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中島康晴

地域の絆 代表理事 中島康晴

ソーシャルワーカーの捉える障害者差別解消法

2014/03/03 23:55:43  社会福祉

障害者差別解消法の概要



 2013年12月4日、参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立を経て、国内の法律が障害者権利条約の求める水準に達したとして条約の批准を承認しました。日本の批准は2014年1月20日付けで国際連合事務局に承認され、2014年2月19日からその効力が生じています。我が国の批准は世界141番目でした。世界141番目の批准が、世界第3位の経済大国や先進国という立場に相応しい態度と言えるかは甚だ疑問ですが、全ての人々の尊厳ある暮らしに向けた一里塚としては、一定の評価をせざるを得ない所です。

 「評価をせざるを得ない」。つまり、この事にもろ手を挙げて喜んでいる場合ではないと私は考えています。それは本条約批准の契機となっている国内法、障害者差別解消法の内実に一定の不満を有しているからです。

 障害者差別解消法は、2013年6月26日に公布され、2016年4月1日施行されることとなっています。施行に至るまでの期間、より具体的な「基本方針」や「ガイドライン」が定められることになっており、現在はその過渡期にあると言えます。

 詳細は今後詰められるにしても、現時点における本法の課題をここでは精査しておきたいと思います。障害者差別解消法は、如上の障害者権利条約と障害者基本法と密接な関係にあります。障がい者に対する差別という件で鑑みれば、本条約・法律からは以下の部分を取り上げることが出来ます。


 「『障害を理由とする差別』とは、障害を理由とするあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害を理由とする差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。『合理的配慮』とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」※1
 「第四条  何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。 2  社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによって前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない」※2。


 双方とも、�〆絞未鰺�由とした不当な差別的取扱いと��合理的配慮不提供を禁じたものになっています。これらと関連し、かつ具現化したものが障害者差別解消法となっていますので、この法律においてもこの2つの禁止事項が謳われています。



「不当な差別的取扱い」をどの様に捉えるべきか



 この法律における「不当な差別的取扱い」の要件として、東俊裕氏は以下の3点を挙げています。「�〜蠎衒�の事務や事業を『行うに当たり』なされたものであること�⊂祿下圓任覆ぜ圓箸梁佝罎砲�いて『障害』を理由とした『差別的取扱い』といえること��『不当』であること(正当な理由に基づくものでないこととされている)�し覯未箸靴鴇祿下圓痢惴⇒�利益』を侵害したこと」※3。この要件は、国・地方公共団体・民間事業者には、法的義務を課しているものです。一方、差別は関係性や構造によって、直接差別・間接差別・関連差別に分別が可能です。直接差別は、障がいを理由とした差別であり、間接差別は、障がいに付随する別の理由による差別を言い、関連差別では、家族に障がい者がいるといった形で被る差別の事を指します。

 この法律では、このうち直接差別は明らかな対象と読めますが、間接差別や、特に関連差別が対象となるのか否かについては曖昧模糊となっています。差別の範囲が曖昧であり過ぎれば、実際の運用が始まってからの解釈でどうにでも活用されてしまい兼ねませんのでこれは大きな課題であると言えます。

 この「差別的扱い」の具体例としては、以下の数点を挙げることが出来ます。


�〇覲弌δ鯵弌κ盥堙�の障がいを理由に排除・制限する例
例:今まで勤めていた職場で、精神障害があると分かった途端解雇になった。
例:聴覚障がい者が病院受診の際、筆談に時間がかかるとの理由で、受診を拒否された。
�⊆屬い垢篳篩�具、盲導犬、介助者など、障がいに関連することを理由に排除・制限すること
例:電動車いすを理由に、博覧会の入場を拒否する。
例:車いすを理由に交通機関の乗車を拒否する。


 高齢者分野に長年携わってきた者からすれば、これを書きながら、また新たな気づきを得ることが出来ました。上記の筆談に時間がかかるからと言う理由で聴覚障がい者の受診を拒否するとの事例を取ってみても、高齢者分野においても現実問題として、認知症高齢者が一人で医療機関に受診をしても、拒否されることがあるのではないでしょうか。“判断のできる”“話のできる”家族等の立ち合いが求められることは珍しくはありません。しかし、私たちはこれを当たり前の事だと無意識の内に受け入れているのではないでしょうか。本法に照らして鑑みれば、これは当たり前の事などではなく、「差別的扱い」に該当することが理解できるのです。他分野との連携を促進することによって、自らの実践領域における実践の質を高めることにそれが確実に繋がることを丁度いま体感したところです。

