今日この日、3月11日に思いを寄せるイベントが津々浦々で開催されています。この度の東日本大震災において我々は多くのことを学びました。どれほどに科学の発展が成されようとも、自然環境の前ではそれが如何に無力であるのか。即ち、我々人類におけるその能力の限界が改めて示されました。また、科学の発展及び近代化に相まって喪失された地域住民間における共同性や社会的信頼度についての課題も浮き彫りになりました。良くも悪くも「絆」が叫ばれる契機ともなったのです。中でも最も大きな、しかし、一部の知識人や若輩にとっては今更ながらの学びは、人類における科学技術の未熟さに対する確認であり、そして原子力発電に対する抜本的な変節にありました。3月11日以前であれば、反原発を叫ぼうものなら“村八分”にされていた風潮が、逆に原発推進を主張すれば排他・排斥される社会へと一夜を越えて変節したのです。若輩は、この短絡的でかつ情緒的な変節は如何に我が国の民族性を象徴している様で、少し恐れを抱き静観していましたが、「正しい」流れに我が国がようやく導かれるであろうこの機会と運動を憧憬の思いで静観していました。
しかし、です。安倍首相は2月28日に行った施政方針演説で、原発再稼働に向けた意欲を明示しました。「安全が確認された原発は再稼働します」とのことですが、福島第一原発では未だに放射能が垂れ流しの状況にあります。福島県民の5.4万人もの人々が「後4年」は自宅に戻れぬ状況があるわけです(4年の根拠は何処にも示されていないので当然に括弧書きです)。何度も申しますが、人間の成すことに事故がゼロであることは幻想でしかあり得ません。しかも、原子力発電はその性質上その事故が全くもって許されない訳ですから、これは事業としても明らかに成り立たない産物であると言えます。斯様に考えれば、これは小学生でも分別がつくことになりはしないでしょうか。
第二次世界大戦においては、戦争と侵略に対する我が国の課題が浮き彫りとなりました。しかし、これは、多くの命を落とされた人々に対して大変失礼ではありますが、多くの学びの機会ともなり得たはずです。その反省を我が国は如何に、現代社会に生かすことが出来ているのでしょうか。むしろ、その当時の反省と学びが徹底されていないことによって、我が国は混沌とした状況に陥り、そして、国際社会における先導的な役割を果たせずにいます。人は過ちを犯します。それは、人が悪いからではなく、弱いからだと強く認識しています。であれば、その過ちから如何に学び、そしてそれを繰り返さぬばかりか、新たな方策を打ち出し、次の世代へと引き継いでいくことこそが尊く、そして、それしか出来ぬのが人生であるとも考えています。過ちを認め、そこに真摯に向き合う姿勢こそが尊く、そして、それが自らの誇りに繋がるということが我が国の教育には欠けているのではないでしょうか。
首相の方針演説を聞いて、失敗から何も学ぶことの出来ない我が国の民族性を憂う気持ちが更に高まりました。先の大戦も含めて、これだけ多くの人命と人生を蔑ろにして、そこから何も学ばないという事は無恥かつ無能の象徴であり、それを国内外に明示していることにもなります。国際社会、そして、我が国の100年先の子孫からは間違いなく失笑を買うことになるでしょう。
確かに、3月11日を境に、原発推進から反原発に急激に変節した民族性にも実は問題を感じずにはいられませんでした。常に表層的・情緒的に急変する集団や組織に明日は無いからです。反原発が「正しい」選択肢であると信じていても、情緒的・衝動的な変節の在り方には不満を抱いてもいました。熟慮した結果の反原発では無い事が、今回の首相の方針演説を引き出したとも言えそうです。その意において、私たちは自らの頭で考え、行動する力が希薄化しているように思っています。これは、我が国の教育の「成果」であり、当方から見た際の課題であるとも認識しています。
非を認めないことが誇りではありません。自らが行った非と真摯に向き合い、新たな方策を打ち出す勇気を持つ者にこそ誇りは宿っていると言えます。この度の原発事故における真なる反省と、未来に向けた熟慮こそが、我が国の誇りであり、私の愛国心・愛民族心の在り方であることも叙述しておきたいと思います。