かつて中東で日本人がテロの被害に遭うことは考えられませんでした。2004年頃から顕在化してきたイラク日本人人質事件からアルジェリア人質拘束事件まで、これらの経緯は、中東における日本に対する信頼が失われた帰結であると言えるでしょう。その信頼を喪失した大きなきっかけは、2003年からのイラク戦争であり、アメリカのそれを支持した我が国の姿勢にありました。その後、事の発端たる大量破壊兵器が最終的には確認できなかったことを受け、現在検証を重ねているイギリスに比べ、何の反省も、その検証すら行わない日本。リスクマネジメント論から言っても、この様な集団は同じ過ちを繰り返すことになるのは目に見えています。これも民主主義のあるべき姿を捉える際の重要な“教材”となることでしょう。
過日衆議院で可決された特定秘密保護法案に反対する市民の街頭デモに対して、与党・自民党幹事長がテロに譬えてブログで批判をした問題。その後発言の一部が撤回されたものの、以下の報道にある様にその本質は撤回されていないようです。「その後《ブログ発言謝罪後》、石破氏は記者団に『いつどこで、誰が誰から、なぜどのようにして攻撃を受けるかわからないのがテロだ』と指摘。『それ(街頭デモ)をテロと同じとみた、と受け取られる部分があれば、そこは撤回させていただく』と、デモとテロを同一視した部分を撤回した。それでも、『一般の方に大音量という有形の圧力を加えるという点で、(街頭デモは)民主主義と相いれない部分があり、(テロと)相通ずるものがある』と強弁した」(《 》内は中島)※1。当然の如く「謝罪」に匹敵する様に、テロとデモには、全く次元の異なる峻別されるべき違いがあることは言うまでもありません。しかし、そのことを前提に、フィクションやおとぎ話の世界で考えて、仮に、テロとデモに共通項があるとすればそれは一体何なのかとここでは考えてみることにしました。例えば、夜間当法人で仕事をしている折、強盗目的の侵入者に施設利用者や職員が襲われそうになる場面を見かけたら、自身は躊躇わず“武器”をもって侵入者に立ち向かうでしょう。もちろん110番等の最低限の措置は行いますが、そうしなければ大切なものを失うのであれば、自身で“武器”をもって立ち向かうしかありますまい。もし私が、テロの様は破壊的行為をするかも知れない場面を想像すれば、斯様な状況が想定されます。当然この想像上の行為は、やはりテロではなく、単なる正当防衛に過ぎない訳ですが、人々が他者に対して声高に主義主張を行う動機には、その人々なりの守るべき何かがあるからなのではないかと考えてしまう訳です。テロとデモが唯一共通することは、その行為の起点に社会に対する異議申し立てがあると言うことではないでしょうか。特に、その異議申し立てを受け入れる寛容さの無い社会において、その声と行為は益々力強く尖ったものになってしまいます。テロとデモの決定的な違いは、言わずもがな、その異議申し立ての主張の仕方にあるのでしょう。本来のデモは、その行為において他者の、特に社会的に弱い立場の人々の人権を侵害するものではありますまい。ところがテロは、他者の人権を決定的に、取り返しがつかぬ程に蹂躙してしまうのです。テロ行為自体は、いかなる理由があれども許されざる行為と言えます。
今回の幹事長発言を受けて、有難く再認識させて頂いたことは、テロやデモが起こる原因にこそ、その社会の本質があると言うことです。人々の異議申し立ての多い社会。もちろん、異議申し立ては民主主義の礎である訳ですから、それ自体は喜ばしいことかも知れません。しかし、その申し立てが既存の手続きでは到底受理されない社会環境や構造があるからこそ、人々は行動を起こすのではないでしょうか。バリ島で起こった爆破テロを受けて、2005年に週刊誌に投稿した以下の文を引用してみます。
「三年前に続き、バリ島南部の繁華街クタでまた爆破テロが起きた。この爆破テロ、五年前観光客として現地を訪れた人間としては、起こるべくして起こった感が強い。当時、現地で私が記した日記の一部から引用してみる。
『(バリと欧米・日本の)経済格差は揺ぎ無く存在し、その格差の狭間で、日本人・欧米人のリゾート地として発展してきたのだろう。揺ぎ無い経済格差、問題はそこに訪れた外国人ひとり一人がそれをどう捉えるかにある。「安く遊べる!」ただ単にそう思う人も多くいると思う。また、人権感覚の希薄な人は発展途上国の人を馬鹿にしたり、差別意識を持って来る。(中略)1ヶ月9000円程度の給与で生活している人々の前で、何万円ものお金をばら撒いて平気で遊べるこの感覚。それが全てを物語っている。欧米人もこれに同じだと思う。クタの少し裏通りで、欧米人が音楽に乗ってダンスを踊り飲み食いしているそのお店の横には、行き場のないかのような現地の子どもが座り込んでいる。どっちがその土地の「主人公」なのか分からない。人の地で、我が物顔でそのような振る舞いの出来る欧米人には“頭が下がる”。日本人もそれと同様の有り様だ』。
当時の外国為替は一円=約75ルピア、現在は一円=90ルピアである。依然として根強い経済格差は現在も存在する。現地を訪れる観光客の、人権感覚は果たして変わっているのか?」※2。
先の幹事長と異なり、若輩は、テロとデモを同列に扱う気は毛頭ありません。両者には、人権尊重と反人権という真逆の行為がその前提としてある訳ですから、同列に捉えて良いはずがありません。そのことを大前提としながら、その共通項を探ったとき、現下の社会に対する異議申し立てがその根底にあることは一つの事実として私たちは真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか。
原発再稼働や、特定秘密保護法に対してなぜこれ程までに人々は行動を起こし続けるのか。その人々の行動の背景にこそ私たちは目を向けるべきなのでしょう。少数派を排他・排斥する社会。少数派の意見を度外視・黙殺する社会。斯くの如き、不寛容な社会においてこそ、デモは必要不可欠な行為となり、別の次元においてテロも起こりやすくなるのではないでしょうか。そして、不寛容な社会は斯様な対立を醸成し、人々の信頼を挫くように作用する。まさに、冒頭の行は、信頼を喪失した社会がテロを発生させている事を暗に示すために用いたものでした。
不寛容に誰かを排他・排斥することで、人々の信頼を著しく損ねる社会。この非民主主義社会においてこそ、人々は異議申し立ての行動を起こすことは今更言うまでもないでしょう。そして、その非民主主義社会において、権力が更にデモを抑制し、その抵抗すら許容しなくなれば、これらの行為そのものが未来のテロを引き起こす契機を与えていると言えなくもありません。
昨今自身は考えています。諦めずに対話を続ける事、そこに信頼を僅かでも構築する努力が不可欠であると。斯様な、忍耐とある種妥協の連続、その煩わしく手間のかかる営みの中にこそ、私たちは民主主義を見出すことが出来るのかも知れません。問題の本質は、テロであったり、デモ自体にあるのではなく、これらを起こし得る現下の社会の在り方にこそあるのです。
※1 『朝日新聞』2013年12月2日
※2 「投書 二度も起きた爆破テロは」『週刊金曜日』2005年10月21日