さる10月14日、今年のノーベル賞の発表は終了しました。今年の受賞者には日本人該当者が皆無であり、それに応じて落胆の報道が成されているように見受けられます。毎年、この時期に若輩はいつも同様の疑念を抱くものです。それは、ノーベル賞とは如何なるものか?延いては、そもそも「賞」とは何なのか?という素朴な疑問から端を発するものであります。
ノーベル賞は世界的権威のある賞として、巷でも、その注目度は世界随一であり、毎年世論もこの話で持ち切りとなります。若輩の様に大よそ「賞」とは縁遠い立場であるからこそ、感じることがあるのかも知れませんが、世界的権威として、また公の立場から発せられる「賞」に対しては、基本的にその趣旨が理解できずにいるものです。その理由を以下叙述してみたいと思います。
例えば、当法人の就業規則においても「表彰」の規定があります。法人組織としては、そこに経営理念が描かれており、その共通理解を基に、これを実現するための方法・手段も組織の中では共有されているのが法人なり組織の一般的なあり方であると認識します。であれば、法人や組織が発する表彰なり賞は、その目的・目標を遂行するために、模範的な行動や実績に対して存在すると言えるのでしょう。法人や組織に、目指すべき・拠り所とすべき共通理念がある以上は、「表彰」や「賞」の発表はそれを実現する為の有効な手段と言えるのかも知れません。
斯様に鑑みれば、「賞」の発表は、ある基準に照らして、その指標で測った帰結としてその優劣を選考して成されるものと言えそうです。戦時中の軍隊においては、敵を殲滅、即ちその多くを殺すことによって、賞を受賞したのと同様に、そこに何らかの基準が無ければ成り立たない代物なのでしょう。若輩は、何かを目的として集まった集団(会社・法人・学会・専門職団体・宗教等)内においては、その目的に照らした基準に拠る賞の発表は理解ができます。しかし、世界・国家といった公が発する賞にはその基準が不明瞭に思えるのです。ある目的をもって集まった集団とは異なり、多様な個性の共生する現下の社会において、ある基準に拠って、その優劣を判断することが果たして可能なのだろうかと。そもそも、社会においてその優劣を選別する基準などあるのでしょうか。例えば、ノーベル文学賞の選考にノミネートする条件としては、その著書なりがイギリス語に訳されていなければならないと聞いています(少し古い情報を基にした指摘ですので、異なっていれば訂正します)。また、昨今鳥取県の条例において、手話が言語であることが採択されましたが、恐らく、手話などはその対象にはされていないのでしょう。これだけを取り上げて顧みても、ここには言語間の優劣性や差別性を垣間見ることが出来るのです。
今、世界の潮流は、明らかに個人の幸福を礎とした、多様性を認める社会構築へと流れていると見受けられます。その中にあって、何かの基準に基づいて発する賞は、その流れに逆行する要素を有しているのではないかと若輩は考えるのです。その賞が発せられる時、その選考の基準は、いったい何に、誰に、有利に作用しているのでしょうか。事実、その時々の権力に、公の賞は利用されてきたのではないかと勘繰りたくなる事象も散見されます。
この度のノーベル賞報道を拝見し、賞による能力や思想の画一化よりも大切なものがある事について改めて考えさせられました。斯様な受賞の在り方よりも最も大切なことは、少数派と言われる人々の声を丁寧に掬い集め、その発表の場を設けることこそが重要であり、この多様性を構築する営みこそが、本賞の発表よりも社会により有意義な貢献をもたらすことをこの場をお借りして確信する次第です。