 �ぞ磴�い者の差別を動機や過程ではなく、権利侵害という結果として見るところは、国内における4つの虐待防止法と整合性のある捉え方があると思います。意図的・非意図的の如何にかかわらず、その行為と結果をもって虐待・差別と判断するというものです。

 私は、虐待と差別は非常に近い概念として捉えることが出来ると考えていますが、異なる点があるのだろうとも認識しています。実は、差別は、虐待よりもより概念が広いのではないかと思うのです。なぜなら、虐待を捉える場合、その行為の背景にある動機や思いよりも、むしろ、その行為そのものに対する比重が大きく、その行為に対する評価が判別の指標となると言えます。行為だけで判断するのであれば、これらは、一般化されやすく、共通理解もされやすい。よって、法律の定義に基づく虐待か否かの判別はつけ難くとも(各虐待防止法の虐待の定義は抽象的表現となっています)、これは放置できない虐待の範疇であり、権利侵害が起こっていると認定することは難しいことではありません。

 一方差別は、その行為のみならず、その背景にある動機や思いにも評価の対象を広げるべきものではないかと思うのです。八木晃介氏によれば、差別は「行動的次元」のものであり、その行為の背景とも言える偏見(態度・意見・信念等)は差別とは言えないとしつつも、「両者がまったく無関係であるなどということはできません。時に差別を『行為を姿にかえた偏見』として定義することがあるのはそのためです」としています。しかしそうであっても、糺弾の対象は差別であって、偏見は教育や啓発で対応すべきものだとも論じています※4。

 よって、行為とうい結果を持って判断する差別と虐待には共通性が見られるものの、その行為の背景にある動機や思いをより差別は重要視している点において、両者には一定の差異があることが理解されます。この様に考えると、偏見のない行為は差別と言えるのか、という疑問が湧いてきます。つまり、偏見を全く含有しない差別は存在するのかと言うことです。これに対して、八木氏は次のように論じています。


 「私が本稿で問題化させたかったことのひとつは、『非意図的差別』(ことに個人的非意図的差別)をもまた差別の範疇にぞくするというべきか否かという点でした。(中略)意図的差別が主体的に差別を選択することによってなされるものであるのにたいし、非意図的差別は差別選択の主体性をもたないタイプの差別です。差別が構造的にうめこまれている場合など、それに気づかないで(つまり、非主体的に)差別してしまうことはじゅうぶんにありうることでしょう。しかし、このようなタイプの差別の場合、はたして糺弾という実践は成立するのでしょうか。私が、非意図的な差別や無意識的な差別を糺弾することは可能かどうかと問題を提起したのはこの点にかかわっています。差別の枠組みを主体的に選択していない無意識的な差別者に差別の責任をおわせる(責任をとらせる)というのは、理論的にみてもいささか無理があるのではないか、というのが私のさしあたっての感じ方です」※5


 八木氏の述べるように、偏見の無い(非意図的・無意識的)行為は差別とは言えないという立場を取るならば、即ち、差別の判別は行為に依拠するものの、その背景にある偏見を重要視するのであれば、行為の結果だけを見て差別であると判断することには一定の疑問が生じることになります。もちろんこれは、偏見が無ければ、不見識や無知からくる問題となる行為を放置するということではありません。偏見のない(無知や不見識からくる)行為の場合は、差別の責任を取らせることや糺弾することで解決するよりも、教育や啓発によって改善を図る領域に該当するものと捉えるのです。差別解消法を虐待防止法と同じ土俵で政府は考えているのかも知れませんが、実は、差別と虐待には斯くの如き差異があることを見落としているのではないかと思うのです。安易に、「差別」を使ってしまったなと言う心証です。この心証の裏付けとなる証左は後段で更に論じることとします。

 確かに、上記の様に差別を捉えることは難しい。しかしながら、斯様な課題があるにせよ、不当な差別的扱いによって障がい者の権利を侵害することを禁じる本要件は、次に示す「合理的配慮の不提供」の要件よりは、より捉えやすい(分かりやすい)と言えます。



合理的配慮とは何か?



