昨今取り沙汰されている「STAP(スタップ)細胞」の論文に多数の疑問が指摘されている問題。これらを私たちはどの様に捉えるべきなのでしょうか。正直なところ、仮に研究者個人の見識や行為に問題があったとしても、それを個人の責任に帰して問題解決を図る方法は最も愚策であると認識しています。いみじくも、高血圧治療薬ディオバンの臨床研究では、データ操作があったと調査機関からの公表があり、論文も取り下げられたところです。また、別の報道では、「山崎茂明・愛知淑徳大教授の調査によると、医学・生命科学分野で撤回された論文のうち日本からの論文は約10%を占める」※1とあります。
実は、そもそも、iPSやSTAP細胞そのもの及びその後の研究が、本当に人々の暮らしをより豊かにするのかについて私自身は一定の猜疑心を抱いています。自然(宇宙)の摂理の中で生かされてきた人間にその摂理に“対抗”し得るだけの能力が備わっているとは到底思えません。むしろ、この“対抗”の中で、我われの手に負えない新たな問題が噴出することが推測されます。少なくとも、副作用や倫理的課題と言う障壁ははっきりと見て取れるのではないでしょうか。
本論に戻るとして、例えば、法務官僚の講演や職員との対話の中でも聴かれるのは、犯罪を行った人々の多くは「普通の人」だと彼らが認識しているというものでした。この様な話を聴きながら自身も考えます。罪を犯した人々と同じ社会環境下に置かれていても、自身は犯罪者になり得ないと言い切れるのか。同様の生活歴を有していて、その行為の機会が目の前にあったとしても、自身も犯罪に手を染めないと言い切れるのだろうか、と。社会環境、他者との関係の中で形成された価値規範によって人々は行動を起こす。こう考えれば、人々が罪を犯したとして、それを単に個人的な問題として処理することが妥当な方法であると言えるのでしょうか。もう少し掘り下げて考えれば、彼らの“加害”は、同じ社会を構成している私たちが創造しているのかも知れないのです。その想像力こそを、私たちは共有すべきではないでしょうか。
先ほど認知症の市民講座を担当してきたのですが、大事な事は、認知症の問題は、誰が取り組むべき問題なのかという事です。「当事者」とされている認知症のある人々が取り組むべき問題なのでしょうか。むしろ、そうではなく、認知症のない人々こそが取り組むべき問題ではないだろうかと投げ掛けるのです。そう考えれば、認知症の問題に対する「当事者」は、認知症のある人も含めた全ての人々を指すのではないかと問題提起を行ってきたところです。もちろん、世の中のあらゆる問題に個人の責任は全くないとは自身は考えていませんが、個人の責任に帰して問題解決することによって、その背景にある社会の課題を度外視することにそれが繋がり、延いては社会の損失に帰結すると私は考えています。
またしても少し余談にはなりますが、当時のマスコミは、むしろSTAP細胞それよりも、その研究者の若手女性を好奇な目で追っているように伺えました。この様に時代の寵児の扱いをしておきながら、その後、研究に疑義が生じた途端手の平を返すかのような報道の展開になることも、一方では、「好奇な目」で注目すべき我が国のジャーナリズムの特性を物語っています。
先の報道では、「日本からの(医学・生命科学分野の論文)撤回は2001年ごろから増加傾向にある」(括弧内は中島)※1とあります。産業分野における規制緩和が促進され出した直後から、市場原理や競争原理にそぐわない分野にまで経済至上主義が加速度的に蔓延してきました。2000年の介護保険制度創設を皮切りに、介護分野を起点とし、社会福祉全分野にもこれら原理が包摂されて今に至ります。丁度この時期に、教育や研究分野にもこの原理が流入して来たのでしょう。その潮流の末流に本STAP細胞問題は位置づけられると私は考えます。
これらに加えて、2005年11月頃発覚した構造計算書偽造問題を始め、昨今の食品(食材)偽装事件は、個別の案件としては昔もあった事象かも知れませんが、社会における普遍的課題として、組織的に成されていたという点においては“現代の社会病理”の特徴と言えるでしょう。この間、性善説から性悪説で物事を捉えるべきだとの議論もありました。この様な難問に判断を下す気はことさらありませんが、一つ言い得ることは、現下の社会構造は、人々の「悪い」部分を引き出す効果を強く含み持っているということです。
人々の暮らしの安全や豊かさを目的とし、最低限の暮らしの質を守るべき活動分野にも、市場原理が導入された帰結として如上の問題は生じているのではないでしょうか。今や教育分野においても、市場原理の導入が顕著です。公教育では、企業における人材マネジメントが常に想定されていて、効率性と生産性が高く、理解力のある人材の育成がなされています。そこで多くの子どもたちは、いや、子どもたちの親は、自らの子どもだけが、将来の暮らしの保障されることに熱中し、この競争原理に嵌まっていく訳です。しかし、人々が、自らの事だけを第一義と考えて生きていくことを教えることが公教育ではありますまい。そうではなく、多様な人々と共に社会を構築し、全ての人々の尊厳が守られることを考え、議論し、行動できる人間を育てることが公教育の役割であるはずです。それが完全に欠如してしまっているのが現下の教育なのです。
いま社会に求められているのは、社会構造を含めた物事の本質を協議し学ぶ真なる公教育の確立ではないでしょうか。高齢者ケアでよく取り上げられることが多いスウェーデンですが、それでも実は高齢者にはあまり“投資”がなされていない実態があります。その多くは子どもにこそ“投資”されているのです。市場原理によらない公教育の確立こそが喫緊の課題であると考えます。
