2010年2月2日の本ブログにて、『プロフェッショナル仕事の流儀』(NHKアンコール2010年1月26日放送)で取り上げられた鮨職人・小野二郎氏について叙述しましたが、感銘を受けた残りの一つについても忘れぬうちに記しておきます。
修業についた当初、「生来不器用だった(小野)二郎は、何をやっても時間がかかり、どなられてばかりいた」のみならず、今でも、不器用さを自認した上で、お持ち帰りの折をきれいに包装できないと笑顔で話されていた逸話がありました。そして、―――不器用だからこそ、人の3倍練習し、人の3倍考える。人が考えない深いところまで、考える。だから、いいんじゃないかな?―――と話されたのです。
人のもつ才能とは、それ程単純には推し測れないものだと常日頃から私は認識しています。少し取り組んだ時点では、ひどく向いていないと思われる人が、その後努力を重ね、その世界で超一流の実績を残される事例などは全く珍しくもありません。しかしながら、何に焦っているのか?少し取り組んだ後、向いているか向いていないかを時期尚早に判断をされるケースが多いように見受けられます。少しやってみて、向いていないと分かれば、向いている他の何かに時間を費やしたほうが賢明であると思ってはいませんか?
習い事や、趣味等、少しの上達を最終目標においた活動であれば、如上の考えは的確な判断と言えるかも知れませんが、こと一生かけて極めたい専門性や仕事などにおいては不適切な判断と言わざるを得ません。物事を極めるためには、その構成を一旦ゼロまで解体し、自身の考えで再び構成し直し、新しい自分なりの方法を創出することが不可欠ではないかと若輩浅学ながら私は考えています。そのためには、躓きや苦悩が不可欠であると認識しています。この躓きや苦悩と面と向き合うことのできる人が、物事を極めることのできる人であると信じています。
そこでは、やはり大前提として、そこに遣り甲斐や楽しみを見出せなければ、苦悩と対峙し続けることが出来ないと思いますので、その活動は本人にとって何と言っても「好きなこと」でなければならないともいえます。つまり、大切なのは、早期の段階での向き不向きでは断じてなく、本人にとって、遣り甲斐や楽しさを見いだすことのできる活動であることだと私は考えています。
遣り甲斐を感じること、楽しめること、好きなこと、それらを簡単に諦める人が多い様な気がします。自分の声に耳を傾け、自分の信念を大切に貫くこと、この営みが、物事を極める第一歩であることは間違いありません。時には、周囲の雑音に耳を塞いで、自身の思いや考えに耳を傾けることをお勧めします。向き不向きの判断基準で人生の舵切りをすると、自身の中の隠された素晴らしい才能を開花させることなく生涯を閉じることになるやも知れないからです。
向いているか向いていないか、ではなく、自分は何をしたいのか、どのように生きたいのか、そこを大切にすることが要諦であると、小野氏はご示教して下さっているように思われます。
私の尊敬するジャーナリストの一人である故・筑紫哲也氏も下記のように仰られています。実は偉そうに叙述する私も、時折読み直しては、自身を鼓舞する毎日です。
「人と会うのが苦手だった――と自分にとっての最新刊(『旅の途中』朝日新聞社刊)の冒頭に書いたら『信じられない』という反応が返ってきた。(中略)当人がそうやって人に会うことに興味を持ち、積極的にもなるまで、相当に時間も習練も必要としたことを断っておかないと、私がまるで外向的、社交的な人間に生まれついたような誤った印象を与えてしまう。引き合いに出すのが妥当かどうかはわからぬが、私が出会った偉大な俳優、そしてコメディアンすらが、本来の性格は内向的、シャイで、それを克服しようとすることがバネになって、名声を獲得していった場合が少なくない。根っから外向的、『根アカ』はそういう努力を要しない分、かえって表現に深みが欠ける、という関係があるのではないか」(『週刊金曜日』2005年11月18日 582号 「自我作古 フツーの子の暗黒」筑紫哲也氏)。