 「合理的配慮の不提供」の要件を東氏は以下の様にまとめています。「�‥�該障害者にとっての『社会的障壁』が、相手方が事務または事業を『行うに当たり』現に存在すること�⊂祿下圓�らその排除を必要としている旨『意思の表明』があること(本人によることが困難な場合はその家族等が本人を補佐して意思の表明をする場合も解釈上含み得るとされている)��その実施にともなう負担が『過重』でないこと�い砲發�かわらず、当該障害者の性別、年齢および障害の状態に応じた『必要かつ合理的な配慮』がなく、そのことによって障害者の『権利利益』が侵害されたこと」※6。また、本要件は、国・地方公共団体は法的義務であるものの、民間事業者は努力義務と規定されています。

 「社会的障壁」について明言されているということは、障がい者差別の問題を個人的な問題としてではなく、社会全体の問題と捉えている訳ですから、私たちソーシャルワーカーに求められるのは言わずもがな社会的活動(ソーシャルアクション)であることが理解されます。

 この事を踏まえながらも、詳細を見ていきたいと思います。「合理的配慮」を行うに当たっては、�桔椰佑砲茲覦媚廚良縮世�あること、�兇修亮損椶垢訛Δ良蘆瓦�過重でないことが、その要件となっているようです。�気砲弔い討蓮⊇飴歌承脹,良嫗啖莎弔砲�いて、本人の意思の表明が困難である場合は、家族等が補佐することが可能とされています※7。「家族等」の「等」は何を指すのかは不明瞭ですが、ここに私たちソーシャルワーカーが入るものと想定した実践が不可欠であると認識します。

 �兇砲弔い董�国・地方公共団体・民間事業者の負担が過重でない場合は、合理的配慮を行わなければならない、逆に過重であればこの限りではないというこの件が、本法の理念や目的が出し抜きにされかねない陥穽を有していると言えます。事実、参議院における付帯決議でも次の件が見受けられます。


 「合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、その水準が本法の趣旨を不当にゆがめることのない合理的な範囲で設定されるべきであることを念頭に、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること」※7


 本法の趣旨を不当にゆがめることがない範囲で「過重な負担」の判断をすべしとなっているのです。ここで※1で挙げた障害者権利条約の合理的配慮の件を改めて見ておきたいと思います。


 「『合理的配慮』とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」※1。


 本法との違いは、「均衡を失した又は…」の個所ではないでしょうか。「過重な負担」や「過度な負担」は、誰が判断するのかということを考えれば、国・地方公共団体・事業者の主観的なものに依拠せざるを得ない部分が多分にあることが想定されます。衆参両院による付帯決議でも、事業規模・財政状況・業務遂行を総合的に加味して判断するとなっていますので、その状況を最も理解しているのは当事者となるわけですから、国・地方公共団体・事業者等の事務・事業を行う側の主観的評価がその判別に大きな影響を与えることとなります。

 一方、そこに「均衡を失した」という文言が加わることで、合理的配慮の趣旨にニュアンスの変化が生じることになります。「均衡」とは言うまでもなく、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保する」ことを指します。「障害者と他の者」に対する平等を意図した表現となっているのです。であるならば本文が入ることによって、この合理的配慮の捉え方が、事務・事業を行う側の主観が含有されやすい「過重な負担」「過度な負担」といった視点に加えて、障がい者側の理論や論点が多少なりとも盛り込まれることとなりますので、本条約における表現の方が障がい者の視点をより大切にしていると言えます。よって、本法の合理的配慮の件にこの文言は盛り込むべきであったと認識します。他方、「障害者と他の者」との「均衡」の有無を持って差別を捉える点には異論がない訳ではありません。この考え方が恐らく、本法の名称通り、差別の「解消」という概念に繋がっているのだと思われます。この辺りは、後段で多少深く論述していくことにします。

 そこに加えて、この合理的配慮は、障がい者の個別特性を理解していなければその配慮が出来ない性質のものであると言えます。例えば、合理的配慮の具体例としては、以下の項目を挙げることが出来ます。


�〇�間や順番等のルールに対する配慮の例
例:入学試験や入社試験の時間の延長。点字試験の実施。
例:知的障がい者に対してルビをふった分かりやすい書類の資料を提示。
�∧�理的な配慮の例
例:車いすの職員に対する机の高さや配置、トイレ等に対する整備。
�J篏�手段を提供
例:発達障がい者に対して他者の目線を感じない空間における業務環境を整備。
例:音声読み上げソフトをPCに導入。


 例えば、車いすの職員に身障者用のトイレを整備することなどは、事務・事業を行う側からも比較的理解がしやすく配慮しやすい事柄かも知れません。しかし、精神障がいや発達障がい、高次機能障がいのある人々の合理的配慮を行うためには、まずそれぞれの障害の特性と個別特性を理解しなければその配慮を成すことが出来ません。

 であるならば、この合理的配慮を促進していくためには、社会の全ての構成員が障害の特性や人々の個性を十分に理解しておくことが基盤としてなければなりません。まさに、「社会的障壁」を除去するがごとく、全ての人々に対する福祉教育の実践が欠かせぬことを認識しておくべきでしょう。その為には、全ての人々が、障がいを身近なものとして考え、そして、自らのこととして捉える社会的学習(ソーシャルラーニング)を津々浦々で展開していく必要があります。社会にその基盤を備えて行く過程にこそ、この合理的配慮のあるべき姿とその意味を私たちは見出すことが出来るのです。



障がい者差別は何に利用されているのか?



