予てから、プランドハプンスタンス(計画された偶発性)理論に興味があり、昨今漸くその関連書籍を読むことが叶いました。本理論の要点を列挙した箇所を引用すれば以下の事が描かれています。
「※将来何になるか、決める必要はない。
その時々で目標はつくってもよいが、目標はあなたの成長や学習、環境の変化に伴って常に変化する可能性があるものです。常に目と心をオープンにしておきましょう。
※想定外の出来事があなたのキャリアに影響を及ぼすことは避けられない。
想定外の出来事が起こったときにはいつでもそれを利用できるように常に注意を怠らないでいましょう。
※現実は、あなたが考える以上の選択肢を提供しているかもしれない。
夢を追求するときは、夢を見つつ、しっかり目を開けておくということを忘れないでください。
※色々な活動に参加して、好きなこと・嫌いなことを発見する。
どんな活動にも積極的に取り組んで、ベストを尽くしましょう。
※間違いを犯し、失敗を経験しよう。
間違いや失敗は重要な学びの経験となり、それが予想以上によい結果に結びつくこともあります。
※想定外の幸運な出来事をつくりだそう。
人の手伝いをしたり、組織に所属したり、講座を受講したり、友達や見知らぬ人と話をしてみたり、ネットサーフィンをしてみたり、本や雑誌を読んだり・・・・つまりは、積極的に人生を送ることで、想定外の幸運な出来事をつくりだすことができます。
※どんな経験も学びへの道。
新しい仕事は常に新たな学びの経験です。その仕事に就く前に、仕事のやり方を知っている必要はあり ません。
※仕事以外でも満足感を得られる活動に携わる。
雇用されていなくても、そのような活動を通じて、従来とは異なる方法で、他者に貢献することができます。人生の後半では、それはむしろ老後への健全なアプローチです。
※内面的な障害を克服するために、新しい考えや経験にオープンであり続ける。
人生を豊かで満足感のあるものにする考え方や行動を取り入れましょう。ブッカ―・T・ワシントンの言葉を借りれば、『成功とは、たどり着いた地位よりも、むしろ成功を目指して克服してきた困難で測るべきだ』」※1。
やるべきことを決めない。オープンマインドであること。好奇心を有して、積極的に学び・挑戦すること。これらの大切さが強く謳われているようです。因みに、あるべき目標を目指して実践を重ねて行くキャリアアンカー理論と、人材マネジメントの分野においては対比されることのある理論だとか。いずれにせよ、キャリアアンカー理論もプランドハプンスタンス理論もキャリア形成における成功を目指した理論であると言えるでしょう。そしてそのキャリアゴールを当初から定めておく方法と、そうではない方法の違いがここでは見ることができます。
そこで素朴な疑問が湧いてきました。そもそも「成功」とは何を指すのかと。有り体に言えば、物事を目的どおりに成し遂げること、またそのことを通して、社会的地位や名声などを得ることとされています。要するに、自らが定めた目的を達成することがその要諦であると言えそうです。であれば、仕事上の業務目標の達成も成功と言えますし、目標の学校に入学することも成功と言えるのかも知れません。しかし、人生における成功において、最も重要な視点は、後悔のない人生を送ることにあると自身は考えています。それこそが人生の目的であると。後悔のない人生とは、自身の信念を貫いたとまで行かずとも、少なくとも大切にして生きてきたというものではないでしょうか。自身の信念に基づいて、如何に多くの重要な決断を行ってきたのかが問われているように思えます。
実は、プランドハプンスタンス理論に触れながら、物足りなさを感じた理由はここにありました。それは、自身の信念なくして成功と言う結果を得ることが果たして出来るのかと言う問題意識にあります。信念を貫くことは、これを真なる夢と置き換えて考えることもできるのではないでしょうか。同じく昨今手にした本から以下の件を引用しておきます。「ときどき手段と夢を間違えている人がいます。手段と夢というものは、間違えてはいけません。自分が今持っている夢というものが、手段なのか本当の夢なのかを判定する簡単は方法があります。それはその夢をかなえるためのプランBがあるかどうかです。プランがひとつだけで、プランBがない夢は、きっと手段です。夢を達成するにはいろんな方法があるんです。プランBが持てない、他の手段を考えつかない夢というのは、手段のうちのひとつにすぎません」※2。つまり、「手段」ではない真なる夢とは、最も遠くにある人生の目的そのものであり、その目的に到達すべき経路は数多あるということなのでしょう。そして、人生の目的を設定することに欠かせないのが信念であると自身は考えています。人生の目的とは、信念を貫いた結果であり、それこそが真なる夢であると。
