多数派や権力の側が、その意見に反論する側に対して、よく「対案を出せ!」と一蹴する場面が見られます。まさに、参議院で審議中の安保法案にかかる遣り取りでお馴染みの政府の論法がこれです。他方においても、原発再稼働やTPP、アベノミクスなど、政府の打ち出す政策に抗弁するたびにこの対案要求論が浮上してきます。
ここで私たちは大きく三つの事を考える必要があります。一つは、私たちの社会では、基本的人権の尊重や平和主義、民主主義や社会正義など、人々の人間としての基礎的な権利や社会のあるべき姿について、一定の共通理解がなされており、その範疇での議論が展開されている場合は対案を出す必要があるということです。つまり、そこには、議論に参加する意義と一定の責務があると考えますが、そうではない場合、即ち、そもそも俎上に載せられている意見や理論そのものが、大きくこの社会の共通理解から逸脱をしている場合、その議論に参加すること自体が不毛であると捉える論点です。
なぜならば、人間の基礎的権利から逸脱した論理を前提とした主張に対案を講じるということは、その対案自体が、同じ逸脱の方向へと引きずり込まれることに繋がるからです。戦争のできる国になる法案に対する対案を出すということは、相手の土俵に乗るということであり、私たちが、「戦争のできる国」になることを志向した議論への参加を果たすことを意味するのです。そもそも対案とは、既存の主張を前提としたそれに対する別の案の事をいうわけですから、そこに参入することで、意識してか無意識かは別にして、相手の進路への接近を遂げてしまう危険が生じます。つまり、彼らの言う対案要求論は、自分たちの方針を前提にした方法論に対する議論への加入を求めているに過ぎないのがその姿勢の本質なのです。であるならば、こんな議論に付き合う事自体が、相手の計略にはまっていることになります。
加えて、悲しいことに私たち日本人は、特に、両者の言い分を公平に取り扱うという“謙虚な”思想の持ち主が多いように思います。公平に捉えた結果、両者には等しく「言い分」があるのだと理解してしまいがちです。しかしどうでしょう。例えば、武力行使を主張する主戦論者らと、憲法9条を堅持し平和主義を訴える人々とが議論をした場合、両者に等しく言い分があると私たちは言えるのでしょうか。両者に等しい言い分があると断じたこの時点で、私たちは、主戦論者の側の土俵に乗り、その片棒を担ぐことになっているのではないでしょうか。両者の意見を等しく取り扱うということは、主戦論者にも半分の道理があることを認めることになるからです。このように、人間の本質的権利から根本的に乖離している論理に対して、対案などを出す必要は断じてなく、むしろ、議論そのものへ参加することすら慎重になるべきだと私は考えるのです。
今一つは、対案までは構築できなくとも、おかしいと思ったことに反駁する人々の表現の自由の重要性にあります。情報量や財政力、連携力に圧倒的な格差のあるところに、精度の高い対案を要求されても、その時点で、対等な議論とは言えない実態があります。であるならば、対案構築までは出来ないが、少なくとも、政府の提示しているこの法案が、あるべき人間社会の根源に対比し、明らかに常軌を逸していると異議申し立てをすることは、人々の思想や表現の自由そのものであり、この自由が守られている社会にこそ民主主義が現存していると言えるのです。対案を保持しない反論も、決して軽んじてはなりません。
最後に、あらゆる議論において、両者の言い分を公平に聴くこと自体はよいのですが、平等に受け止めるがゆえに、その間をとって折衷案を出すという手法がよく見受けられます。特に、私たち日本人は。この手法を堆積していくと、議論そのものが極端な方向へ漸次牽引されていく可能性が生じることと、そうでない場合は、無難な結論を選択する議論の先細りの傾向が生じる恐れがあります。あらゆる議論のあり方としては、両者の意見のいずれを選択するのか、その選択した一方の意見をいかにして昇華させていくのかという方法が最も有効であると考えています。意見の間をとる方法を継続することで、その社会や組織は、議論の活性化を喪失し、思索や創造の機会を減退させ、そして、その発展を停滞させることに帰結するからです。そして、この場合、両者の意見は、多数派・少数派の如何にかかわらず、全ての構成員が十分な議論を経てその一方を選択することになります。つまり、多数決という方法をなるべく取らずに、構成員間の自由な議論を通して、合意を得る努力を蓄積することこそが重要であると考えるのです。今こそ、基本理念に立ち返った本質的な議論を丁寧に堆積することの重要性を確認すべきです。
以上のことから、今回の安保法制に対する対案や折衷案の提示は、全く意味がないばかりか、その事に捉われてしまうことで、却って、人間の基礎的権利を剥奪し、また極端に乖離した本法案に対する根源的な批判が稀釈され、現下の社会構造の本質的意味を私たち自身が自問自答する思考と想像の機会をも失してしまうことに連なると断言できます。
つまり、人間の基礎的権利と社会の仕組みに対する共通理解の外にある主張に対しては、その意見が如何に、反人権的であり、反平和主義に依拠しているのかを厳然と解き明かしていけばよいのです。人間の基本的権利を理解している多くの人々にとっては、実に馬鹿らしくとても相手にできない法案であることを前提に…。