 さて、ここまでは差別解消法そのものにおける課題について論じてきました。ここからは少し捉え方を広げて、差別とは何か?解消とは何を指すのか?合理的とはどういう意味か?について検討してみたいと思います。

 「解消」とはその名の通り、そこにある関係や状態が消えて無くなることを指します。つまり、差別が消えて無くなることを目指して命名されたことが理解されます。そこで一つの疑問が生じてきます。差別は果たして消えて無くなることがあるのだろうかという疑問です。

 先ず、栗原彬氏によれば、差別は無くならないと論じています。


 「ところが現実には差別はなくならない。それはなぜか。私はポイントは二つあると思う。第一に、政治権力にとって、差別はすぐれて政治的機能をもつが故に、権力のエコノミーとしての差別は保全される、ということである。政治権力が、特定の政治目的を達成しようとするとき、また社会統合を進める際、差別の効用はきわめて大きい。更に政治権力は、差別が競争型の市場において利益を上げる上で利用価値が高いことを見出してきた。第二に、近代化の啓蒙に伴ない、「差別は悪い」という言説が一般化したことである。タテマエになったこの言説は、人を差別の前で素通りさせる。(遮断するまなざし!)。差別意識は、ことばをもち、世界をカテゴリー化することなしには生きられない人間という種に根源的な意識である」※9。


 政治的・社会構造的そして、それと相互作用の関係にある人々の意識的にも差別は無くならないと論じているのです。私自身もこの考えに全く賛同の立場をとっています。つまり、差別は無くならないことを前提としながらも、無論そのことを良しとするのではなく、この差別という問題と対峙する姿勢や実践が求められているのです。

 また、差別が政治権力によって利用されていることは明白な事実であると私も受け止めています。昨今でも、北朝鮮の外交政策と連動する形で、「高校無償化法」から朝鮮高校の生徒を適用除外するなどを行った結果、それが在日朝鮮人の差別を助長していたことは記憶に新しい出来事でしょう。よって、差別を「解消」するためには、政治がその責務を果たす必要性があると言えるのです。この差別と政治の関係については、ここでは、原田伴彦氏と八木氏の以下の件を引用しておきます。


 「それはともかく、人種差別とか民族差別とかいうような不当な人間差別は、誰かがいつとはなしに考えはじめた結果、なんとなくできあがったという性質のものではありません。個人の場合、なんとなく虫が好かない、嫌いであるとか、あるいは本人にもよくわからないまったくいわれのない理由で、他人をみくだすというケースがあるいはあるかもしれませんが、これを民族間の多数の共通感覚にあてはめることはきわめて困難であるように思われます。すなわち民族的差別あるいは人種的差別については、それが発生すべき歴史的社会的な客観的条件、その帰するところは「政治」という問題があるわけです。そして「政治」によってつくられた問題は「政治」によって解決すべきであるし、また解決しなければならないと思うのであります」※9。
 「白人が黒人を差別するのは、黒人が、肌の色の黒い人種だからではありません。そうではなく、白人が黒人を侵略し、抑圧し、搾取する、その都合上、黒人差別をつくりあげたのです。差別を合理化する上で、黒人の肌の色が黒いという事実が、白人にとってはきわめて都合がよかったわけです。僕の考えでは、ほとんどすべての差別はこのような構造において成立していると思います」※10。


 一つの示唆は、やはり私たちソーシャルワーカーの仕事は、政治や社会を捉えるマクロな視点なくして、クライエントの権利擁護を成すことは出来ないことが確認できます。その上で、上記の二つの指摘に則って、政治権力や社会構造が、障がい者差別を利用していると考えた際、それは何を目的とした利用なのかを私たちは考え抜く必要があります。

 その結論を導き出すヒントが、この「合理的配慮」という言い回しの「合理的」に込められていると私は感じています。戦後の経済成長を促進し、その象徴するスローガンが「近代化」や「合理化」であったと認識します。特に、「合理化」が標榜され促進された結果、私たちは確かに経済成長を果たし、他方多くの代償を払ってきました。世界第三位の経済大国となった今でも、他国に比べて十分な社会福祉サービスの提供ができていない状況を鑑みれば、この「近代化」や「合理化」は誰にとってのそれなのかを今一度検証する必要があるのです。

