると、実効税率を現在の40.69%から30%に引き下げたとしても、日本に回帰しないと回答した企業は、77%に達している。ようするに、法人税の引き下げを経済成長のエンジンと捉えるとすると、それは明らかに過剰な期待なのである」※6とされています。
以上のように見てくれば、政治や財政、社会保障、教育、環境分野といった本来は相容れない分野にまで、市場の原理が根強く浸透しつつあることが伺えます。そこにソーシャルワーカーとしては警鐘を鳴らすべきであると自戒の念も込めて思うわけです。
著書『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』でイアン=ファーガスン氏は、新自由主義の台頭によってイギリスにおけるソーシャルワークに危機的状況が訪れていることを告発しています。生活格差が増幅し、福祉サービスの市場化が促進された結果、ソーシャルワーカーが本来の価値規範に則った実践が出来なくなっている状況に警鐘を鳴らしているのです。例えば、本書からイングランド地方当局に所属するベテランソーシャルワーカーの声を引用してみます。「素早くケースを取り替えて、できるだけ多くの対象に当たることを望むマネジャーによって、ソーシャルワークは、ますます数字の世界となりつつある。彼ら/彼女らはケースを取り込み、処理し、ときにはそれを排除していく。私たちは、割り当てられていない多くのケースを抱えており、みんな最大限のケースを担当し、市民にサービスを与えていると思わせなければならないという、大きなプレシャーを感じている。しかし、実際には、私たちは何も与えていないし、与えるべきものを何も持っていない」※7。イギリスのソーシャルワーク現状に対する不満は、「1990年代前半からの競争と市場原理に主導されたマネジメント主義体制によって、ソーシャルワークの知的基盤や技術や価値が歪曲され、切り崩されてきたことに起因する」とされ、「国民保健サービスとコミュニティケアに関する1990年法がもたらした影響の一つは、ソーシャルワーカーが、サービス利用者と直接的に関わる時間を引き受ける機会が大きく縮小したことである」と断じています※8。
これが「対岸の火事」であるわけがありません。我が国においても、イギリス同様の方針で政権が舵を取り続けて今日に至っているのです。正直申し上げて、政治のことはよく分かりませんが、ソーシャルワーカーの視点から眺めた我が国の政治状況は、斯くの如き危機的状況にあると若輩は認識しています。かてて加えて問題なのは、我が国のソーシャルワーカー及びその研究職者の中に、イアン=ファーガスン氏の様な存在がほぼ皆無の状況にあることではないでしょうか。もちろん、我が国の先進的研究者が本書を翻訳されているのですが、この国の危機的状況を直裁的に論じる論者を私は知りません。
なぜ、この国のソーシャルワークがこのような状況下にあるのか、それはマクロ領域の専門性の弱さであり、社会構造を捉える力の希薄化にあると自身は考えます。つまり、現下のソーシャルワーカーに最も求められているのは、社会構造を捉えることのできる社会学の知見を有するソーシャルアクションの担い手なのです。再びイアン=ファーガスン氏の次の一文を引用します。「1970年代のラディカル・ソーシャルワーク運動の主要な功績の一つは、社会学をソーシャルワーク課程に組み込むことによって、全てのソーシャルワーク課程の学生の専門教育の構成要素として、構造的な要素が持つ影響力の理解を確保したことであった。しかし、近年、この構造的な要素が持つ影響力の理解は希薄化している。その理由として指摘できるのは、まず、ソーシャルワークのカリキュラムにおける知識を犠牲にし、技術や職務を強調するカリキュラムの変化にある」※9。
斯くの如き、市場原理主義が、ソーシャルワークの衰退を招いていることは自明の理かと存じます。そして更に問題なのは、そのこと自体にソーシャルワーカーの多くは気づいていない事実であると認識します。ソーシャルワークとは何か、社会福祉の本質とは何かを大きく取り上げ、議論する機会と存在が今まさに切望されているのです。
最後に若輩浅学の修士論文の終りの件を用いて、本章を閉じたいと思います。
「ここ20年で格差社会は進捗し、ソーシャルワークを必要とする状況は深化・拡大しているが、そうした増え続けるニーズに対応が困難な状況が続いている。こうした状況にありながら、新政権は、生活保護費の10%削減を目論んでいる。こんな時代だからこそ、この社会にソーシャルワークが希求されている。そして、今求められているソーシャルワークは、社会構造を捉える社会学の知見を有したソーシャルアクションの担い手である。ソーシャルワークやケアワークの世界においても、科学的根拠のある実践が叫ばれて久しい。技術革新はもちろん大切な視点である。しかしながら、その技術を私たちはどこに向かって、誰のために用いるのかを理解しておく必要があるはずだ。その“刀”はクライエントのために振り下ろされるべきであり、クライエントを傷つける為にあってはならない。ソーシャルワークとは一体何か、また、ソーシャルワークの拠り所は何なのか、といったソーシャルワークの本質について立ち止まって考え、大いに議論することがこの今こそ求められている。『技術はどんなに高まろうと、目的の下にある』※10のだから」。
※1 『朝日新聞』2013年06月20日
※2 自由民主党『参議院選挙公約2013』2013年6月20日
※3 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.146-147 2013年1月
※4 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.145-146 2013年1月
※5 大野 博人「日曜に想う グローバル人材ってだれ?」『朝日新聞』2013年6月16日
※6 井手英策『日本財政 転換の指針』岩波新書 P.189 2013年1月
※7 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.89 2012年5月
※8 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.231 2012年5月
※9 イアン=ファーガスン著 石倉康次・市井吉興監訳『ソーシャルワークの復権 新自由主義への挑戦と社会正義の確立』クリエイツかもがわ P.238-239 2012年5月
※10 むのたけじ『詞集 たいまつ』評論社 P.13 1997年6月
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