「地域の絆」における「絆」は、多様な人々を結ぶ「絆」であり、地域における多様な個性を認め合う「絆」でもあります。しかし、取り立てて強調しておきたいのは「公益」と「私益」を結ぶ「絆」であるということです。「情けは人の為ならず」の視点において、他者の幸福と自身の幸福が、そして、他者の悲しみと自身のそれとが常に何処かで繋がっていることを明らかにする「絆」でもあります。よって、「地域の絆」が地域と向き合う理由は、誰かの支援を必要とする生活課題を抱えていらっしゃる人々の生活に触れて頂き、感じて頂き、それを他人事とはしない、自らのこととして捉える事の理解を促進することにあります。つまり、斯様な体験的学習を通した地域における福祉教育(昨今ある方から「social learning process」だと教わりましたが)の促進を通して、地域を、延いては社会の変革を促進していくことが我々の役目であると認識している所です。ですので、公助機能の補完役であるとか、その代替機能を担うと言う意識は正直持ってはおりません。なぜなら、我われの実践は、公助機能が基盤整備された上に付加されるべき形で展開されるものだと認識しているからです。
過日明らかになった「社会保障制度改革国民会議報告書」を読んでその思いを再確認しました。前段「社会保障制度改革推進法の基本的な考え方」を確認する形で、「国民の生活は、自らが働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという『自助』を基本としながら、高齢や疾病・介護を始めとする生活上のリスクに対しては、社会連帯の精神に基づき、共同してリスクに備える仕組みである『共助』が自助を支え、自助や共助では対応できない困窮などの状況については、受給要件を定めた上で必要な生活保障を行う公的扶助や社会福祉などの『公助』が補完する仕組みとするものである」と謳われています※1。また、ここで言う「共助」とは、「国民の参加意識や権利意識を確保し、負担の見返りとしての受給権を保障する仕組みである社会保険方式を基本とするが、これは、いわば自助を共同化した仕組みであるといえる」とある様に、自助を基本に据えているものであることが明文化されています※1。これは旧来からある我が国の社会福祉に対する形象と整合性のある方針であると理解します。つまり、自ら・家族が努力をし、そしてそれでも課題を克服できない様であれば、互助・共助の支援を経てそれでも駄目なら、初めて公的支援に辿り着けると言う流れが示されている訳です。如上の流れに依ってしか、福祉サービスに辿り着けないのであれば、サービス利用者の利用控えや利用者に対するスティグマは中々払拭されないように思われます。我が国で生活している人々は、自助・互助・共助に拘わらず要件を満たせば速やかに公的支援に接近ができるようにすることこそが政府の役割ではないのでしょうか。如上の要件であれば、公的支援を受ける人々が、自助・互助・共助を怠った帰結として周囲から捉えられる恐れがあります。結果、サービス受給に対するスティグマや利用控えが促進されることとなるでしょう。とどのつまりは、「社会保障制度改革においては、こうした自助・共助・公助の位置づけを前提とした上で、日本の社会経済の情勢の変化を踏まえて、その最適なバランスをどのように図るのかについて議論が求められている」とあり、社会保障の仕組みは経済情勢に拠ることが明示されるわけです※1。私たちの生活における「空気」や「水」と同等の社会保障が経済状況によっては保障されないとすれば、その様な社会が果たして如何ほどに成熟していると言えるのでしょうか。一般家計においても、借金をしてでも子どもを学校に行かせるわけですし、貯金を取り崩してでも医療機関に治療費を収めている訳です。マクロレベルにおいても、例えば、消防署や警察署が赤字を出しているからと言って要らないと言うことにはならないでしょう。それと同様に社会保障を捉えるべきなのですが、本報告書では、旧態依然とした方針が描かれることとなりました。
驚愕すべきは、厚労省が「夫婦世帯で年収三百数十万円、単身世帯では200万円台後半〜300万円程度」の人々に対する介護保険サービスの自己負担割合を1割から2割に引き上げる方針を打ち出したことにあります※2。対象者数は、数十万人に上ると推計されるとのこと。2005年10月「施設給付の見直し」において、宿泊費と食費が保険給付の対象外となった頃より、介護保険サービス費の1割負担であっても月々の支払い負担感が強くなり、サービスの利用控えが顕著になってきました。それが、2割になることで更なる利用控えが促進されることでしょう。また、1割負担者と2割負担者の調査及び把握を行う介護保険事業者の負担感や、利用者間の不公平感が促進されるのは目に見えています。厚労省は、対象者と非対象者の「線引き」についてそこに明確な根拠が示せるのでしょうか。つまり、年収幾ら以上の人々が「収入が一定以上の人」と断定できるのか、その根拠のことを指します。恐らくそれは難しく、現場は混とんとした状況に陥ることは避けられそうにありません。社会保障においては、低負担低福祉か、それとも中負担中福祉か、との議論があるようですが、その様な選択肢の設定自体が果たして妥当であり、根拠があるものなのかそれすら怪しく思えてきました。我が国の社会福祉において、最も手厚いサービスを受給しているのが高齢者であることは明白な事実でしょう。もちろん、これは絶対的な評価に拠るものでは無く、児童・障がい等のその他の分野と対比した相対的な評価に拠るものです。特に児童分野は惨憺たる状況ですね。その中にあって、月額約5,000円の介護保険料を納め、そして、サービス利用時には国民年金のほぼ全額以上の支払いを要求される現状を見れば、飽く迄も現場感覚での話に過ぎませんが、これは高負担と言い得るのではないかと認識する訳です。その高負担に果たして見合う、高福祉サービスとなっているのかは甚だ疑問に感じております。よって、高負担中福祉もしくは、中負担低福祉が我が国における現状では無いかと自身は分析しています。
「報告書」では、「地域包括ケアシステムの構築に向けて、まずは、2015(平成27)年度からの第6 期以降の介護保険事業計画を『地域包括ケア計画』と位置づけ、各種の取組を進めていくべきである」と述べています※3。斯様なことを促進させるために地域包括ケアがあるのであれば、諸手を挙げて推し進める訳にはいかなくなります。経済状況に応じた公的責任の逃避を補完する役割としての自動安定装置として、地域包括ケアがあるのであれば、これは明らかにクライエントの権利擁護からは懸け離れた代物となるからです。その反面、地域ケアや地域包括ケアは、冒頭述べたクライエントにとっての利益に繋がる可能性を秘めたものであるとも言えるでしょう。しかし、それはその実践を重ねる私たちの拠り所如何に依るとも言えます。政府の提唱する地域包括ケアを、クライエントの権利擁護を中心に据えたものに改変し、真に国民のために使いこなせる理念と技術を私たち実践家が有しているのかが問われている訳です。地域包括ケアには、斯くの如き諸刃の剣の作用があり、その刀の使い方によっては、クライエントを“切って”しまうこと、そして私たちの使命と誇りをも失墜させてしまうことに帰結することとなるでしょう。昨今における政府の見解や本「報告書」を紐解けば、その陥穽が白日の下に晒されることになります。
※1 社会保障制度改革国民会議「社会保障制度改革国民会議 報告書」P.2・3 2013年8月6日
※2 『朝日新聞』2013年8月26日
※3 社会保障制度改革国民会議「社会保障制度改革国民会議 報告書」P.29 2013年8月6日