 私が子どもたちに是非とも読んでもらいたい鎌田慧氏の書籍から引用をしてみます。


 「一九六七(昭和四二)年、東京では都電が姿をけしはじめていた。『モータリゼーション』ということばがさかんにもてはやされ、クルマがふえるようになった。道路のまんなかをはしる都電は、ドライバーたちの眼にいらだたしいものにうつるようになった。『チンチン電車』の愛称でよばれ、老人や子どもたちにとっての、気楽で安全な、しかも安いこの乗り物は、『ノロノロ電車』とばかにされるようになっていた。都電が風を切ってはしれなくなったのは、自動車工場のベルトコンベアから、一分単位でクルマがはきだされ、それが道にあふれたからなのだが、そのことは忘れられ、道路が混雑するのは、図体の大きな都電が路をふさいでいるからだ、とおもわれたのである。原因と結果が逆転いていたのだった。(中略)都電をなくすことにぼくは反対だった。都電は好きだったし、労働者の職場を強引になくすことに賛成できなかった。友だちにそういうと、その考え方は、『古い、近代的でない』と批判された。日本人は、『古い』といわれるとたじろぐ。それほどまでに『近代化』は強引にすすめられてきたのだった。編集の仕事のあいまに、あっちこっちの車庫をまわって、運転手や車掌たちの話をきいて歩いた。『合理化』とか『近代化』がけっしてバラ色のものでない、ということを具体的に知るようになったのは、この取材によってであった。都電撤去は、『都市の近代化』というスローガンによって、急スピードですすめられた。合理的でないものは悪いものだ、という意識がひとびとに根強いのだが、都電のように安全で安い、庶民の足をなくすことはけっして合理的なことではなかった。自己合理化(自分のことを正しいものに主張する)ということばがあるのだが、力の強いひとの理屈が正しいものとされてしまうことに、それは似ていた。運転手たちは、仕事がなくなって『困る』といいながらも、もうすでにあきらめているようだった。彼らも、合理的でない、といわれることをハネ返せなかったからである」※11。


 さて、障がい者差別は何を目的に利用され続けてきたのだろうか。恐らく、経済至上主義の下、効率性と生産性を第一義とした政策方針によって、障がい者差別は利用され、そして助長されてきたのでしょう。であるならば、クライエントの権利擁護を標榜し、その実践を担うソーシャルワーカーは、この経済至上主義の社会構造に対峙する視座を持たねばなりますまい。この社会構造に対する対峙と、その改善に対する関わりを持たずして障がい者の差別解消はもとより、全ての人々の権利擁護の実践は成されないものと思われます。そして、少なくとも、人間の暮らしや福祉に係る領域で、経済分野で用いられ、手垢のついた斯くなる「合理的」なる言葉は用いないでもらいたいというのが私の本音です。

 差別が政治権力によって利用されてきたことに一定の確認ができましたが、であるのみならずやはり差別が現下の社会から消えて無くなることは無いのだと思います。またしても八木氏の論文から引用します。


 「分子生物学者・柴谷篤弘氏(元京都精華大学学長)は、「差別の構造は、われわれの脳の中につくりつけになっており、機会あるたびに具現化してわれわれの差別的な言動を生成すると考えられる」と断定しました(『科学批判から差別批判へ』明石書店、 一九九一年、一三七頁)。(中略)思想史家、松本健一氏(麗澤大学教授)は、次のように記述していました。「共同体成員がアイデンティティをもっているということは、対内的に同一シンボルをもたなければならないと同時に、対外的に排除するところをもたなければならないということが組織のベクトルとしてはある」(『共同体の論理』、第三文明社、一九七八年、二五三頁)」※12。


 仲良しグループは、そのグループ外の人々の排除に基づいて形成されている。この事実を鑑みても、やはり我々は絶えず誰かを排除し続けなければ、その社会的活動が困難な生き物なのかも知れません。実は、本法の正式名称も、「「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」ですから、「解消」を促進する過程に重きを置いた目的ある表現を取っています。

 しかし、同じ社会に属する誰かが排他・排斥されている社会を共に形成していながら、困難だから仕方がないと居直るつもりは私にはありません。ゲオルク=ジンメル氏の言うところの「排除されていない者は(排除する側に)包括されている」(括弧内は中島)に則れば、同じ社会の構成員として、その社会で誰かが排除されていることを傍観することは、まさしく、「排除する側」への加担を意味するからです。「排除する側」からの脱却を諦めない為にも、この困難を傍観することなく、対峙を続ける姿勢と具体的行動が求められているのだと思います。八木氏も以下の様に述べています。


 「すなわち、差別が不可避的な関係構造であることが問題なのかどうかではなく、焦点は、差別という関係構造への私たちの立ち向かい方にあるというべきなのです」※14。
 「解放とは、達成された未来の『理想状態』なのではなく、それをもとめて悪戦苦闘をつづける『いま・ここ』のプロセスの中にこそありうるという点だ」※15。



「差別解消」とは何か?



