今から表記する内容は、大時代だと世間からは失笑を買うものかも知れません。しかし、私が屍になり、そしてその更に後世においては理解される話であってもらいたいとの淡い期待をもって叙述しておきたいと思います。
まず本日の朝日新聞の紙面から以下の部分を引用しておきます。「政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大総長)は22日、海外で働ける『グローバル人材』の育成を目指した第3次提言をまとめた。小学校での英語教育の強化▽外国語教育を充実させた指定高校づくり▽大学での外国人教員の積極採用――など。月内に安倍晋三首相に手渡す。(中略)小学校では、英語を正式な『教科』にしたり、現在は5〜6年生の実施学年を前倒ししたりする拡充策を提案。下村博文文部科学相は会議後、授業時数や教員の確保策、学習指導要領の改訂などについて中央教育審議会や省内で検討を始める考えを示した」※1。
なるほど。小学校4年生からのイギリス語教育を本格始動させようと言うのですね。若輩は、大きく次の3点においてその導入に真っ向から反駁しておきたいと思います。
まず一点目は、「グローバル人材」の本質とは何かを問うべきではないでしょうか。そもそもグローバル【global】とは直訳すれば、「世界規模である様・包括的な様」のことを言うのでしょう。その際の「世界規模」とは本来であれば、言わずもがなまさしく全世界・世界中のことを指すことは小学生にも理解できることではないでしょうか。ではなぜ、イギリス語=世界と言う考えに発展するのか理解に苦しみます。世界と言えば、我が国の所属するアジア地域をはじめ、アフリカやラテンアメリカもその世界の中に含まれるはずです。また、以前からの文部科学省の方針によれば、イギリス語教育は国際理解に繋がると言われて来ましたが、それも同様に反駁されるべきことでしょう。なぜ、イギリス語を理解すれば国際理解をすることにそれが繋がるのでしょうか。中国語や韓国語を学ぶことは国際理解に繋がらないのでしょうか。
二点目は、愛民族心・愛国心に繋がる重要な問題にあります。言語は文化であることは言われ続けている事です。いみじくも、若輩も現在仕事上の目的を有してイギリス語会話を毎日の様に聞いていますが、会話の内容そのものに西洋文化が鏤められています。日本語に訳しても、日本人であればまずもってこんな物の言い方はしない受け応えの場面が散見するのです。この今こそ、日本文化に触れ学ぶべきライフサイクル期において、西洋文化とその言語を学ぶ小学生が増えることによって、日本語とその文化はきっと近いうちに崩壊の憂き目にあうと断言できます。その様にして、我が国のアイヌ語を含めた世界中の言語は喪失されていったのですから。
三点目では、世界中における言語と文化の画一化が急速に進んでいることに対する警鐘の意を表しておきます。画一化とは、主流の言語と文化が、非主流のそれを駆逐することによって進められていることを意図しますから、これは、非主流言語と文化の排他・排斥状況を意味します。言語学を学んだわけではない素人の発言ですので、ここでは次の2点を引用しておきたいと思います。
「現在、英語の国際的地位により、日本語は英語と対等な地位になく、日米コミュニケーションは『英語支配』です。言語の不平等は、両国の不平等な関係につながっており、『対等なパートナーシップ』の障害になっています。『英語支配』では日本の考えは十分に伝わりませんし、母語を使う『言語権』も奪われています。また、日本国民が熱心に英語を学んでいるのとは対照的に、アメリカ政府・国民は英語の上にあぐらをかいて、『日本語が障壁だ』とさえいうほど傲慢です。これでは、相互理解は不可能です」※2。
如上にあるアメリカと我が国の関係。これは明白な差別関係であると若輩は認識します。また、これは「言語権」という我が国の権利侵害であるとのご指摘ではないでしょうか。わが国の政府は、自ら喜んでこの「言語権」を放棄しようと言うのでしょうか。
「R. フィリプソンは、『言語帝国主義、あるいは言語一極集中状況』という書物の中で、英語国を『中心国』と『周辺国』の二つのグループに分けて論じている。いうまでもないことだが、英米両国は前者に属する。アジア・アフリカ(そして日本も)後者だ。中心と周縁の関係は、フィリプソンのことばを使うと『非相称的、非対称的』である。つまり、両者の関係は、支配と被支配の関係で、相互性はない。それは資源・情報・(科学)技術など、現代社会のシステム(あるいは世界秩序)を維持していく基本的構成要素が中心国によって支配あるいは独占されていくことを意味する」※3。
言語帝国主義という言語間における如上の差別構造を等閑に付して、無関心のまま十代の頃より私はイギリス語を学ぶ気になれませんでした。今ようやくこの歳になり、西洋圏で仕事をする可能性が生じてきた為必要に迫られて初めてイギリス語を学んでいるのです。しかし、この歳からでも十分にイギリス語を一定程度は学ぶことが可能なはずです。だからこそ、学んでいるのですが…。なぜなら、私は「一定程度」つまり、会話が困らない程度に出来ればそれで良いと考えているからです。それ以上の特殊性のある専門性の高い話や、綿密な会話が必要な際は通訳を使えば宜しいと考えます。幼いころからイギリス語を学べば、通訳など使わずとも十二分に会話が成立するようになると言われる方もいらっしゃることでしょう。それでは例えば、私たちはどれだけ十分に日本語を用いる事が出来ているのでしょうか。よく私のブログを読んで、分からない漢字や日本語があるとのご指摘を受けることがあります。そして、書いている私ですら、まだまだ未知なる日本語が存在するのです。その様な状況下において、幼年期からイギリス語を学んだとしても、私たちの日本語同様に所詮限界はあるはずです。研究者や通訳・翻訳者等の特殊な職業人を除いて、その限界に挑戦するために多くの労力と歳月を用いる事は馬鹿げていると自身は考えています。何度も申します通り、大切なのは話す中身にあるのですから。幾ら流暢な日本語を話せたとしても、内容の無いことをペラペラしゃべられてもそこから多くのことは学べません。それと一緒で、他国・他民族の人々が思わず耳を傾けたくなる話すべき内容こそを研鑽して積み上げて行く必要があります。そのことにこそ、時間と労力を割いた方が必ずや素敵な人生を全うすることが出来るのではないでしょうか。
斯様に、小学校のイギリス語教育の本格的導入は、少数派の排他排斥を奨励するものであり、そして我が国の国益を大きく損ねるものであると断言できます。愛民族者及び愛国者である私の立場から言えば、これは看過できない体たらくではないでしょうか。
そして、小学校教育において最も大切なことは、国際社会で馬鹿にされないための、理論的思考力を高める事ことが求められており、その教材として、なぜこのような言語帝国主義の状況があるのかを教えることこそが真なる国際理解に繋がるのではないかと考えます。
※1 『朝日新聞』2013年5月23日
※2 津田幸男「私の視点 『日米言語協定』の締結を」『朝日新聞』2002年1月5日
※3 中村敬「この国を『米国ニホン州』にしないために」『週刊金曜日』1997年2月7日