法人職員のために大学の恩師に過日講義を頂く機会がありました。私たちの法人の職員に拘わらず、福祉・介護分野で働く人々に対する問題意識として、社会の構造やその価値規範といったマクロ領域の視点や、人権とは何か・社会福祉とは何か、といった本質論を検討する視座が希薄化しているように思えます。要するに、我々は一体何のためにこの仕事をしているのかを深く捉えずに、目の前のクライエントと向き合い、それを業としてこなしている感が否めないわけです。もう少しはっきり言えば、専門職ではなく、単なる技術屋さんに凋落してはいないかとの問題提起の意味を含めての課題であると言えます。これらの課題を少しでも克服すべく、私たちの法人では今後、介護・福祉とは直接関係のない領域の研修(講義)も設定する予定です。いみじくも、私の尊敬する経済学者にも一役買っていただけることを一昨日確認したところです。
さて、恩師の講義は、部落差別問題や優生思想批判、医療分野の経済至上主義批判における具体的な事例を扱いながらも、一貫して「当事者性」とは何か、を問うたお話であったと認識しています。私たち社会福祉実践家、特に私の場合はソーシャルワークが重要になってくる訳ですが、これらのなすべき仕事を一言で言及すれば、クライエントの権利擁護の実践を通して、すべての人々の尊厳ある暮らしが成される社会を構築することがその根底にあると言えます。
ここには二つの視点があることは言うまでもありません。ひとりの人の支援たる「クライエントの権利擁護」と、その延長線上に繋がっている「すべての人々の尊厳ある暮らし」の構築。ソーシャルワークの基本的な考え方として、また現在なされている実践の在り方としては、前者が圧倒的に優位であり、後者はあまり意識されていないか、等閑に付されている感は否めません。しかし、これからのソーシャルワークでは、この二つの視点を同様に重視した実践が求められていると私は考えています。
「当事者性」を検討するにあたって、ソーシャルワークのこの端的な二つの視点に思いを巡らせておくことはきっと不毛な作業ではないと自身は考えます。今の思いを以下少し吐露しておきます。
例えば、クライエントの「当事者性」を考えてみます。認知症のある人の「当事者性」という捉え方もあるかも知れませんが、それは飽く迄も理念的なお話であって、実践論的には、やはりそこに個別性が存在するのではないでしょか。同じ認知症のある人であっても、AさんとBさんの「当事者性」は異なるわけです。また、AさんとBさんの「当事者性」が対立構造に陥っていることもあるでしょう。このように考えれば、認知症のある人の「当事者性」という概念ははやり揺らいでくると言えます。認知症のある人の「当事者性」が、存在するのではなく、AさんとBさんの「当事者性」が存在しているに過ぎないのです。
そのような認識の上においてでも、認知症のある人々や、障害のある人々、少数派やその他排他・排斥されている人々における運動の在り方として、仮の「当事者性」を用いることに自身は否定する立場を取りません。なぜなら、ソーシャルワークの使命としては、「すべての人々の尊厳ある暮らし」を目指すべく、ソーシャルアクションを起こすことの重要性も一方で強く認識しているからです。しかし、この場合の、集団毎の「当事者性」は、一定の個別性を排した仮のものであるとの認識が不可欠です。被差別部落の人々の中にあっても、在日韓国・朝鮮の人々の中においても、多様な個別性のある立場や思想が存在すると言うことです。そこを度外視した運動は、おそらく、その後の広がりを見せることはないでしょう。
広がりのある運動を成すためには、少なくともその集団内に個々に存在する「当事者性」が一定程度共有される作業が成されていなければならないと思うのです。例えば、同じ「障害のある人」との位置づけであっても、そこには置かれた状況や思いに個別性が存在します。そこを互いの個別性を重んじながらも、大局観を持って共通理解を促進していく過程が、後の運動への広がりを見せるのであろうと認識するのです。また、こうして構築された共通理解こそが、集団における仮の「当事者性」であると言えるのかも知れません。また、異なる立場の人々が共通理解を構築していく作業は、煩雑なれど、非常に尊く、重要であるとも認識します。
これまでは、集団の内部における「当事者性」の共有のお話をしてきましたが、ソーシャルワークの要諦は、この集団の内部にある「当事者性」を、その外部に如何に「ひらいて」行くかににあることは言うまでもないでしょう。集団の内部にある個人の「当事者性」を集団内で「ひらいて」一定程度共有することが可能である以上(それを否定するのであれば、あらゆる運動は不毛であると断言できます)、集団としての仮の「当事者性」や内部にある個々の「当事者性」を集団外部に「ひらいて」行くことも不可能ではないはずです。