 そして、差別を捉える際に、果たしてそれを「解消」するという理論で良いのかという点は検討するに値します。前述の通り、差別そのものがなくなることは無いことを前提に考えれば、この「解消」するという理論は、消えて無くなるという意味よりは、消えて無くなった様に分からなくしてしまうという意味に繋がる恐れがありますし、差別を潜在化・埋没化させる方向に人々の行動を促進する陥穽を抱いていると言えます。この様に考えれば、ここで言う「解消」という言葉には、消えてなくなるから転じて、分からなくするという意味合いが強くなります。

 また、多様性の相互理解を促進していくべき現下の社会にあって、この「解消」という問題解決の方法はその流れに逆行しているように思われます。なぜなら、消えて無くなる様に分からなくするためには、これらの問題を一定の基準に当てはめる必要があるからです。存在が消えて分からなくなると言う事は、その問題が何かと同化・融合することと強い結びつきがある様に私は捉えています。まさに、多様性を認める社会ではなく、画一化を認める社会へ凋落する危険を孕んでいるのです。再び、八木氏の論文を引用します。


 「この国の部落解放運動は、(中略)伝統的に〈同化〉モデルに対しては消極的であり、むしろ、多くの場合、それは解放の主体形成を阻害する融和主義であるとして拒否してきたと一応はいえる。(中略)要するに、部落解放運動は水平社以来、ともかく〈同化〉を拒否して少数者としての自立をめざし、近代的市民としての解消に対して否定的なスタンスを保ってきたことになり、その意味では、どちらかといえば〈文化的多元主義〉モデルに近い理想をもっていたことになるだろう」※16


 部落差別にかかる運動の多くが、一部を除いて、この「解消」ではなく「解放」というスタンスを取ってきたことには上記の意図がありました。

 障がい者差別においても同様に留意の必要があると思います。障がい者差別を消えて無くなる様に分からなくすると言うことは、それは障がい者以外の人々の論理において成されていく過程を指すのではないでしょうか。多数派の理論が普遍化した形で、社会の「常識」や「公理」「普通」が成り立っていることを鑑みても、障がい者以外の人々の論理から見て、消えて無くなる様に埋没化・潜在化して行く過程に陥るものと言えます。

 であれば、障がい者以外の人々の論理で、障がい者差別を論じ、働きかけることで社会は、私たちの目指すべき方向とは逆の方向へと導かれて行くことでしょう。このことにこそ、前段で少し触れた障害者権利条約における障がい者とそれ以外の者との「均衡」の有無を持って差別を判別することや、本法の、「障害者でない者との対比」においてこの差別を判別しようとする姿勢に強い違和感が生じてくるのです。健常者の理論に障がい者を当てはめて差別を「解消」させるのではなく、障がい者の理論を社会に「解放」していく活動や運動の在り方こそが求められていることを強調しておきたいと思います。



社会福祉実践家と差別の関係



 クライエントの権利擁護をその使命(ミッション)としている社会福祉実践家が、あらゆる差別と対峙し具体的な活動を行うことは、多くの実践家にとって異論の無いことでしょう。ここでは更に深めた形で、差別との対峙、解放に向けての実践を社会福祉実践家が担うべきその理由について確認しておきたいと思います。八木氏によれば、差別は排除の観念形態であると論じています。


 「やはり、人間というものは差別する存在であり、その意味で排除や差別は『社会の常態』であるという点です。『排除や差別』と並列しましたが、ここでは『〈排除〉とはそもそも当該社会の〈正当な〉成員として認識しないということを意味する』(江原由美子『女性解放という思想』勁草書房、一九八五年、八四頁)を引用するにとどめ、深入りはしません。あえてつけくわえれば、当該社会の正当な成員として『認識しない』だけではなく、『処遇しない』をふくめるべきだという点です。すでにのべたように、私個人は、「差別」を「排除の観念形態」としてとらえています」※17。
 「もちろん、『排除』と『差別』とが完全に同一物だとまではいえないにしても、『差別』を『排除の観念形態』としてとらえれば(私自身は、この観点にたっています)、理論的には『排除』と『差別』の距離を無限小にまでちぢめることも不可能とはいえません」※18。


