閣僚をはじめとした政治家諸氏の「失言」は今に始まったことではありません。かつては、首相の「単一民族」発言に始まり、女性を「子どもを産む機械」と「失言」した大臣もいらっしゃいました。昨今では、大阪府知事による「慰安婦」発言や、先の副総理による「ナチス」発言が取り沙汰されています。そして、これらの「失言」は世論の批判を受け、多くが本人にとって渋々撤回や謝罪という形で処理されていきます。
さて、ここで素朴な疑問が浮かばれます。そもそも、「失言」とは何か?という日本語の捉え方に発展する疑問です。一般的に「失言」とは、言うべきではないことを、うっかり発してしまうことやその言葉であるとされています。「言うべきではない」とは、ある人前で、ある場所などの周囲の状況に応じてそうするべきではないと言っているのであって、「本心」や「本音」とはおよそ関係のないものであることが理解されます。つまり、「失言」の撤回は、必ずしも「本音」の撤回にはなり得ず、そして、その場合の「謝罪」は欺瞞的なものに過ぎないと言えます。「本心」や「本音」は結局のところその本人にしか認識できぬものなのですが、その「失言」の多くが渋々撤回されている事実を鑑みた時、周囲の状況と乖離した形で、本心や本音が思わず露わになったのが失言であると言えなくもありません。
周囲の状況に慮ることなく、そこから乖離した発言を安易にしてしまうことには、恐らく驕りであったり、慢心があるのかも知れませんが、大事なのはそれが本心であり本音であるのかその如何によるのでしょう。自身の事を俎上に載せて顧みても、失言の多くは「言うべきではない」場面において本音を漏らしてしまったことに端を発しているようです。また、如上の「失言」者のその後の対応を見る限りにおいても、それらが限りなく本心・本音に近いものであることを窺い知ることが出来ます。
斯様に失言とは、往々にして、普段からの考えや思い、更には本心や本音を表しているものであり、それが支援者に囲まれる等の話しやすい環境と相まって思わず露呈するものなのでしょう。その意において、失言こそが、その人の本質を突いているとも言えます。自戒の念を込めて、正にその本質が問われていることをここで確認しておきたいと思います。