引用させて頂いた植松努氏は、飛行機やロケットが大好きでその開発をされているようですが、その真の目的は、「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくすこと」※3なのだそうです。であれば、植松氏の真なる夢はロケット開発ではなく、その様な社会を構築することこそがその信念であり真なる夢であると言えるでしょう。例えば、売れる本を書きたい小説家の真なる夢は、本をたくさん売ることではなく、その本を読んでくれた多くの人々に伝えたい何かがあるからではないでしょうか。また、企業家の真なる夢は、起業することや会社を大きくすることではなく、その実践を通して社会に貢献したい何かがあるからなのでしょう。金儲けだけを真なる目的として、活動しているのではなく、芸術を通じて伝えたい何かがあるからこそアーティストは活動を重ねているのではないでしょうか。もちろん、そうではない事例が数多あることは周知の事実です。数多あるばかりか、多くは「手段」と「夢」を本末転倒の如く取り違えた実践が主流であり、如上の信念及び真なる夢に基づいた実践の方が遥かに例外的存在であることも理解している所です。
しかし、人生における成功とはそんなものでは無いはずです。
私たちは「手段」と「夢」をはき違えてはいけません。信念たる夢をもって、それこそを中心に据えて実践を重ねる必要があります。以前NHKのある番組で、科学者たちが、科学者は科学技術の革新を行うことこそがその使命であり、その発展された技術をどのように活用するのかは社会に委ねるべきだと語っていたことがあります。自身は、その無責任さと、信念の無さに驚愕しながらその話を聞いていました。原子力技術は将来社会にどのような影響を与えるのか。その未来構想を描きながら開発されたのでしょうか。遺伝子組み換え作物技術やクローン技術なども、それが社会にどのような影響を与えて行くのかまで、知識人としての信念を持って開発が進められたのかは甚だ疑問に思うところです。
世界初の科学技術の開発をすればそれが人生における成功なのでしょうか。私にはそうは思えません。自身の正しいと信じる道を探りながら、それを信じて進む人生を送っているのか如何にそれはよるのではないでしょうか。確たる信念を有して、それを抱き生きることこそが、人生における唯一成功への第一歩である気がしてなりません。
しかし、と自身は考えます。また、植松氏の著書を拝読してその思いは確信に変わっても行きました。私の経験則で言えば、自身の信念や目的を持つこと。それは、日々の生活の中で、自身が感じたこと考えたことに耳を傾けることから始まると考えています。そのためには、周囲の「常識」や「普通」を黙殺し、自身と向き合うことからその断片を知ることが出来るのではないでしょうか。そして、自身の思いや考えを持って、日々の生活及び社会情勢を捉えたとき、自身を含めた社会の課題を認識することができる。それが、問題意識となり、それが信念を構成していくように思われます。
しかしながら、現在の教育は、自身の考えや気づきを大切にしない、言わば記憶をインプットしアウトプットすることに焦点化した詰込み型の代物となっています。真なる教育とは、自身の思いや考えを形成した上で、自身を含めた全ての他者の幸福のために考え行動できる人材を育てることにあると自身は考えます。多少の犠牲はやむを得ないのではなく、多少の犠牲も許さない。あらゆるすべての人々の幸福をめざし、粘り強く諦めずに知恵を絞ることが学問であり、それを伝えることが教育ではないかと思うのです。しかし、現下における我が国の教育制度は、単に記憶を正確にインプット・アウトプットする能力だけをその評価の指標に据えて、「エリート」と「落ちこぼれ」を選別していると言えます。人の能力を測る物差しは、数え切れない程あるにもかかわらず、如上の指標のみで子どもたちの能力を測り、そこで成績優秀な子どもたちが一流大学に入学し、一流企業に就職していく。しかし、彼らは、記憶のインプットとアウトプットにおいてのみその能力が証明されているに過ぎず、その他の能力例えば、討論力や独創性・創造性が必ずしも高いとは言えないのが現状ではないでしょうか。私の経験則では、エリートと言われる人たちの特徴として、特に独創性や創造性が希薄化していると実感しております。恐らく、適切な選択肢を選ぶ“選球眼”を鍛える勉強方法では、例えば、自らが新たな選択肢を創造することをそれが阻害しているのではないかと自身は考えております。となりますと、人生の成功において最も重要であると思われる信念の形成は、エリート諸氏にこそ難しい状況にあると言えるのではないでしょうか。その意において、人々が人生において成功する最も大きな障壁は我が国の教育制度にあるとも言えます。