 差別と排除が同一とまでは言えないまでも、両者に強い相関性と関連性があることは認めてよいと思います。であるならば、権利擁護とも相関性と関連性の非常に強い社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の実践が求められている社会福祉実践家の領域と、差別解放への実践は、かなり密接な関係があることが理解されるのではないでしょうか。つまり、社会的排除(ソーシャルエクスクルージョン)に対峙した具体的な実践を行う中で、地域に社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)を促進していくことであらゆる差別は解放への接近を期待することが出来るのです。この意味において、社会福祉実践家は、差別解放の重要な担い手でもあると言えます。

 今回は比較的長きに渡って、障害者差別解消法を題材とした幅広い検討を行ってきました。差別や人権、そして排除にかかわる問題は、個人的な問題ではなく、社会的な問題として捉えるべき問題であること、その様な視点を浮き彫りにすることを試みた論考を手掛けてみました。障がい者の権利擁護の実践に尽力してきた毎日新聞の野沢和弘氏も以下の様に述べています。


 「集団主義や没個性の精神風土は、軍隊だけでなく、戦後の経済成長を推しすすめてきた合理化や効率化という原理にも共通する。高性能の工業製品を大量生産するためには、従業員に対して個性よりも均質さを要求し、労働力を育て供出する学校教育においても忍耐をともなう集団主義や横並びの協調性を求め、そこからはみ出す児童・生徒を排除してきた。障害のある子どもは普通学級から排除され、障がいのない子どもの世界でもほかの子と違う個性を少しでも嗅ぎ取られるといじめの標的にされ、不登校やひきこもりへと追い込まれた。異質なものを排除する無意識のシステムは、新しい時代を創造する感性を抹殺し続けてきたのである。それを変える可能性を秘めるのが合理的配慮義務という概念なのである。一人ひとりの違いを理解したうえで必要な配慮をすることを、社会や学校などに義務づけようという考えである。均質性より多様性、汎化性より希少性を重んじたり楽しんだりする成熟した社会の価値観を獲得するために、個々の特性に配慮し異質さを尊重する合理的配慮義務が重要な役割を演じることを期待したい」※19。


 まさに、社会構造やその価値規範の在り方こそが問われているのです。そのあり方を変容していかない限り、あらゆる差別は解放へと導かれることは無いのでしょう。そして、これは被差別者の為の運動・活動ではないことも一方で理解できるのではないでしょうか。そうです。全ての人々が自分らしく暮らしていける社会の構築へと間違いなく繋がる営みなのです。ですので、この差別解放への取り組みは、全ての人間の社会福祉の向上を目指す社会福祉実践家の主たる実践領域と言っても過言ではありません。

 では実際に、どのような形で、私たち実践家は具体的活動を展開し、社会のあるべき姿への接近を成すことが出来るのでしょうか。その手がかりを導き出すことこそが、私たち、今を生きる社会福祉実践家の使命であると言えます。私たちの法人が、そして、私自身が生涯をかけて検討を重ねるべき定立が今ここにあるのです。





