以下は、ホームレス支援のための小中学生向けセミナーでの出来事を奥田知志氏本人が綴ったものです。
「『学校でしんどいことがあったら、「助けて」と言っていいんだよ。「助けて」といったら、「何を甘えているんだ」と言う人もいるかもしれない。しかし、「うちにおいで」と言ってくれる人も必ずいるよ。ともかく助けてと言いなさい』と語りかけると、涙を浮かべている子どもがいた。子どもたちは『助けて』といえない、いわばホームレス状態に置かれているのだ。だれが子どもをここまで追い込んだのか。それは、私を含めた大人たちだ。大人たちが『助けて』と言わなくなったから、子どもたちが『助けて』と言わなく、いや、言えなくなったのだ。それでいいのだろうか」※1。奥田氏は人々が「助けて」と言えなくなった要因は、自己責任論の蔓延にあると論じています。
私も全く同様に感じます。若者が仕事に就けないこと、多重多額債務に陥っていること、福島の第一原発の周辺に住んでいたこと、東日本大震災の被災地に住んでいたこと、ホームレス状態におかれていること、これらは全て個人の責任で解決しなければならない問題なのでしょうか。
では自己責任論を全うして生きている人は、世の中に存在するのでしょうか。自己責任論を唱える人々は、その体現者なのでしょうか。誰が考えても分かるはずです。無人島で一人暮らしをしていらっしゃる方を除いて、誰ひとりとしてその体現者は存在しません。いや、無人島の一人暮らしでさえ、実は様々な文明の力を用いていることが多くこれも厳密に言えば自己責任論の体現者とは言えないようです。
問題は大きく二つあります。一つは、論理的に破綻している言葉がよく用いられていること、二つ目に、それを政府の側がよく口にすることです。国や、民族、地域と言った社会の中で生きている以上、自己責任論は何処にも存在しません。その言葉が多用されていること自体、残念ながら我が国が成熟した社会では無いことを国際社会に示すことになりやしないかと危惧しております。政府がこの言葉を用いることは、政府自身がその「自己責任」を放棄しているという意味においても、二重の論理的破綻を招いています。
この社会で暮らす以上、私たちは支え合うことを忌避してはなりません。そして、そのあり方は、実に多様であるはずですし、そのためには、ひとり一人の多様な個性と能力を尊重する社会の規範が必要です。人は誰かを支え、また誰かに支えられて生きている。それは、たとえ社会福祉サービスを利用するクライエントであっても同様です。クライエントが誰かを支えることも当然の事としてあるのです。この当たり前のことを、地域の中で顕在化・可視化させていくことが私たち「地域の絆」の使命であると思っています。
そう考えれば、自己責任論なるものは、「地域の絆」とは全くの逆機能を果すことになります。少なくとも、福祉サービスの申請者・受給者を減らすことに作用することでしょう。福祉サービスを利用する状況に至ったのは、自身の責任だと自己責任論は人々を抑圧するからです。支え合う社会を自己責任論は否定します。支えられる原因を作ったのは自分なのだから、自分に責任があると圧力をかけるのです。だから、認知症の問題でも、本人が、そして家族が何とかすべきだとの意識が未だ根強く存在するのです。であるならば、これは社会福祉実践家の使命である権利擁護とも対立する概念であることが確認されます。斯くの如き「自己責任論」なる言葉を、少なくとも、社会福祉実践家が信仰するようなことだけは無いようにお願いしたいものです。
※1 奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社P.173-174 2011年7月
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