植松氏の体験談はまさにそのことを物語っています。「この本(紙飛行機集)には、紙飛行機は本物の飛行機と同じ理論で飛んでいるから、紙飛行機の設計ができるようになったら本物の飛行機の設計ができると書いてありました。僕はもうそれに夢中になってしまいました。たくさんの計算式が出ていました。それはとても小学校三年生の筆算で解けるものではありませんでした。でも、家には電卓があったので、電卓を使いこなしたら計算できるようになりました。いつの間にか僕は、図鑑を開いてこの飛行機を飛ばしたいと思ったら、それを形にして飛ばすことができるようになっていました。でも、そのかわり筆算の能力は完全に失ってしまいました。だから、小学校の算数のテストはほぼ0点になってしまいます。でも、クラスの友だちは『紙飛行機のことだったら植松に聞け』と言ってくれました。(中略)ずっとやっていたら、やっぱり中学校でも成績が悪くなり、そして先生からも『おまえはこんなことやっているからダメなんだ』と言われてしまいます。でも、最終的にこれが僕に飛行機やロケットをつくる能力を与えてくれました。無駄なことでは全然ありませんでした(括弧内は中島)」※4。さて、飛行機の設計の計算能力を有する小学校三年生が、学校の算数テストでは0点しか取れない事実をどのように考えれば宜しいか。そして、その社会に役立つであろう真なる勉強をすればするほど、中学校における成績が落ちるという現実を私たちはどう捉えるべきでしょうか。つまり、現在を含めて文部科学省の教育システムは、真なる能力を伸ばすものでは無く、むしろそれを、潰すことにこそその“効能”があるようです。
オープンマインドであらゆることに挑戦することは大切なことです。しかし、そのことと同時に、自身の信念やこだわりといった拠り所も構築しておく必要性を感じます。100人いれば100通りの普通があるように、市井には多様な人々が共生しています。そこで、自身の信念を貫くことのいかに難しいことでしょうか。恐らくは、そこでは妥協点を見出しながらも如何に信念を貫けるのかといった戦略的対応が求められることでしょう。予てから私は、グレーの実践を提唱してきました。敢えて白黒をはっきりさせずに、大局観をもって物事を進めていくことの重要性を考えてのことです。しかし、その際も自身の信念のもとが白なのか黒であるのかをはっきりとさせた上で、グレーの実践に埋没することを説いています。つまり、自身の信念が白であれば、限りなく黒に近いグレーの実践には与することが出来ないということになります。それでも黒に近いグレーの実践に加担するとすれば、それは大局観を持った柔軟性ある実践を通り越して、人生における信念の変節に該当することになります。つまり、人生における成功ではなく、敗北を意味することになるでしょう。その意において、信念とは、多様な人々の集合体としての社会の中にあって、自身の言動の拠り所となる大きな指標ともなり得ます。その指標があればこそ、却って、世の中を上手く立ち回ることが出来る処世術としても有効なものになることでしょう。
若輩は思い考えます。信念なくして人生に成功はない。そして、その信念を構築する阻害要因が、教育制度をはじめとして我が国には数多あり過ぎることを。しかし、その様な状況下であるからこそ、今一度、「普通」や「常識」を度外視した自由な視点で、自身の思いや考えと向き合う営みが最も重要であることを。
※1 J.D.クランボルツ・A.S.レヴィン著 花田光世・大木紀子・宮地夕紀子訳 『その幸運は偶然ではないんです!』ダイヤモンド社P.221-222 2012年9月
※2 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.177 2013年1月
※3 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14 2013年1月
※4 植松努『NASAより宇宙に近い町工場』ディスカバーP.14P.73-75 2013年1月