「他人の痛みは我慢できる」という言葉があるようですが、自身は10代の頃より「他人の痛みが我慢できない」人間になりたいと思って生きてきました。そこには、「他人」の「痛み」は、その「他人」と全く等しくは理解できないけれども、その一部は理解することができるとの信念が厳然と存在していたと言えます。もし、「他人」の思いが全く理解できないとしたら、巷にあふれる映画やドラマ、あらゆる書籍、そしてあらゆる議論は全く意味をなさない代物であると言うことになります。私たち人間は、体験や想像力を駆使して、「他人」の思いの一部は理解することが出来るとても優れた能力を持ち備えていることに強い誇りを抱くべきでしょう。
友人と深夜まで痛飲して語り合い、そこで交わした言葉を翌朝ふと振り返り、彼の伝えたかった思いを考えてみる。このような関わりの過程を通して、人々は、「他人」の思いを一定程度は共有することができるはずです。もちろん、「他人」の思いの全てを理解できる事などはあり得ない訳ですから、この点に対する畏敬の念は堪えず持ち続ける必要はあります。クライエントの思いも然りで、私が対人援助の要諦は、クライエントの思いを「決めつけない」ことと、理解することを「諦めない」ことの双方が重要であると説くのはこのことから端を発していると言えます。
経済至上主義とそれに連動した教育制度が相俟って、私たちは、自らの利益と他者の利益が切っても切れない関係であることを忘却しているように見受けられます。他者の悲しみはやがて、自らの悲しみに繋がり、自らの喜びは他者の喜びへと連鎖している事実を私たちはどこかで見失っている様相があります。誰かを排除する社会を放置することによって、また誰かを排除することによって、そのことが、やがて自らの排除へと繋がることに対する想像力が欠如しているのが現下の社会なのかも知れません。
私たちソーシャルワーカーの仕事は、その人々の繋がりを、可視化し、社会に共通理解を促進していくことにあると私は考えています。本来であれば、教育によって直接接点の無い他者に対する理解もある程度は人間のなせる能力の範疇であると言えますが、今の教育はそうなってはいませんので、このことは大きな課題であるとも言えます。多くの人々にとって、直接接点のない沖縄や福島、生活保護に係る問題が、人々の間で広く共通理解が成されていないことを顧みればこれは明白な事実であると断じることが可能です。
斯様な状況下において、ソーシャルワーカーがとるべき実践は、地域の中で、多様な他者の存在を可視化と体験を通して共有し、その共通理解を促進することにあるのではないでしょうか。他者の支援を必要としている人々の存在と暮らしを、そしてその人々を支援している私たちの仕事を地域に「ひらいて」、可視化し、体験的な関わりを促進することこそが、自身の利益と他者の利益が繋がり得ることの理解を全ての地域住民に促進し、「他人の痛みが我慢できない」地域社会の構築へと繋げることが出来るのです。このような地域社会を構築することが出来れば、恐らくそこに暮らす人々は、今度は直接接点を有さない他者への慮りを始めるのかも知れません。こう考えれば、ソーシャルワークの実践論には、社会教育や成人教育分野の知見にも触れておく必要性を考えざるを得ません。また、これらの営みは、多くの人々が子どもから大人になるまでの間に経験してきたことを、地域の中で、今度は真逆の体験として促進する過程であるとも言えるでしょう。
福島の不幸の上に、東京の幸福があり、沖縄の被害の上に、国民の幸福がある。除染作業員の苦悩の上に、私たちの安全があり、最前線で生死をかける兵士の上に、人々の安全保障がある。このような社会は決して健全な社会とは言えず、他者の不幸を礎とした幸福などは、しょせん幻想に過ぎず、それに気が付かないこと自体が人々の不幸であると断言できます。
自身の暮らしと他者の暮らしはどこかで必ず繋がっている。であるにも拘わらず、その事が誤魔化され、曖昧模糊とされているその人々の繋がりを敢えて可視化し、体験的な学習の機会をもって共通理解を促進し、再度人々をしっかりと繋いでいく。このことを地域の中で展開していくことこそが、私たちの仕事なのです。
ここまで議論を拡散させておきながらも再び「当事者性」の議論に戻します。繰り返しになるかも知れませんが、如上のことからも、「当事者性」を地域に「ひらいて」行くことこそが私たちの仕事であると言えます。「ひらいて」可視化し、共通理解を促進するために、「当事者」の暮らしや支援者の仕事に直接関わってもらう体験的学習の機会を数多設けていくことがその有効な一つの方法であると私は理解しています。この実践を積み重ねることによって、地域住民は、直接接点を持たない他地域・分野の人々に対する共通理解を可能とし、延いては、この社会を構成する全ての人々の尊厳ある暮らしへと帰結することを信じているのです。
その意味において、「当事者性」を社会に「ひらいて」共有するということは、全ての人々が「当事者性」を有するということにも繋がります。そして、すべての人々の尊厳ある暮らしを目指す以上、そこに「当事者性」は意味をなさなくなるのではないでしょうか。なぜなら、「すべての人々」こそが「当事者」となるはずだからです。であれば、この「当事者性」という言葉そのものの意味を失効させることこそが、私たちソーシャルワーカーの目指すべき到達点なのかも知れません。
※ 友人から教わった事ですが、ここでは、「開く」と「拓く」の双方の意味を併せ持つという意で「ひらく」と表記しています。
この記事にコメントする