斯くの如く、現下の社会では、教育が2つの範疇に分別されているように思います。社会や共同体のための教育としての公教育と、企業・法人に所属し、市場で勝つための人材育成(職業教育)となるのでしょうか。一つは、資本主義社会を選択している我が国において、この双方が重要であるとの認識が必要です。その上で、それぞれの目的に照らして、その導入の機会を検討すべきでしょう。でなければ、上記のように、義務教育や高等学校、大学においても、公教育では無く、経済的な人的資源を育成する活動が蔓延ってしまうのです。他方、派遣労働に象徴されるように、我が国においてはその双方が欠如していると言えます。派遣労働の最大の瑕疵は、人材育成(職業教育)を想定していないことにあります。企業が最後まで労働者と向き合う気が無い訳ですから、人材育成(職業教育)は労働者個人が担うべき課題となります。
もう一度整理し直せば、公教育では、社会の全ての構成員の尊厳ある暮らしをどの様に構築すべきかを学ぶべき所であり、職業教育では、組織人として、職業人としての組織性と専門性を高めていく場であると認識します。これら双方は重要な役割を担っているものの、対象者に応じた役割分担を明確にしていくべきだと認識します。また、そうでありながらも、公教育において職業教育の要素が強く蔓延している事、そして、双方ともに現下の社会では減退化の傾向にあることが課題となることを確認しておきます。
そのことを踏まえた上で、社会福祉経営において、これら事象から何が考えられるのかを少し吐露してみたいと思います。まずは、社会福祉専門職としての人材育成を行うことが私たちには求められています。これを否定する人はまず何処にもいないでしょう。産業界でいう所の、“製品”や“商品”“サービス”はその殆どが職員の内部に宿るものですから、当分野においてこの育成をしなければ経営は成り立たないはずです。確かに、巷間で言われているように、他業種に比べ、福祉介護職は低所得かも知れません。であるからこそ、私は福祉経営者として、この人材育成に力を入れたいと思っています。仮に、高い給与の支給が出来なくても、我われ福祉経営者には出来ることがあるのだと思うのです。この人材育成を続けて行けば、職員は仮に低所得であっても仕事を継続することは必ず出来ます。また、人材育成によって専門性(価値・知識・技術)が高まれば、職員ひとり一人の暮らしの安定にそれが繋がることは勿論、それが社会全体の発展に寄与する視点は欠かせません。この人材育成を粘り強く継続していくことが、職員の暮らしを守り、延いては、クライエントと家族、地域に対する貢献へと繋がるからです。
私たちの法人が創設以来、人材の確保が難しい折でさえ、派遣労働を断固として拒否し続けてきた理由はここにあります。言うまでも無く、人はモノではありません。“使い捨て”になど出来ないのです。経営理念に共感を覚え入職した職員とは、長い歳月をかけて向き合い、この人材育成を行っていくことが重要だと考えています。その為には、派遣労働の受け入れは忌避されるべきです。また、企業・法人が人材育成に労力と時間を割り当てなくなれば、労働者の暮らしは不安定となり、延いては、社会に多様な問題を生じさせることとなるでしょう。そう考えれば、人材育成は企業の社会的責務と言えるのです。たとえ無自覚であれ、派遣労働の実態を甘受している企業は、企業の社会的責任を果たしていないと言えるのではないでしょうか。
そして、冒頭のSTAP細胞の件、医学・生命科学分野における論文問題にある様に、企業や法人における人材育成の場でも、公教育の導入があっても良いと考えています。実は、私たちの法人でも福祉や介護に直接関係のない研修体系を検討している所です。過日は、差別論や人権についての講義を企画しました。組織人・職業人として、企業や法人の利益に役立つ人材育成のみならず、社会や共同体、延いては全ての人々の為に役立つ人間を育てることもまた経営者の役割ではないかと考えるに至ったためです。
公教育が希釈化されているこの時代であるからこそ、企業や法人においても公教育の導入や促進があっても良いと自身は考えます。また、企業・法人の目的を基準に考えれば、公教育は決して即効性のあるものでは無いでしょうが、遅効性であってもやがて必ずや組織に成果を及ぼすものと認識しています。今の人材育成(職業教育)は、即効性のある目先の成果ばかりを求めており、それが却って組織人・職業人としての成長を妨げているようにも伺えます。このことと、STAP細胞問題は決して無関係ではないと思うのです。組織人・職業人の人材育成で成果を上げるためにも、やはり公教育の実践が欠かせないと再認識したところです。
以上の事からも、福祉経営に拘わらず、あらゆる経営の要諦は教育であると昨今強く考えるようになりました。経営者は、その組織の構成員に対して、教育の機会を一貫して提供し続け、構成員ひとり一人の成長を促進していく過程そのものがその仕事であり、教育こそが経営であると言えるのかも知れません。そして、その先にこそ経営理念への接近と、あるべき社会の構築が成されるものと信じています。
世界第3位の経済大国でありながら、人々の暮らしの質が決して高くは無い、この不可解な現象の要因は一体何処にあるのかを含め、人々が自らが構成する社会の現状と課題について熟慮し、そしてあるべき社会の姿を模索するためにも教育は最も欠かせぬ要素であると言えます。私が、再び大学院にて教育学研究科を専攻した理由はまさにここにある訳です。
※1 『朝日新聞』2014年3月15日
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