※1 「障害者の権利に関する条約」第2条(定義)
※2 「障害者基本法」第4条(差別の禁止)
※3 東俊裕「障害者差別解消法の意義と課題」『月刊福祉』全社協 PP.12-20 2013年12月
※4 八木晃介『差別論研究』批評社PP.57-58 2010年1月「差別とは何であって何でないのかという問題を解明するのは簡単そうで、実は、それほど容易なことではありません。きわめて一般的に差別を定義するならば、公式的または非公式的に特定のクラスにグループ分けされる人々の差異的かつ不公平な処遇、ということになりましょうか。『不公平な処遇』というかぎりは、差別の行動的次元が強調されていることは明確であって、いかなる偏見(これは態度・信念・意見などのレベルにぞくします)も行動化され、しかも被差別者に具体的な不利益をおしつける段階にいたらないかぎり、差別とはいいきれないようにおもわれます」「もちろん、『差別』と『偏見』とは次元を異にするだけのことであって、両者がまったく無関係であるなどということはできません。時に差別を『行為を姿にかえた偏見』として定義することがあるのはそのためです。ただし、糺弾できるのは可視的な『差別』であって、不可視的な『偏見』をそれ自体として糺弾することは不可能です。他者の心の内や脳の中を透視することはできないからです。『偏見』の所在は、『差別』への変身を予測させるかもしれませんが、予測は教育や啓発に適合的ではあっても、糺弾にはなじみますまい」。
※5 八木晃介『差別論研究』批評社PP.60-61 2010年1月
※6 東俊裕「障害者差別解消法の意義と課題」『月刊福祉』全社協 PP.12-20 2013年12月
※7 衆議院付帯決議「4 合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること。また、意思の表明について、障害者本人が自ら意思を表明することが困難な場合にはその家族等が本人を補佐して行うことも可能であることを周知すること。
5 国及び地方公共団体において、グループホームやケアホーム等を含む、障害者関連施設の認可等に際して周辺住民の同意を求めないことを徹底するとともに、住民の理解を得るために積極的な啓発活動を行うこと」。参議院付帯決議「1 また、同条約の趣旨に沿うよう、障害女性や障害児に対する複合的な差別の現状を認識し、障害女性や障害児の人権の擁護を図ること。4 合理的配慮に関する過重な負担の判断においては、その水準が本法の趣旨を不当にゆがめることのない合理的な範囲で設定されるべきであることを念頭に、事業者の事業規模、事業規模から見た負担の程度、事業者の財政状況、業務遂行に及ぼす影響等を総合的に考慮することとし、中小零細企業への影響に配慮すること。また、意思の表明について、障害者本人が自ら意思を表明することが困難な場合にはその家族等が本人を補佐して行うことも可能であることを周知すること。6 国及び地方公共団体において、グループホームやケアホーム等を含む、障害者関連施設の認可等に際して周辺住民の同意を求めないことを徹底するとともに、住民の理解を得るために積極的な啓発活動を行うこと」。
※8 栗原彬「差別とまなざし」『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』弘文堂P.26 1996年12月
※9 原田伴彦『被差別部落の歴史』朝日新聞社PP.44-45 1996年7月
※10 八木晃介『部落差別論 生き方の変革を求めて』批評社P.273 1996年5月
※11 鎌田慧『ぼくが世の中に学んだこと』ちくま文庫PP.93-95 1994年6月
※12 八木晃介『差別論研究』批評社P.40 2010年1月
※13 ゲオルク=ジンメル著 居安正訳 『社会学 社会化の諸形式についての研究(上)』白水社 P.409 1999年10月「あらゆる現実的な共同社会の実際の量的な限界づけにもかかわらず、重要な一連の限界づけが存在する。その内的な傾向は、排除されていない者は包括されているということである。一定の政治的、宗教的、身分的な円周内において各人は、たいていは自発的ではないにしても、彼の生存によってあたえられた一定の外的な諸条件を満足させ、ただちに『それに所属している』と考えられる。たとえば国家領域のなかに生まれた者は、特別な状態が彼を例外としないばあいは、幾重にも複雑な国家団体の成員である。一定の社会階級の所属者は、自発的あるいは非自発的に局外者とならないばあいは、もちろんその階級の社会的な因襲と結合形式のなかへ引き入れられる」。
※14 八木晃介『差別論研究』批評社PP.62 2010年1月
※15 八木晃介『部落差別のソシオロジー』批評社P.26 1994年11月
※16 八木晃介「部落問題の社会学」『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』弘文堂PP.73-74 1996年12月
※17 八木晃介『差別論研究』批評社PP.61-62 2010年1月
※18 八木晃介『差別論研究』批評社P.40 2010年1月
※19 野沢和弘「障害者差別解消法を活かすために」『月刊福祉』全社協 P.45 2013年12月



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中島康晴 特定非営利活動法人 地域の絆 代表理事
1973年10月6日生まれ。大学では、八木晃介先生(花園大学教授・元毎日新聞記者)の下、社会学を中心に社会福祉学を学ぶ。巷で言われる「常識」「普通」に対しては、いつも猜疑心を持っている。1億2千万人の客観性などあり得ない事実を鑑みると、「普通」や「常識」は誰にとってのそれであるのか、常に思いを巡らせておく必要性を感じる。いわゆる少数派の側から常に社会を捉え、社会の変化を促すことが、実は誰もが自分らしく安心して暮らせる社会の構築に繋がると信じている。
主な職歴は、デイサービスセンター生活相談員、老人保健施設介護職リーダー、デイサービス・グループホーム管理者。福祉専門職がまちづくりに関与していく実践の必要性を感じ、2006年2月20日特定非営利活動法人地域の絆を設立。学生時代に参加した市民運動「市民の絆」の名前をヒントに命名。
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