科学の進捗と共に私達の生活は果たして発展・進歩しているのか?近頃疑問に思うことが多くなった。
例えば、今深夜番組を見ているが、私がテレビを見ている数百・数千キロ離れた地域の現在の生活場面が映し出されている。テレビがなかった時代には考えられない様相である。
茶の間にいながら、数千・数万キロ離れた今現在の情報がいとも簡単に手に入る時代になった。また科学の進捗と共に、職業の職種も増加し、仕事の専門化・分業化が顕著になった。これらのことを人類の幸福と考えるか不幸と捉えるか。極論ではあるが、私は人類の不幸であると思えてならない。
情報に関して言えば、テレビやインターネットなどにより件の数千・数万キロ離れた他者の生活をうかがい知る事が出来る一方、それを意識して生活せざるを得なくなった。異文化の今までは知りえなかった地域の情報をしかも適時映像で「知る」事によって、私達の文化・生活様式に変化が起こっている(もちろんその情報は偏向したものである)。これにより、文化・生活様式の画一化が進み多彩な文化の崩壊につながっているのは間違いない。
職業の専門化とは聞こえが良いが、言い換えればその部分部分ではスペシャリストではあるが相対的・総合的に物事を見れない人間の集まりであるとも言える。
科学の進捗と同時に大きく失って来たのはその「過程」ではないかと思う。物事における全ての「過程」を効率のために分業化・専門化してきた中でその「過程」を潜在化させていった。例えば、スーパーで切り身のパック詰めにされている肉や魚・野菜・果物等などから、家畜で育てられ食肉センターで殺される牛の姿や種から苗を育て苗から野菜・果物を栽培する農家の姿は見えてこない。
「過程」の存在を知らず「結果」の認識しか持たない社会は、物事の本質を見抜く力を持たない。それが確実に人文の衰退につながっているのではないかと考える。
そう考えると科学の「発展」と人文のそれは反比例の関係にあるのではないか?と疑念を抱いてしまう。『週刊金曜日』471号(2003.8.8.)「風速計」にて本多勝一氏は自身の鼎談から次の一節を引用している。「原爆までつくってしまった科学の無茶苦茶な発展ぶりに比べて、人文のほうは、ソクラテスや司馬遷の時代から、果たして進んでいるのだろうか」。鋭い視点であると感激した記憶があるが、実は科学の「発展」に比べて人文はほとんど発展していないのではなく両者は反比例の関係にあるのではないかと思うのである。少なくとも科学の「発展」は人文の衰退を招いているように思われる。
文頭より科学の発展と書けず進捗と書いたのはそれが直接人類の発展につながっていないのではないか?との思いからである。人類の発展に繋がる真の発展こそが今後の科学の課題であろう。
人類はさほど有能ではない。が、科学の「発展」を礎にその限界を感じずに今日までやってきた。その限界を認識し、そのありよう(パラダイム)の変革を迫られる時期が目の前に近づいてきている。